« 金剛サッタの百字真言 | トップページ | ペ・ヨンジュンの漢字 »

スポーツと偶像崇拝

「偶像崇拝」はギリシャ語で εἰδωλολατρία [eːdɔːlolatríaː エ~ドーロラトリアー]/εἰδωλολατρεία [eːdɔːlolatrěːaː エ~ドーロラトレ~アー]っていって、これがラテン語の idololatria [イードーロラトリーア]になったんだけど、おんなじおとがつづくもんだから、そこがみじかくなって中世ラテン語で idolatria っていうかたちができた。それがもとになって英語の idolatry とかになった。このなかには idol [アイドル]ってことばがふくまれてる。idol はもちろん「偶像」っていう意味だ。

だからってことでもないけど、偶像崇拝はアイドル崇拝っていいかえることもできなくはない。現代的な偶像崇拝の対象として、アイドルとか有名人、芸能人とかスポーツ選手のことをかんがえることができるだろう。

中年女性のおっかけがマスコミにとりあげられることがあるけど、中年男性のおっかけならすこしもめずらしくない。むかしからゴロゴロいる。代表的なのはプロ野球の応援団だ。こういうふうにオヤジがおっかけをやっても話題にならないのに、おばさんだと話題になる。マスコミの組織がオヤジ中心だからかな。

まあ、それはともかく、長嶋元監督のことを神さまみたいにおもってる有名アナウンサーとか有名プロデューサーがいるのをはじめとして、有名スポーツ選手を崇拝してるのがけっこう目につく。こういう風潮は、どこからきてるんだろ。

スポーツ大会を「神がみの競演」なんていうことがあるわけで、こんなことからしても、なんか宗教的な要素がありそうだ。《ほんとの神がみ》じゃなくて、運動能力があるただの人間を崇拝するようになったおおきな原因のひとつは、伝統的な宗教がちからをうしなったからなんだろう。

ただし、スポーツ選手を崇拝するってことだけなら、スポーツそのもののことじゃなくて、みてるひとの反応にすぎないけど、スポーツそのものにもなにか宗教の肩がわりをするような要素があるのかもしれない。だからこそ、そういうものに特別な能力を発揮するひとをあがめたてまつることにもなるんだろうし。

このことに関して興味ぶかい文章をシュタイナー教育の本でみつけた(シュタイナー『子どもの健全な成長』西川隆範訳、アルテ)。

現代の主知主義は、明晰さに向けて努力しています。しかし、主知主義は最終的に、無意識・本能的なものに導きます。主知主義は、かつては明確な知識を提示した宗教の叡智を、不透明で無力な信仰にしました。宗教が超感覚的な知識に基づいていたあいだは、その知識は人間の肉体にまで力を注ぐことがことができました。しかし、知識とともに、その力も消えうせました。そうして、かつては精神から取り出したものを、物質のなかに探そうという本能的努力が、人間のなかに目覚めました。こうして、スポーツが生まれました。

スポーツ選手にしても観客にしても、スポーツによせる情熱をかんがえると、このことはわかるような気がする。自分は宗教みたいな迷信とは関係ないっておもってても、スポーツっていうかたちで宗教的な衝動に身をゆだねてるひともけっこういるってことになるのかもしれない。自分でスポーツすることも、スポーツ大会のおおさわぎも、選手崇拝も、伝統宗教がになってたものの代用品っていう要素がある、ってことになるだろう。

「精神から取り出したものを、物質のなかに探そうという本能的努力」っていうのは、自然科学にもあてはまるかもしれない。中世ヨーロッパにうまれたら神学者か哲学者になってたようなひとが現代だから自然科学者になってるっていうこともあるだろう。そのためか、客観的で冷静な科学っていうより、科学を信仰するような科学主義もうまれることになる。

もちろん、伝統宗教がおとろえたのにも理由があるんだろうから、たんにむかしのものを復活させればいいってことにはならない。むかしのものがダメになって、なにか問題がおこってきてるんなら、それにかわるあたらしいものをつくってくしかない。社会背景がちがってきてるのに、むかしのものを復活させようなんていうのは現実的じゃない。復活させることじたいムリだとおもうけど、復活できたとしても、世のなかも人間もかわってるんだから、もうおんなじ効果はないにちがいない。ところが、むかしはよかった、って感じで、戦前だか明治だかの《伝統的》とか称するものを復活させればいいって安直にかんがえているひともいるみたいで…。

2004.12.21 kakikomi; 2011.01.05 kakinaosi

|

« 金剛サッタの百字真言 | トップページ | ペ・ヨンジュンの漢字 »