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いろんな演奏がある意味は…

とくにクラッシックのばあい、おんなじ曲でも演奏によってずいぶんちがうようなことをうるさくいうけど、それじゃ、その曲のほんとにただしい演奏ってものはないのかな。かんたんにかんがえれば、作曲家が演奏すればそういうものになりそうだけど、どうもそういうもんでもないらしい。

で、結論からいえば、そんなものはやっぱりないだろう。このことについてちょっとおもいついたことをかきたいとおもう。

西洋哲学のほうで、永遠っていうものについて有名な定義がある。代表的なのはボエーティウスの『哲学のなぐさめ』5.6(p).4-5 にでてくる文章で、そこを引用するとこうなってる。

Aeternitas igitur est interminabilis vitae tota simul et perfecta possessio, quod ex collatione temporalium clarius liquet. Nam quicquid vivit in tempore, id praesens a praeteritis in futura procedit, nihilque est in tempore constitutum, quod totum vitae suae spatium pariter possit amplecti.

ところで永遠とは、限りない生命を同時に全的かつ完全に所有することである。これは、時間的事物との比較によってなお一層明白になる。すなわち、時間の中に生きるものは、今は現在的であっても、それは過去から来たり、未来へと進むのである。したがって、時間の中に規定される何ものといえども、その生命の全領域を同時的に包括することはできない。
(畠中尚志訳『哲学の慰め』岩波文庫。ただしかなづかいを「現代仮名遣い」に、漢字の旧字体を新字体にあらためて、漢字を一部ひらがなになおした)

この永遠と、それに対する時間のなかの現象とのちがいを音楽にあてはめてみると、つぎのようなことがかんがえられるだろう。

演奏っていうものは時間のなかの現象だから、「時間の中に規定される何ものといえども、その生命の全領域を同時的に包括することはできない」ってことからすると、1回の演奏のなかで、その曲にひそんでるっていうか、もともとふくまれてる要素が全部同時にあらわれることはありえない。

たとえば、はやいテンポで演奏するのと、おそいテンポで演奏するのとでは曲の感じがちがってくる。このちがいは1回の演奏のなかで同時にあらわすことなんてできない。同時にはやくておそい演奏なんてありえないんだから。

テンポのちがいによってあらわれてくるべつべつの性質は、“その曲そのもの”にはもともと全部ふくまれてるけど、実際の演奏となると、それを1度に全部あらわすことなんてできない。もちろん、テンポのちがいだけじゃなくて、解釈によってかわってくる要素がいろいろあるわけで、そういうのにしてもおんなじことだ。

こういうふうにひとつの演奏のなかでいっしょに表現できない要素があるから、それをあらわすためにはそれぞれべつの演奏が必要になってくる。

ってことで、ある曲の可能性すべてを実現した、ただひとつのただしい演奏なんてものはない。だからこそいろんな演奏があっていいし、なくちゃいけない。その意味じゃ、どの演奏も不完全なもので、いろんな演奏からその曲の全体像がうかびあがってくるっていうことになるだろう。

ボエーティウス:ボエティウス。

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2004.10.23 kakikomi; 2010.09.07 kakinaosi

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