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金剛サッタの百字真言

百字真言の功徳][百字真言の本文(もともとのかたち)][百字真言の輪のイメージ][本文の解釈][翻訳][百字真言のラップ][百字真言とにてる真言][おもな参考文献

真言しんごんっていえば、日本の密教だと不動明王みょうおうの真言とか光明こうみょう真言が有名だけど、チベット密教の本には金剛サッタ(金剛薩埵 वज्रसत्त्व vajrasattva [ヴァッジュラサットワ])の百字真言がよくでてくる。金剛サッタの浄化法のときにとなえたり、そうじゃなくてもちょっとしたときに罪やあやまちをきよめるためにとなえたりするらしい。そのへんはちょっとヒンドゥー教のガーヤトリー・マントラににてるかもしれない。

日本の密教でもつかわれてるみたいだけど、一般むけの日本密教の本をみるかぎりじゃ特別重要な感じはしない。っていうか、ほとんどでてこないとおもう。そんななかで、頼富本宏『『金剛頂経』入門―― 即身成仏への道』(大法輪閣)には、

この通称「百字真言」は、その内容から判断して非常に重要な意味を持つことは疑いない。その証拠に日本の「金剛界念誦次第」の中で、中心となる本尊ほんぞん加持かじの個所で、羯磨会かつまえ(成身会)の大日如来の印(智拳印)・みょう(真言。オン・バザラダト・バン)に続いて、「金剛部百字こんごうぶひゃくじみょう」としてこの百字真言を唱えているのである。

『金剛頂経』という聖俗合一を標榜ひょうぼうする瑜伽密教の一つの到達点というべき真言であり、日本の密教では、本尊・大日如来の「オン・バザラダト・バン」と並列され、(…)

っていう説明がある(まちがいとおもわれる文字をなおして引用した)。

百字真言の功徳

百字真言はいろんな密教経典にでてくるけど、中期密教の代表的な経典『初会しょえ金剛頂経こんごうちょうぎょう』(『真実摂経しんじつしょうきょう』)には、この真言の功徳くどくつまり ご利益りやくを説明してる文章が真言の前後にある。ここでは百字真言の意味を文法を無視しないでみていきたいとおもうけど、まずはこの『初会金剛頂経』の百字真言の説明文からはじめよう。

『初会金剛頂経』の漢文(中国の文語文)訳にはいくつかあるんだけど、全体を訳した三十巻本の『仏説一切如来真実摂大乗現証三昧げんしょうざんまい大教王経だいきょうおうぎょう』(大正新脩大蔵経 No.882、vol.18)は宋の時代のもので、真言宗の開祖空海のころにはまだなかった。だから、真言宗で『金剛頂経』っていえば、まずは三巻本さんがんぼんの『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』(大正蔵 No.865、vol.18)と『金剛頂瑜伽ゆが中略出念誦経ねんじゅきょう』四巻(大正蔵 No.882、vol.18)のことになる。このうち『略出念誦経』のなかみはだいぶちがってて、百字真言はでてくるにしても、前後の説明文がない。三巻本には最後のほうに百字真言とその説明文がでてくる(三十巻本の最初のほうが三巻本にあたる部分だから、三十巻本にもおんなじように百字真言とその説明文がもちろんある)。

その部分のサンスクリット語の原文を、まずは真言のまえにある文章からみていこう(つづりは標準的なものになおした)。

अथ सर्वमुद्राणां सामान्यः स्वकायवाक्चित्तवज्रेषु वज्रीकरणविधिविस्तरो भवति। यदा मुद्राधिष्ठानं शिथिलीभवति, स्वयं वा मोक्तुकामो भवति, ततोऽनेन हृदयेन दृढीकर्तव्या।

atha sarvamudrāā sāmānya svakāyavākcittavajreu vajrīkaraavidhivistaro bhavati|yadā mudrādhiṣṭhāna śithilībhavati, svaya vā moktukāmo bhavati, tato ’nena hdayena dṛḍhīkartavyā|

つぎに、みずからの からだと ことばと こころの金剛において、すべての印契いんげいを金剛のように堅固にする共通の広大儀軌ぎきがある。印契の効力がおとろえたり、自分から印契をときたくなったときには、つぎの心真言によってゆるぎないものにしなければならない。

ここではまず「すべての印契を金剛のように堅固に」しようとするときに百字真言をつかえっていってる。原文どおりだと「金剛のように堅固にする」はただ「金剛(のよう)にする」で、これは金剛堅固にする、強固にする、確実なものにする、確固たるものにする、動揺しないものにする、ゆるぎないものにするってことだから、ことばをおぎなって「金剛のように堅固にする」って訳した。「儀軌」っていうのは儀式の規則・手順っていうことで、とくにくわしくも ながくもないんだけど、たいてい「広大儀軌」っていいかたになってる。それから、「印契の効力」って訳したとこは、密教の用語をつかえば「印契の加持かじ」になる。

「印契」っていうのはサンスクリット語の मुद्रा mudrā [ムッドラー](刻印、封印、印章、記号)の翻訳で、たんに「いん」ともいうし「印相いんぞう」ともいうんだけど、印っていうとまずおもいうかぶのは、「印をむすぶ」っていういいかたがあるように、手でむすぶ印だろう。仏像をみると、手でいろんなポーズをしてるけど、ああいうのがそうだ。これは手印っていって、たしかにそれも印契なんだけど、『金剛頂経』にはいんっていう4種類の印契がでてくる。大印とサンマヤ印と法印とカツマ印だ。これがどういうものなのか説明によってちょっとしたちがいがあるから、ここではとりあえず2冊の本から四印の説明を引用しておくことにする。

特定の尊格=存在者に対する象徴ないしは象徴的表現のこと。まず三昧耶サマヤ印(特定の尊格の内面性を象徴する象徴的な形象)、法印(同じく、その法=真理ないしは言説ロゴスを象徴する特定の種子シラブルないしは真言)、そして羯磨カツマ印(同じく、行為・活動を象徴する動作ないしはその手印による表現)の三種(=三密)があり、それらの三者が綜合されたもの(一尊をその全体として表現する……)を大印と称する。
(津田眞一訳『和訳 金剛頂経』東京美術、カタカナのふりがなだけ のこした)

この説明だと、サンマヤ印(サマヤ印)と法印とカツマ印が三密に対応して、それを総合したものが大印だっていってるけど、伝統的には大印が身密にあてられて、大印とサンマヤ印と法印で三密になるみたいだ。つぎに引用する説明でもそうなってる。それにしても、大印とカツマ印の関係はちょっとわかりにくい。

 最初の大印だいいん(偉大なるしるし)の智恵とは、一言でいえば「ほとけとなる智恵」をさす。この場合、大印とは「ほとけの全体的なしるし」といえようか。

〔…〕四種の象徴体系である四印の冒頭の大印は、直接的には聖なる各ほとけの姿を象徴的に表現する言葉で説かれており、後述する三昧耶印・法印・羯磨印ほど具体的ではない。
 もっとも、現実的には、実際の全体的印相やもつでもって各ほとけの働きと意味を表現しようとする羯磨印とほぼ同じ印相として表されることが多いのも、歴然たる事実である。その証拠として、教学的には、大印は、身・口・意の三密(三種の行為形態)では、身体的表現にあたる身密しんみつに配当されている。

 四種の象徴体系である四印の第二は、三昧耶印さんまやいんである。三昧耶とは、梵語のサマヤ(samaya)の音写であることは、よく知られている。サマヤには、「約束」「契約」などの意味もあるが、三昧耶印の場合、仏・菩薩などのほとけの誓い(働きの宣言)を端的に示すことができる手印しゅいん(手のしぐさ)であり、四印の最後の羯磨印(業印ごういん)とは異なって、主に両手の指だけを組み合わせて表現するところに特色がある。

 四印のうち第三の「法印ほういん」は、漢字から受ける印象では「法律」「憲法」などの規律的・規則的な堅苦しいイメージが脳裏に浮かぶが、仏教的にいえば、聖なる言葉、または威力ある言葉を意味する陀羅尼だらにと密接不可分の関係にある。
 すなわち、原語であるインドの梵語ぼんごさかのぼってみれば、「法」の原語ダルマ(dharma)は〔…〕「聖なるものを保った真理」をさしている。他方の陀羅尼とは「真理を保つ聖なる言葉」にあたり、大乗仏教から密教にかけては、聖なるほとけや経典から流れ出る力を私たちに伝える主導力となった。
 『金剛頂経』に説く四種の象徴体系でも、陀羅尼、もしくは真言にあたる法印は、大印を言葉によって表現したもの、あるいは印相を直接的に強調した三昧耶印に対応する真言として、〔…〕金剛界・大マンダラのほとけたちを、短いが意味のある梵語で発音し、その音に秘められた力(しぐさと象徴)で聖なる世界を表現しようとするものである。

 マンダラを形成する聖なるほとけを、全体的(抽象的)姿、両手の印相、そして言葉という三種の方法で表現しようとして、四印の象徴体系が『金剛頂経』において説かれた。漢訳やチベット訳に残る注釈書では、上記の三種の「印」を順に身密しんみつしん)密・密に配当している。
 ところが、仏教美術の面や、より深い哲学的解釈のレベルからいえば、上記の三種の象徴体系を実際の現実世界に適応させ、私たち凡人にもわかるように表現しなければならない。そこで、上記の三印が実際に仏像などの可視的な姿をとって表現される場合の具体的な姿・形が必要となる。それが「行為」「行動」を意味する「羯磨かつま」(karman)を冠した「羯磨印かつまいん」である。そして、現実としては「図像」と呼ばれるほとけたちの姿・形は、この羯磨印に基づいて表されるのである。〔…〕通常、五智ごち如来と呼ばれる大日如来を筆頭とする金剛界五仏の姿は、『金剛頂経』の四印のうち、大印ではなくて羯磨印に依拠しているのである。
(頼富本宏『『金剛頂経』入門』)

印契のことはこれぐらいにして、はなしをもどすと、『金剛頂経』の原文からすれば、百字真言は「すべての印契を金剛のように堅固にする」ものなんだけど、たいていこれとはちがうことがいわれてる。たとえば、『真言宗教相全書 第七巻 金剛頂経〔下〕』(四季社)は、この箇所を「一切の印に共通な身口意金剛を金剛堅固にする儀則」ってまとめてて、

 印を結ぶ修法において、疲労を感じたり、集中力を欠いたり、加持力が緩慢となったりしたときに用いる真言とその功徳の解説。この真言は「大乗現証の真言」、あるいは梵字で百の音節からなるので、「百字真言」と呼ばれる。行者の罪を消滅させ、身口意の三密を堅固にする作用がある。

っていうふうに説明してる。前半はそのとおりだけど、「身口意金剛を金剛堅固にする」「身口意の三密を堅固にする」っていうのは、ここの文章の解釈としては疑問におもう。津田眞一訳『和訳 金剛頂経』もおんなじ路線で解釈してて、「一切の印契に共通する自己の身・語・心金剛を金剛(の如くに堅固)にする広大儀軌」って訳してる。でもこれは『金剛頂経』にかいてあることとはちがうんじゃないかな。

ちなみに、「しん」「身語心」っていうのは、からだと ことばと こころってことで、日本の密教だと「身口意」っていうことがおおい。

で、原文からすると、まず「一切の印に共通な」「一切の印契に共通する」っていうよみかたがちがってるとおもう。「共通の」っていう sāmānya は具格の名詞をうける。でも、「一切の印契」の sarvamudrāā は属格だ。内容としては「一切の印契に共通」ってことになるんだろうけど、単語のかかりかたとしては sarvamudrāā は sāmānya には直接つながってない。この属格は vajrīkaraavidhivistaro (金剛のように堅固にする広大儀軌)かその一部 vajrīkaraa- (金剛のように堅固にする)にかかってるはずだ(複合語の外にある要素が複合語の一部にかかることもある)。

百字真言がでてくるこの儀軌よりふたつまえには、

अथ सामान्यः साधनविधिविस्तरो भवति।

atha sāmānya sādhanavidhivistaro bhavati|

つぎに成就法に関する共通の広大儀軌がある。

っていうとこがあって、ここには「共通の」にかかることばはなんにもないから、こういう文章があることからも、「共通の」にかかることばがとくに必要じゃないのがわかる。

それから、百字真言の儀軌のつぎには、

अथ सर्वमुद्राणां सामान्यो मोक्षविधिविस्तरो भवति।

atha sarvamudrāā sāmānyo mokavidhivistaro bhavati|

っていうとこがあって、津田訳でもここは「次に一切の印契を解くための共通の広大儀軌がある」って訳してる。つまり、属格の sarvamudrāā (一切の印契)を sāmānyo (共通の)とはむすびつけないで(sāmānyo と sāmānya はサンディつまり連声れんじょうで発音がちがってるだけで、まったくおんなじもの)、moka- (解く)のほうにかけてる。百字真言のとこだって、これとおんなじはずだ。

さらに、「自己の身・語・心金剛」の svakāyavākcittavajreu は処格だから「金剛のように堅固にする」の目的語じゃないだろう。ここんとこを、岩本裕訳『仏教聖典選 第七巻』(読売新聞社)は「自身の身体と言葉と心の金剛において」っていうふうにちゃんと訳してるし、ちょっとはっきりしない感じもするけど「印契を堅固にする」っていう解釈になってるんじゃないかとおもう。

こういうふうに文法的にみてみれば、百字真言は直接 修行者のからだと ことばと こころを堅固にするんじゃなくて、修行者のからだと ことばと こころにおいて印契を堅固にするってかいてあるのがわかるはずだ。

もちろん、印契のはたらき・効力、印契の加持が堅固になれば、その結果、修行者のからだと ことばと こころの金剛も堅固になるんだろうから、結局はおんなじことかもしれないけど、ここの文章の意味としては、直接いってるのは印契を堅固にするってことだ。

このことを最初にとりあげたのは、これが百字真言の解釈におおきく影響してるっておもうからだ。そのことについては、このあと真言そのものをみてくときにふれることにする。

つぎに、真言のあとにある説明文もみておくことにしよう。

अनेनानन्तर्यकारिणोऽपि सर्वतथागतमोषका अपि सद्धर्मप्रतिक्षेपका अपि सर्वदुष्कृतकारिणोऽपि सर्वतथागतमुद्रासाधका वज्रसत्त्वदृढीभावादिहैव जन्मन्याशु यथाभिरुचितां सर्वसिद्धिमुत्तमसिद्धिं वज्रसिद्धिं वज्रसत्त्वसिद्धिं वा यावत्तथागतसिद्धिं वा प्राप्स्यन्तीत्याह भगवान्सर्वतथागतवज्रसत्त्वः॥

anenānantaryakārio ’pi sarvatathāgatamoakā api saddharmapratikepakā api sarvaduktakārio ’pi sarvatathāgatamudrāsādhakā vajrasattvadṛḍhībhāvād ihaiva janmany āśu yathābhirucitā sarvasiddhim uttamasiddhi vajrasiddhi vajrasattvasiddhi vā yāvat tathāgatasiddhi vā prāpsyantīty āha bhagavān sarvatathāgatavajrasattva

この真言によるなら、無間の罪をおかしても、一切の如来をあざむいても、ただしい教えをそしっても、あらゆる悪行をはたらいても、一切如来の印契の修行者は、金剛サッタがゆるぎないものになるので、まさにこの生涯においてすみやかに、望みどおりのあらゆる成就、最高の成就、金剛の成就、金剛サッタの成就、さらには如来の成就までも獲得するだろう、と世尊一切如来金剛サッタは言った。

「無間の罪」っていうのは五逆罪のことをいってる。五逆罪っていうのは、母親をころす、父親をころす、アラカンをころす、如来のからだを傷つけて出血させる、教団(僧伽そうぎゃ संघ sagha [サンガ])を分裂させる、っていう罪で、これをおかすと無間地獄におちることになってる。「無間」(もともとは「むけん」、のちには「むげん」とも)っていうのは「たえまない」ってことで、この地獄ではたえまない せめ苦がつづく。8層になってる地獄のうちでいちばん下にあって、いちばんおおきい。

「成就」って訳したのは siddhi で、意味は「完成、達成、成功、効果」ってことだけど、神通力のことだったりもする。発音をうつした「悉地[しつじ/しっち]」っていうのが密教の用語としてつかわれてるけど、ここでは直訳の「成就」をつかうことにする。

ここには成就の種類がいくつかでてきてるけど、『金剛頂経』にはこういう成就を実現する方法を説明してるとこがあって、そこでいわれてる成就をまとめてみると、こんな感じだ。

地中の財宝をみつける
水の上をあるく
仏のすがたになる
すがたがみえなくなる
空中にうかんだり、あるいたり、とどまったりする
持明者じみょうしゃになる
五神通ごじんずうを獲得する
持金剛(金剛サッタ)になる
仏の状態に達する

持明者っていうのは、みょうविद्या vidyā [ヴィッデャー])をもってるひとってことなんだけど、その明っていうのは明王みょうおうの明で、呪文とか呪力、そういう知識のことをいってる。五神通は、おもいどおりにすがたをかえて おもいどおりにどこにでもいける神足通じんそくつう、目にみえないものまでみとおせる天眼通てんげんつう、ふつうのひとにはきこえない音まできこえる天耳通てんにつう、ひとのこころがわかる他心通たしんつう、ひとと自分の過去世のことをしりつくす宿命通しゅくみょうつうっていう5つの超能力のことだ。

説明文のまんなかあたりにある「一切如来の印契の修行者は、金剛サッタがゆるぎないものになるので」って訳した sarvatathāgatamudrāsādhakā vajrasattvadṛḍhībhāvād はちょっと問題なとこかもしれない。岩本訳は「一切の如来の印を成就する。しかも、金剛薩埵の堅固な性格から」、津田訳は「一切如来の印契を成就することができ(るから、それによってその身・語・心は)金剛薩埵の如くに堅固となり」ってなってる。

まず前半だけど、岩本訳も津田訳もおんなじことで、-sādhakā を形容詞の「…を完成する、なしとげる」っていう意味にとってるんだろう。たしかにこれでもおかしくないのかもしれないし、百字真言は印契を堅固にするっていうんだから、これがぴったりなのかもしれない。

でも、それより、この -sādhakā は成就法(sādhanā)を実践するひとってことなんじゃないのかな。『金剛頂経』で印契をといてるとこにはそれぞれの成就法がでてくるし、密教の行はみんな印契をつかうんだから、印契の成就法の実践者っていうのは要するに密教の行の実践者、密教の修行者のことだ。ここの原文の構造は -sādhakā が主語で、それを動詞の prāpsyanti がうけてて、いくつもある -siddhi はこの動詞の目的語だし、ほかは主語と動詞の修飾句だ。だから、ひとつづきの文章なんだけど、翻訳としては岩本訳みたいに文章をわけたってもちろんおかしくはない。でも、その訳だと前半と後半の関係がよくわかんないとおもう。

それに、岩本訳みたいに「金剛薩埵の堅固な性格」っていうんなら、その原文は -dṛḍhī- じゃなくて -dṛḍha- のはずなんじゃないかな。津田訳のほうは「金剛薩埵の如くに堅固となり」って訳してるけど、たしかにそういう解釈もできるだろう。でも、なにが堅固になるのかそれだと原文からははっきりしない。だからこの翻訳は原文にない「その身・語・心は」っていうのをカッコにいれておぎなってるけど、そういうふうに修行者の身・語・心が金剛サッタのように堅固になるっていう解釈になるのは、百字真言が修行者の身・語・心を堅固にするものだっておもってるからだろう。

ところで、『金剛頂経瑜伽修習しゅじゅう毘盧遮那びるしゃな三摩地法さんまじほう』(大正蔵 No.876、vol.18、p.331)にも百字真言のあとに説明があって(『念誦結護法普通諸部』(大正蔵 No.904、vol.18、p.903)にもほとんどおんなじのがある)、『初会金剛頂経』と似たようなことがかいてある。ちがいが原文によるのか、翻訳によるのかはわかんないけど、その説明文もみてみよう。

由以摩訶衍那百字真言加持故。設犯五無間罪。謗一切諸仏及方広経。修真言者。以本尊堅住己身故。現世所求一切悉地。所謂最勝悉地。金剛薩埵悉地。乃至如来最勝悉地。

摩訶まか衍那えんな百字真言を以て加持するに由るが故に、たとひ五無間罪を犯し、一切諸仏及び方広経をそしるとも、真言を修する者は、本尊己身に堅住するを以ての故に、現世に所求しょぐ一切悉地す。所謂いはゆる最勝悉地、金剛薩埵悉地、乃至ないし如来最勝悉地なり。

大乗百字真言によって加持するのだから、たとえ五無間罪をおかしたり、一切の仏や経典をそしったとしても、真言の修行者は、本尊が自分の身にしっかりと とどまるので、この生涯で もとめるすべての成就を獲得する。いわゆる最高の成就、金剛サッタの成就、さらには如来の最高の成就である。

文章全体のおおまかなとこは『初会金剛頂経』とおんなじだとおもうから、いま問題にしてるサンスクリット語の原文を解釈する参考になるんじゃないかとおもう。これをみると、「真言を修する者は」が主部で、これは -sādhakā が主語だっていうのに対応してる。こっちは印契じゃなくて「真言を修する者」っていってるわけだけど、真言は印契のひとつの法印だともいえるから、「印契を修する者」っていってるのとおんなじようなことだ。「修する者」の原文は -sādhakā だったのかもしれない。そうじゃないとしても、とにかく真言を「成就する」とは訳してない。そのあとの「本尊己身に堅住するを以ての故に」は「金剛サッタがゆるぎないものになるので」とおんなじことをいってるんだろう。修行者が直接堅固になるとはいってない。だから、いまここで訳してるのとおんなじ内容になってるとおもう。

もうひとつ、百字真言の説明をみてみよう。『金剛頂瑜伽他化たけ自在天理趣会りしゅえ普賢ふげん修行念誦儀軌』(大正蔵 No.1122、vol.20、p.527)にはこうかいてある。

由是加持無上菩提尚不難得。何況諸余成就。設犯五無間罪。纔誦消滅無余。何以故。由本尊堅住己身故。

是の加持に由つて無上菩提すら尚ほ得難からず。何ぞいはんや諸余の成就をや。設ひ五無間罪を犯すとも、わづかに誦すれば消滅して余り無し。何を以ての故に。本尊己身に堅住するに由るが故なり。

この真言の加持によって最高のさとりですら獲得することはむずかしくないし、そのほかの成就はいうまでもない。たとえ五無間罪をおかしたとしても、この真言をとなえればたちまち罪は消滅してなにものこらない。なぜそうなのか。本尊が自分の身にしっかりと とどまるからである。

これはだいぶ文章がちがうけど、いってることはおんなじだ。ここにかいてある百字真言の効力として、あらゆる成就を獲得できるっていうのと、五無間罪みたいな罪でもきえるっていうのがあるわけだけど、そうなるのは、本尊が自分の身にしっかりと とどまるようになるからだっていってる。

こうしてみると、はなしの順序としては、百字真言によってまずは本尊つまり金剛サッタが自分の身にしっかりと とどまるようになって、その結果、あらゆる成就が実現する、ってことになる。印契についてもおんなじことだろう。

真言のまえにある説明文だと、この真言は印契を堅固にするってことだった。でもこれは印契との関連でそういう説明になってるだけなんじゃないかな。密教の行法は印契をつかうものだから、行法の説明としてはとうぜん印契のことになるし、これがでてくる三巻本の最後のほうは印契に関して共通の手順をいくつかつづけて説明してるとこだから、印契のことをきっかけにして百字真言のはなしを導入しただけで、百字真言の功徳が印契だけにあるってことをいってるわけじゃないとおもう。だから、真言のあとに、もっと根本的な功徳の説明がつづいてるんだろう。

真言のあとにあるこの説明文で「一切如来の印契の修行者は」っていってるのも、とくに百字真言の効力が印契にあるからじゃなくて、印契に関連したはなしだからこういってるんだとおもう。印契についても、金剛サッタがゆるぎないものになるから、その結果、印契もゆるぎないものなるってことだろう。

このあとみるように、百字真言そのものに、金剛サッタがゆるぎないものになることと、あらゆる成就が実現することをねがうことばはあるけど、印契については直接はなにもいわれてない。

印契についてのこの解釈がまちがってないとすれば、『金剛頂経』の説明文の翻訳も、「一切如来の印契を成就することができて、それで、金剛サッタが堅固になって」ってことじゃなくて、最初に訳したとおり、「一切如来の印契の修行者は、金剛サッタがゆるぎないものになるので」っていうつながりでいいとおもう。

百字真言の本文(もともとのかたち)

まえおきはこのくらいにして、これから百字真言そのものをみてくことにしよう。つづりは標準的なものにして、動詞が10個でてくるのにあわせて全体を10行にわけた(行わけと句読点はあくまでかりのもの)。

ओं वज्रसत्त्व समयमनुपालय‍।‍
वज्रसत्त्वत्वेनोपतिष्ठ।‍
दृढो मे भव।‍
सुतोष्यो मे भव।‍
अनुरक्तो मे भव।‍
सुपोष्यो मे भव।‍
सर्वसिद्धिं मे प्रयच्छ।‍
सर्वकर्मसु च मे चित्तश्रेयः कुरु हूं ह ह ह ह होः।‍
भगवन्सर्वतथागतवज्र मा मे मुञ्च।‍
वज्रीभव महासमयसत्त्व आः॥

o vajrasattva samayam anupālaya|
vajrasattvatvenopatiṣṭha|
dṛḍho me bhava|
sutoyo me bhava|
anurakto me bhava|
supoyo me bhava|
sarvasiddhi me prayaccha|
sarvakarmasu ca me cittaśreya kuru hū ha ha ha ha ho
bhagavan sarvatathāgatavajra mā me muñca|
vajrībhava mahāsamayasattva ā

オーン 〔オーム〕 ヴァッジュラサットワ サマヤマヌパーラヤ 〔サマヤム アヌパーラヤ〕
ヴァッジュラサットワットゥエーノーパティシュタ
ドゥルドー 〔ドゥリドー〕 メー バヴァ
ストーッシヨー メー バヴァ
アヌラクトー メー バヴァ
スポーッシヨー メー バヴァ
サルワスィッディン メー プラヤッチャ
サルワカルマス チャ メー チッタッシュレーヤッ クル フーン 〔フーム〕 ハ ハ ハ ハ ホーホ
バガヴァン サルワタターガタヴァッジュラ マー メー ムンチャ
ヴァッジュリーバヴァ マハーサマヤサットワ アーハ

日本の密教だと真言には梵字がつかわれてるから、梵字の百字真言もあげておく(行わけは上のものとおんなじで、句読点はつけない)。

梵字百字真言1

ついでに、行わけをしないで1行10文字にしたものもあげておこう。

梵字百字真言2

さらに、1行20文字にすればこうなる。

梵字百字真言3

さらについでに、梵字とデーバナーガリー文字とローマ字を対照させたものもあげておくことにする。梵字の写本とかには わかちがきはないけど、ここではデーバナーガリー文字にあわせて わかちがきをした。

梵字・デーバナーガリー文字・ローマ字の百字真言

ここにあげた百字真言は、『金剛頂経』のサンスクリット本にあるものでも、チベット仏教でつかわれてるものでもなくて、漢文訳の密教経典にでてくるのとおんなじものだ(経典によっては微妙なちがいもあるけど)。これがもともとのかたちだとおもう。

これに対して『金剛頂経』のサンスクリット本には2か所ちがいがある。ひとつは、10行にわけたうちの4行めの最後と5行めの最初の母音がつながって सुतोष्यो मे भवा॒नुरक्तो मे भव sutoyo me bhavānurakto me bhava になってるとこ。もうひとつは、7行めに接続詞の ca [チャ]がはいって सर्वसिद्धिं च॒ मे प्रयच्छ sarvasiddhi ca me prayaccha になってるとこだ。

サンスクリット本で4行めと5行めがつながってるのは、サンディのためだけど、サンディは文のきれ目ならしないこともある。ここでも文章がきれてるからくっつかなくてもいい。真言はもともと文字でつたえられたものじゃないんだからそのほうが自然なんじゃないかな。インド人がとなえてたときは意味もわかってたんだろうから、息つぎするならちゃんと文のきれ目でしたんだろうし。

それがこのサンスクリット本だとサンディの法則どおりにつなげちゃって、ひと文字たりなくなったもんだから、インドの文字でひと文字の ca をつけたして百字にしたんだろう。この写本は四智梵語でもおんなじように ca をたして余計なことをしてる(四智梵語はシュローカじゃない」)。

敦煌とんこうでみつかった『聖真実摂成就法』と『金剛吽迦羅成就法』にでてくる百字真言でもここには ca はないし、チベットにつたわってるのだってそうだ。

それから、密教経典にはこの百字真言をもとにしたような真言がいくつかあるけど、そこにも ca がない (sarva)siddhi me prayaccha がでてくるから、これも間接的な証拠になるかもしれない。

ただし、『初会金剛頂経』で百字真言よりまえにでてくる加持護念の真言には ca がはいってる sarvasiddhi ca me prayaccha がある。この真言は百字真言のもとになったんじゃないかともおもうんだけど、そうだとしたら、百字真言ができたときは、字かずを百にするためにここから ca がはぶかれたともかんがえられる。ところが、サンディのために ひと文字たりなくなって、それをおぎなうために、この真言のこの部分を参考にして ca をくわえたのかもしれない。

あと、チベットのだと5行めと6行めがいれかわってるのがおおいけど、これはたぶんチベットにつたわったあとにそうなったんだろう。日本のもサンスクリット本のも敦煌のもみんないれかわってないし、チベット語訳の『初会金剛頂経』だってデルゲ版のほうはいれかわってないらしい(数の問題じゃないかもしれないけど)。

それに、百字真言をもとにしたような真言が『理趣経』関係の経典にでてきて(百字真言とにてる真言」)、この部分に対応してるとこは、anurakto me bhava, sutoyo me bhava, sudṛḍho me bhava, supoyo me bhava っていうふうに百字真言の3行めと5行めにあたるとこがいれかわってるんだけど(3行めにあたるところには su- がついてるけど)、4行めと6行めはそのまんまだ。つまり、チベットの百字真言みたいに sutoyo me bhava と supoyo me bhava がつづいてるわけじゃない。

さらに、『仏説秘密三昧大教王経』(大正蔵 No.883、vol.18、p.447)の「鉤召大明」は上の『理趣経』関係の真言とにてるんだけど、これには、dṛḍho me bhava, sutoyo me bhava, anurakto me bhava, supoyo me bhava っていう漢文訳経典の百字真言とおんなじ文章がでてきて、チベット式の順序にはなってないし、加持護念の真言とにてる『仏説秘密相経』(大正蔵 No.884、vol.18、p.465)の真言には、dṛḍho me bhava, sutoyo me bhava, anurakto me bhava, śāśvato me bhava, supoyo me bhava っていうとこがあって、チベット式とちがって anurakto me bhava は sutoyo me bhava のつぎにきてるから、śāśvato me bhava をのぞけば漢文訳経典の百字真言とおんなじになる。

こういうことからも、チベットのほうがあとからいれわかったんだっていえるんじゃないかとおもう。おんなじような文章だから、sutoyo me bhava と supoyo me bhava をつづけていうようになっちゃって、anurakto me bhava をそのあとにしちゃったのかな。

それと、チベットのには最後に हूं फट् pha [フーン パッ] (日本式にいうなら「ウン・ハッタ」)がついてるのもおおいけど、これだと百字じゃなくなっちゃう。浄化法につかわれてることと関係あるんだろうけど、これは当然あとからついたんだろう。

百字真言の輪のイメージ

チベットの百字真言のことがでてきたついでに、チベット密教の本によくでてくる金剛サッタの浄化法の百字真言についてもちょっとふれておこう。

チベット密教の浄化法の瞑想で、金剛サッタの胸のとこに月輪がちりん(満月のかたち)があって、その上に種字の हूं [フーン]と百字真言がならんでるのをおもいえがくっていうのがある。この100文字がじっさいに月輪の上にならんだらどんな感じになるのかとおもって、画像をつくってみた。

日本の密教の月輪は水晶みたいな玉のイメージで、蓮台つまりハスの花の台とその上の本尊は透明な玉のなかにえがくようになってるけど(金剛界のばあい)、チベットの月輪は白い円盤で、蓮台の上に月輪がのってて、その上に本尊がすわるようになってる。この浄化法でも月輪は白い円盤で、その上に白い hū と百字真言の白い文字がたってならんでる。hū はまんなかにあって、たぶん百字真言よりおおきな文字なんだろう。百字のほうは月輪の円周のとこに右まわりにならんでる。文字も月輪も白だから、背景に色をつければよかったかもしれないけど、そもそも金剛サッタのからだの色も白で、白い胸のなかに白い月輪があって、その上に白い文字がならんでるってことだから、背景の色はつけなかった。ただ、そのまんまじゃ全部白くてなんだかわかんなくなるから、文字にはうすい輪郭をつけてみた。それから月輪の円周のとこに百字真言がならんでるから、月輪そのものは省略した。それと、文字は梵字でもチベット文字でもなくて、いまサンスクリット語につかわれてるデーバナーガリー文字にした。真言の本文はチベット式じゃなくて上にのせたもともとのもので、途中に句読点はいれてない(図はクリックで拡大)。


『チベット密教の瞑想法』(ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ、金花舎)と『チベット密教 図説マンダラ瞑想法』(ツルティム・ケサン+正木晃 共著、ビイング・ネット・プレス)っていう本にはいちおうこの図がのってる。ただしそれは黒い線の円周であらわした月輪のなかに、黒いチベット文字がかいてあるもので、まんなかにおおきな hū の字があって、まわりには百字真言の文字がならんでるんだけど、途中を省略してある。つまり、じっさいに100文字がならんでる図にはなってない。それに、この文字はじっさいには月輪の上にたってるはずだけど、この図だとねてるようになってる。つまり、月輪を上からみた図で、百字真言は円の外側を上にして文字がならんでる。もともとも内側にむいて たってた文字を外側に たおした感じだ。そこで、ここでも、そういう画像もつくってみた(図はクリックで拡大)。

本文の解釈

真言の本文そのものについてはとりあえずこれぐらいにして、つぎにことばの意味をみてくことにしよう。

ओं o

この o ではじまる真言はすごくおおい。「唵」っていう漢字でうつされて、日本式の真言の発音だと「おん」になる。だいたい「帰命きみょう」をあらわすって説明されてる。最初にまずほとけに帰依するってことだろう。ほかにも「供養くよう」の意味があるともいわれてる。

さらに、「オー」っていう母音の起源は「アウ」にあるから、o を a と u と m の3つに分解して、これをほとけの三身さんじんつまり法身ほっしん報身ほうじん応身おうじんにあてたり、ほとけの からだと ことばと こころの三密にあてたりする解釈もある。

三密にあてる解釈からすると、ほとけの三密だけじゃなくて、修行者の からだと ことばと こころの三業さんごうのことも意味して、本尊の三密と修行者の三業の無差別を象徴するともいわれてる。

ちなみに、o はもともと「そうなるように」っていうような意味だっていわれてるから、アーメンとよくにてる。

वज्रसत्त्व vajrasattva

vajrasattva は呼格の名詞で、訳せば「金剛サッタよ」っていうよびかけだ。文法的にも翻訳としてもとくに問題はない。

金剛サッタっていうほとけについてはいろいろあるんだけど、とりあえずここではこの名前の意味を中心にみておくことにしよう。『金剛頂経』にはそれを説明してるとこがある。それは「降三世品ごうざんぜぼん」の百八名讃ひゃくはちみょうさんのとこなんだけど、その部分は三巻本にはない。

यस्माद्वज्रदृढं चित्तं वज्रसत्त्वस्त्वमुच्यसे॥

yasmād vajradṛḍha citta vajrasattvas tvam ucyase∥

こころが金剛のように堅固なので、あなたは金剛サッタ(金剛のようなこころをもっているもの)といわれている。

とりあえず説明としてはこれだけでいいかもしれないけど、「金剛」と「サッタ」っていうことばについてもそれぞれ説明して、そこから金剛サッタっていう名前の意味について もうすこしつけくわえたい。

「金剛」はサンスクリット語の vajra [ヴァッジュラ]を訳したもので、vajra は雷の神でもあるインドラ(帝釈天たいしゃくてん)の武器(電撃)のことだけど、この手の武器が密教の法具としてとりいれられたのが金剛杵こんごうしょだ(金剛杵については、あとで説明する)。だから密教で vajra っていえばひとつにはこの金剛杵のことになる。それからさらに vajra は金剛石つまりダイヤモンドのことをいうようにもなった。密教でいう vajra にはこのダイヤモンドの意味もふくまれてる。金剛杵も金剛石も略して金剛っていうから、金剛は日本語としても金剛杵と金剛石の意味を同時にふくんでるっていえるだろう。

「サッタ」は漢字でかけば「薩埵」で、これはサンスクリット語の sattva [サットワ]の発音をうつしたことばだ(だからカタカナでかくことにしてる。カタカナになる仏教用語」)。sattva はパーリ語(古代インドの俗語のひとつで、原始仏典のことば)だと satta になるから、「薩埵」っていうのはこういう俗語の発音をうつしたようにもみえるけど、「薩埵」の中古音は「sat tua」だから、とくに俗語がもとになったってかんがえる必要はないだろう。sattva をけっこう忠実にうつしてる(この v は[w]にちかい発音)。

सत्त्व sattva は सत् sat に त्व tva がついたものだから、つづりとしては सत्त्व sattva がただしいんだけど、半母音のまえの子音は二重に発音されるから(サンスクリット語の v は半母音)、त्व tva と त्त्व ttva はおんなじ発音になって、そのために त्त्व ttva のかわりに त्व tva っていうつづりがよくつかわれる。だから、सत्त्व sattva も सत्व satva っていう省略されたつづりがつかわれることがよくある。『初会金剛頂経』のサンスクリット本でもそうなってる。

sattva はとりあえず英語に訳せば being ってことになるだろう。「有ること、存在、実在、真理。本質、性質、性分、性格。強い性格、精力、決心、勇気。精神、こころ、意識、感覚、知性、知恵。生気、生命。生物、動物。幽霊、悪魔、妖精。微細身、たましい。実在物、実体、ものごと。名詞」なんていうふうにけっこういろんな意味がある。仏教の用語としては、いきものってことで「衆生しゅじょう」とか「有情うじょう」っていう翻訳語がつかわれてる。「もの」っていう日本語は、古文のこともかんがえると、存在するものとか人物のほかに、もののけの「もの」みたいに霊的存在のこともいうから、けっこう sattva とかさなるとこがあるかもしれない。

vajrasattva っていう名前は直訳すると「金剛存在」って訳せる。これは「金剛のような存在」「金剛のように堅固な存在」ともいえるし、「金剛であるもの」「金剛そのもの」ともいえる。それから、所有複合語っていわれるものとして解釈すると、sattva を「本質」「性質」の意味にとれば「金剛を本質とするもの」「金剛のような性質をもっているもの」ってことになるし、「こころ」「精神」「性格」あたりの意味にとれば、「金剛のようなこころをもっているもの」ってことになって、「降三世品」にある説明になる。

sattva を「勇気」の意味にとる解釈もあって、vajrasattva を「金剛勇」って訳してる漢文訳があるし、『大楽だいらく金剛不空真実三昧耶経般若はんにゃ波羅蜜多はらみった理趣釈』(略して『理趣釈』、大正蔵 No.1003、vol.19、p.609)にも「薩埵は勇猛ゆうみょうに名づく」ってかいあてる。チベット語で金剛サッタのことを rdo-rje sems-dpa’ [ドルジェ センパ]っていうけど、これも sattva を「勇気」の意味にとった翻訳で、「金剛のような勇気をもっているもの」「金剛のような勇者」っていう意味らしい。

後期密教になって、この名前はさらにいろいろ解釈されたんだけど、例をあげると、

शून्यता वज्रमित्युक्तमाकारः सत्त्वमुच्यते।
तादात्म्यमनयोरैक्यं वज्रसत्त्व इति स्मृतः॥

śūnyatā vajram ity uktam ākāra sattvam ucyate|
tādātmyam anayor aikya vajrasattva iti smta

空性くうしょうのことを金剛といい、かたちがあるもののことをサッタという。
このふたつの本質がおなじであり ひとつであることが金剛サッタと名づけられている。
Jvālāvalīvajramālātantra

っていうのがある。空性を金剛にたとえるのは、空性っていう真理がなにものにも破壊されることがないからで、sattva には「存在してるもの」っていう意味があるから、それが「かたちがあるもの」だ。このふたつがひとつにむすびついてる金剛サッタっていう名前が、空性っていう真理と存在してるものっていう現象の本質がおんなじだってことを意味してる。それとか、

वज्रेण शून्यता प्रोक्ता सत्त्वेण ज्ञानमात्रता।
तादात्म्यमनयोः सिद्धं वज्रसत्त्वस्वभावतः॥

vajrea śūnyatā proktā sattvena jñānamātratā|
tādātmyam anayo siddha vajrasattvasvabhāvata

金剛は空性を、サッタは意識(知)そのものを意味している。
このふたつの本質がおなじであることが金剛サッタの本性からあきらかである。
(Advayavajra: Pañcatathāgatamudrāvivaraa

っていうふうにもいわれてる。sattva には「意識、知性、こころ」っていう意味もあることはもう説明した。川崎信定訳『原典訳 チベットの死者の書』(ちくま学芸文庫)の補注にある、

ヴァジュラ(金剛)は空性を意味し、サットヴァ(薩埵)は有るもの・世界顕現を行ないつつある識・慈悲を意味する。そしてこの対立する二つが融合し合一したものが金剛薩埵という神的な存在(絶対者)である。

っていう説明も、このあたりのことがもとになってるんだろう。

もうひとつ、中村元『図説佛教語大辞典』(東京書籍)の「金剛薩埵」の説明をあげておくことにする。

 「金剛にたとえらるべき人」の意。真言密教の教主。日本で密教と称される両部大経すなわち、『大日経』と『金剛頂経』の段階において、密教の教主である法身大日如来は、あくまでも諸尊の総体としての普遍絶対の智慧であるという抽象的性格が強く、そのため、その抽象的絶対者をどうしても人格的に表現する必要から、その中間的なあるいは折衷的な性格の金剛薩埵という尊格が想定せられたものと推測される。ゆえに Vajrasattva とは、絶対者(vajra)にして人格神(sattva)、あるいは、人格神(sattva)のごとき、あるいは人格神としての絶対者(vajra)という意味に考えられる。この意味で、『大日経』における法身の説法を衆生に伝える対告衆・金剛手秘密主と同体と考えられ、密教付法の第二祖とされるようになった。また大菩提心の当体としての法身仏としての性格が強いことから、後にやはりその大菩提心を表す普賢菩薩と同体視される傾向が生じた。
 ネパールでは第六の禅定仏とみなされ、チベットでは女神としての般若波羅蜜と抱擁した像もある。

日本の密教と後期密教じゃ金剛サッタの位置づけがけっこうちがうんだけど、日本の密教のもとになってる経典のひとつが『金剛頂経』で、これをみると、真言宗とかの教義とはちがって、後期密教につながるっていうか、基本的にはあんまりかわらないような金剛サッタのすがたがあらわれてる。

『金剛頂経』に即していえば、金剛界マンダラの中尊ビルシャナ如来(金剛界如来)は報身で、法身大ビルシャナとは区別されてる。『金剛頂経』の原文だと大ビルシャナに如来っていう称号はついてない。ただの如来とは次元がちがう存在だからだろう。金剛界マンダラは、ビルシャナ如来がさとりをひらいたことをとおして、大ビルシャナがすがたをあらわしたものだ。大ビルシャナの別名として『金剛頂経』には金剛サッタ、(大)持金剛、金剛手、普賢ふげんっていう名前がつかわれてる。

日本の密教はビルシャナ如来と大ビルシャナをいっしょにして大日如来っていってる。日本の金剛界マンダラだと、ひとりのほとけだけであらわされる一印会いちいんねには金剛界の代表として大日如来をえがくんだけど、『金剛頂経』にしたがえば、一印会には金剛サッタをえがくことになってる。

後期密教になると、大ビルシャナの延長で、すべてのほとけの根源として第六仏とか本初仏ほんじょぶつआदिबुद्ध ādibuddha [アーディブッダ])っていわれるほとけがあらわれる。その本初仏とされるほとけは宗派によってちがってて、チベット仏教でいえば、カギュー派は金剛サッタ、ゲルク派は持金剛、ニンマ派は法身普賢だ。この名前は3つとも『金剛頂経』で大ビルシャナの別名としてつかわれてた。

समयमनुपालय samayam anupālaya

デーバナーガリー文字とか梵字とかのインド系の文字だと ここはひとつながりになっちゃうけど、ローマ字のほうでわかるように単語としてはふたつだ。samayam は単数・対格の名詞で、anupālaya は2人称・単数・命令形の動詞だ。ここの翻訳は岩本訳だと「誓願を守れ」になってて、基本的にこれでいいとおもう。

ところが、そうじゃないのもけっこうあって、「わたしにサンマヤをまもらせてください」っていう意味に訳してるのがおおい。そういう解釈になる理由をかんがえてみることにしよう。

まずはサンマヤ(samaya)の意味だけど、「誓願を守れ」って解釈だとサンマヤを「誓願」って訳してるわけだ。これに対して、サンマヤをまもらせてくださいっていうのはサンマヤ戒のことをいってるんだろう。これは密教特有の戒律みたいなもんだけど、チベット仏教の浄化法の瞑想で、百字真言といっしょにとなえる文句のなかに、サンマヤ戒をやぶったことをざんげして、その罪を浄化してくれるようにいのることばがでてくる。こういうふうに、チベット仏教の浄化法だと百字真言はサンマヤ戒とむすびつけてかんがえられてるから、ここのサンマヤもそういうふうな解釈になるんだろう。もっとも、歴史的には、まずはここのサンマヤをサンマヤ戒のことだって解釈したからこそ、サンマヤ戒をやぶった罪を百字真言とむすびつけるようになったのかもしれないけど。

それにしても、『金剛頂経』だと百字真言の説明文にサンマヤ戒のことはでてこないから、この経典からすればとくにサンマヤ戒だってことにはならないし、「誓願」でおかしいともおもえない。でも、それをかんがえるには anupālaya っていう動詞の意味もかんがえないといけないだろう。

ただそのまえに、samaya の意味についてまとめておこう。これは、「いっしょにくる、であう、結合する、一致する」っていう意味の動詞 समि √sam-i からうまれた名詞で、「いっしょにくること、一致、同意、契約、とりきめ、約束、時間、好機、機会、習慣、規則、教義、いましめ」っていうような意味がある。密教で特別な意味をもつようになって、David L. Snellgrove “Indo-Tibetan Buddhism” によると、超越的な存在と内在する存在の一致っていうような意味だっていうんだけど、この本はさらに samaya の意味をまとめて、「ほとけとそれをあらわす像、あるいは ほとけとそれを具体的に表現する供物くもつ、あるいは ほとけとそれに意識を集中している修行者や信心ぶかい崇拝者をひとつにする誓約」っていってる。ここで「誓約」って訳したのは英語の pledge なんだけど、この pledge が samaya のいろんな意味をカバーするいちばんいい翻訳語だろうってこの本にはかいてある。

で、anupālaya だけど、まずは接頭辞の anu- をのぞいた pālaya について はなしをすすめよう。これがどのグループの動詞なのか辞書によってちがいがある。ひとつは、インドの伝統的な文法にしたがって पा √pā (まもる)っていう第2類動詞の使役だっていうもので、そのほかに、第10類動詞だっていうのと、 पाल pāla (保護者)っていう名詞からうまれた名詞起源動詞だっていうのがある。どの解釈をとるにしても pālaya っていうかたちにかわりはない。使役と第10類動詞と典型的な名詞起源動詞はおんなじかたちをしてる。

でも、かたちはおんなじでも、使役とそうじゃないのとじゃ意味がちがってくるだろうって当然かんがえたくなる。もちろんもともとはそのはずなんだけど、かたちだけが使役で、意味のほうは使役じゃなくなった動詞がけっこうあって、その傾向がつよまったせいで、第10類動詞とか名詞起源動詞との区別があいまいになった。

pālaya にしても、たとえば『梵和大辞典』(講談社)には「保護する,擁護する;支配する;…の保護者となる;(約束等を)保持する,…を支持する,…を守る」っていう意味がのってて、使役の意味にはなってない。pālaya に使役の意味がないからこそ、もともと使役動詞だったのか第10類動詞なのか名詞起源動詞なのかはっきりしないわけだ。

接頭辞がついた anupālaya にしてもおんなじことで、とくに使役の意味があるわけじゃない。「保護する,擁護する;世話をする;…の保護者となる;(約束等を)支持する,…を遵守する,…を守る;固守する」っていう意味が『梵和大辞典』にのってる。

このことからすれば、「わたしにサンマヤをまもらせてください」っていうような解釈はおかしいってことになる。それに、この手の翻訳だと「わたしに」にあたることばをカッコにいれておぎなったりしてるんだけど、カッコにいれてるのは原文にはないからだ。意味が使役なら原文にもこれにあたることばがないとおかしいとおもうんだけど、じっさいは原文にはない。それなのに、そのことばをおぎなってまで使役に解釈するのはムリがあるだろう。それでも使役にしたいのは、サンマヤをサンマヤ戒のことだって解釈したためと、ちょうど動詞が使役とおんなじかたちをしてるからだろう。

ちなみに、『梵和大辞典』の samaya のとこには「samaya pālaya 約束を遵守する,協定を守る」っていう用例がでてくる。これは anupālaya とはちがうっていわれるかもしれないけど、接頭辞がついても動詞の意味がかわらないばあいはけっこうある。この anupālaya もそんな感じで、辞書によっては pālaya の意味とおんなじってかいてあるし、『梵和大辞典』の訳をみてもとくにちがいはない。だから、anupālaya にしても、ここは「約束をまもる」ってことでいいはずだ。

そうすると、ここまでの文章を訳せば、「オーン、金剛サッタよ、誓願をまもってください」ってことになるだろう。

そうはいっても、文法と単語の解釈とはべつに、この訳には抵抗を感じるひとがいるかもしれない。誓願をまもるにきまってるほとけさまに対してわざわざ「誓願をまもってください」なんていってることになるからだ。「わたしにサンマヤをまもらせてください」って解釈したくなるのには、こんなことも関係あるのかもしれない。だから、金剛サッタに対してこういうことをいうのがほんとにおかしいのかどうかかんがえてみよう。

誓願、誓約、ちかい、約束、…まあ、ことばはなんでもいいけど、このサンマヤはもともとの意味が「いっしょにくること」で、「一致、同意」ってことでもあるし、ほとけと修行者をひとつにする誓約ってぐらいだから、とうぜん一方的なものじゃないはずだ。そもそも約束っていうのはそうだろう。ほとけのほうで一方的にちかいをたてるだけじゃなくて、それが修行者の側に実現するためには、修行者のほうからのはたらきかけっていうか、修行者の同意、修行者がその誓願をうけいれるってことが必要なんじゃないかな。

だから、修行者が「誓願をまもってください」ってとなえることは、ほとけの誓願を修行者自身のねがいにするってことで、これでほとけと修行者の意志が一致することになって、誓願が実現する条件がととのうことになるんじゃないかな。そうなるように、ほとけから修行者にこのことばがあたえられてるっていっていいんじゃないかとおもう。これは念仏についていわれてることとおんなじことだろう。

このことをからすれば、「誓願をまもってください」っていう解釈は、内容的にもおかしくないとおもう。

वज्रसत्त्वत्वेनोपतिष्ठ vajrasattvatvenopatiṣṭha

ここはサンディでひとつづきになってるけど、サンディをといてきりはなせば、वज्रसत्त्वत्वेन vajrasattvatvena と उपतिष्ठ upatiṣṭha にわけられる。

vajrasattvatvena は vajrasattva に抽象名詞の語尾 -tva がついたものの具格のかたちで、直訳すれば「金剛サッタであることによって」だけど、「金剛サッタとして」っていう意味になる。upatiṣṭha は उपस्था upa-√sthā (ちかくにたつ、ちかづく、そばにとどまる、あらわれる、すがたをあらわす)の2人称・単数・命令形だ。

そうすると、「金剛サッタとしてそばにいてください」「金剛サッタとしてとどまってください」「金剛サッタとしてすがたをあらわしてください」ってことになるだろうけど、金剛サッタに対して「金剛サッタとして」っていうのはどういう意味なんだろ。

『金剛頂経』には、金剛界マンダラに十六大ボサツの筆頭の金剛サッタがあらわれる場面がある。一切如来たちのみちびきで一切義成就ボサツがさとりをひらいて金剛界如来(ビルシャナ如来)になって、その金剛界如来をとおして法身大ビルシャナがボサツのすがたをとって金剛サッタとしてあらわれる。そのとき金剛サッタがとなえる詩に、自分はもともと すがた かたちのない存在だけど、ひとのすがたをとってあらわれた、っていうようなことがでてくる。

このことからすると、「金剛サッタとして」っていうのは、もともと すがた かたちのない存在だから、ボサツのすがたをとった金剛サッタとしてあらわれてほしいってことなのかもしれない。これは、金剛サッタの大印のことをいってるともいえるだろうし、この意味の大印は尊形そんぎょうっていいかえることもできる。

そうだとすれば、ここは「金剛サッタのすがたでそばにいてください」「金剛サッタとしてのすがたをあらわしてください」ってことになるだろう。

金剛杵金剛サッタは、右手に五鈷ごこ金剛杵(五鈷杵)、左手に金剛れい(五鈷鈴)をもってるすがたであらわされる。金剛杵っていうのは、こまかいとこでデザインにいろいろちがいはあるんだけど、右の絵みたいなもので、五鈷っていうのは上下に5本の切っ先がでてることをいってる。でも、真横からみると3本の切っ先がかさなることになるから、絵にかくときは、たいてい三鈷杵とおんなじになる。金剛杵には、ほかに独鈷杵とっこしょっていう切っ先が1本のもあって、さらに、ネパールとかチベットだと九鈷杵っていうのもある。

日本の金剛杵とネパール・チベットの金剛杵五鈷杵とか三鈷杵は、ネパールとかチベットのと日本のにはちがいがあって、ネパールとかチベットのだと切っ先が全部くっついてるんだけど(上の写真)、日本のは先がはなれてる(下の写真)。先がはなれてる金剛杵はネパールとかチベットだと いかりをあらわすもので、日本のは いかりをあらわすばあい切っ先がさらにはなれてるかたちになってる。

金剛鈴金剛鈴っていうのは、金剛杵のかたちの取っ手がついたベルで、これもこまかいデザインにはいろいろあるし、金剛杵にいくつか種類があるみたいに、金剛鈴の取っ手にもおんなじ種類があって、五鈷鈴とか三鈷鈴とかいってる。それと、ネパールとかの金剛鈴と日本の金剛鈴でも、取っ手の部分に金剛杵とおんなじちがいがある。

さらに、ネパールとかと日本で金剛杵と金剛鈴にちがいがあったみたいに、金剛サッタのポーズにもちがいがある。

ネパール・チベットの金剛サッタ

ちがいはおもに金剛杵と金剛鈴のもちかたなんだけど、ネパールとかチベットの金剛サッタは、上の絵みたいに、右手の手のひらを上にむけて、その上に金剛杵をたててる。なかには、手のひらをまえにむけて金剛杵をもってるのもあるけど、それだって日本のとはちがう。それから、左手の手のひらもやっぱり上にむけてて、金剛鈴をさかさまにもってる。つまり、ベルをならしてるようなもちかたにはなってない。

日本の金剛サッタ

日本の金剛サッタは、右手の手のひらを上にむけてるってことではおんなじようなもんだけど、金剛杵を横にたおして にぎってる。左手は手のひらを下にむけて金剛鈴をにぎってるし、金剛鈴はさかさまじゃない。ベルをならすときにもつような感じだ。弘法大師空海の像とか絵は、右手に五鈷杵、左手に数珠をもってるすがたなんだけど、五鈷杵は日本の金剛サッタ像とおんなじもちかたをしてる。

金剛サッタがもってるものはこのふたつが一般的だけど、『初会金剛頂経』とか『理趣経』の段階だと、右手には金剛杵をもってるけど、左手は金剛慢印まんにんっていう印をむすんでるだけだった。このことについて『密教大辞典』(法蔵館)の「五秘密曼荼羅」の項目にはこうかいてある。

金剛薩埵の大印文は慢印は左拳を腰に置き、右拳金剛杵を抽擲する勢を作すなり、然るに諸種の図様に右五股杵左金剛鈴を持てるもの多し。是れ五秘密軌に、金剛薩埵住大智印者、従金剛界金剛鈴菩薩三十七智自受用他受用果徳身㆒と説き、一身に三十七尊の徳を具す。此義を表さんが為に、三十七尊初後の三昧耶形五股杵と鈴とを持てるなり。

さらに、おんなじような説明が「金剛慢印」の項目にもある。

是れ鈴杵の印にして、金剛薩埵の威儀即ち右に五股杵を持ち、左に金剛鈴を持てる姿なり。五股は大日の三昧耶身、鈴は鈴菩薩の幖幟にして、大日の五智、三十七尊を一身に合集する意あり。五秘密軌云、金剛薩埵住大智印者、従金剛界(即大日)至金剛鈴菩薩三十七智自受用他受用果徳身

五鈷杵はこういうふうに「五股杵」ともかくんだけど、それはそれとして、このふたつに引用されてる『五秘密軌』はくわしくいうと『金剛頂瑜伽金剛薩埵五秘密修行念誦儀軌』っていって、引用されてる文(大正蔵 No.1125、vol.20、p.538)を訓読すれば、

金剛薩埵大智印に住すとは、金剛界より金剛鈴菩薩に至りて、三十七智を以て自受用他受用の果徳身を成ず。

とでもなるだろう。要するに、『五秘密軌』にかいてあるみたいに、金剛サッタは、金剛界マンダラの最初の金剛界如来(日本の密教だと要するに大日如来)から最後の金剛鈴ボサツまでの三十七尊全員をひとつにしたような存在だから、金剛界如来と金剛鈴ボサツを象徴してるものをもつことで、そのことをあらわしてるってことなんだけど、五鈷杵が大日如来の象徴だっていうのはどうなんだろ。それもあるのかもしれないけど、この『密教大辞典』には大日如来の象徴は「塔」だってかいてある。

金剛鈴が、金剛界マンダラにいちばん最後にあらわれる金剛遍入ボサツ(伝統的には金剛鈴ボサツっていわれてる)のもちものなのは まちがいないけど、金剛杵は金剛サッタのもちものだ。『密教大辞典』の説明は、いいたいことはわかるし、簡単にいえばそのとおりなんだろうけど、こまかいことをいうと、金剛界如来から金剛遍入ボサツまでの三十七尊じゃなくて、金剛サッタから金剛遍入ボサツまでの三十二尊を総合したことになってるんじゃないのかな。

経典によってちがいがあるけど、『初会金剛頂経』でいうと、金剛界マンダラの三十七尊は、五仏だけ出現のしかたがちがう。それ以外の三十二尊は、大ビルシャナが金剛界如来かそのほかの四仏をとおしてあらわれたものだけど、四仏つまりアシュク如来、宝生ほうしょう如来、アミダ如来、不空成就如来は、三十二尊があらわれるまえに突然登場する。金剛界如来は、もう説明したように、一切義成就ボサツが一切如来たちのみちびきでさとりをひらいて如来になったものだ。

それに、もちものについても五仏と三十二尊にはちがいがある。『初会金剛頂経』のこの場面には五仏のもちものについてはとくになにもかいてない。だから、金剛界如来がもってるものを金剛サッタにもたせようとしても、そもそもそんなことはできない。そのために、三十二尊の最初と最後のもちものをもたせることで、マンダラの根源の大ビルシャナとしての金剛サッタをあらわすようになったんだろう。

ただし、『密教大辞典』みたいな説明もできないことはないかもしれない。金剛界如来のもちものはとくにないけど、一切義成就ボサツがさとりをひらくための修行として、胸のなかに金剛杵を瞑想する。その瞑想で金剛界如来になったんだから、『初会金剛頂経』のなかで金剛界如来とまずむすびついてる象徴っていえば金剛杵ってことになるだろう。だから、このことからすれば、金剛サッタがもってる金剛杵と金剛鈴は三十七尊の最初と最後のほとけの象徴をつかって全体をあらわしたものってことになるのかもしれない。もちろん、そうはいっても、金剛サッタがもともと金剛杵をもってることにはかわりないけど。

दृढो मे भव dṛḍho me bhava

ここは文法的にふつうによめばとくに問題はないとこなんだけど、翻訳のなかには疑問におもうものもある。

dṛḍho は「かたい、強固な、堅固な、つよい、動揺しない」って意味の形容詞で男性・主格・単数のかたちだ。ただし、サンディで語尾がかわってるから、形容詞の変化表にあるのとはちがってる。me は1人称・単数の人称代名詞つまり「わたし」の与格・属格で、「わたしに、わたしにとって、わたしのために」「わたしの」っていうことだ。ここは与格だろう。bhava は「なる、生じる、おこる」っていう意味の動詞 भू √bhū の2人称・単数・命令形だ。

そうすると、ここは「わたしにとって(あなたは)堅固になってください」ってことになる(「わたしのために」かもしれない)。べつのいいかたをすれば「わたしにとってたしかな存在になってください」とでもいえばいいのかな。

百字真言の説明文に「金剛サッタがゆるぎないものになるので」っていうのがあったけど、こういうふうに真言そのものに「金剛サッタがゆるぎないものになる」ことをねがうことばがちゃんとあるわけだ。

ところが、「わたしを堅固にしてください」みたいに訳してる翻訳がけっこうがある。bhava は「なる」っていう意味で「する」じゃないし、dṛḍho も me も対格じゃないのに。

こういうふうに解釈したくなるのは、百字真言が修行者の からだと ことばと こころを堅固にするものだっておもってるからだろう。最初に、この真言にどういう効力があるのかってことを『金剛頂経』の説明文に即してかんがえてみたけど、そのとき、それが真言の解釈に影響してるってかいた。そこでいったのはこのことだ。にたような文章がこのあとにもつづくけど、それについても「わたしを…にしてください」みたいな翻訳があって、その解釈もこことおんなじように文法的におかしい。

それから、こういう解釈になるもうひとつの原因として『略出念誦経』もあげられるだろう。この経典にでてくる百字真言にはところどころ わり注で意味がかいてあるんだけど、dṛḍho me bhava のあとには「為堅牢我」っていう注がある。これを「我を堅牢と為せ」とか訓読してるみたいで、このよみだと「わたしを堅牢にしろ」って意味になるんだろうから、この注をもとにするとやっぱり「わたしを堅固にしてください」っていう解釈になる。ただし、この訓読には疑問がある。こういうふうによむのは、もともと百字真言が修行者を堅固にするものだっておもってるからなのかもしれない。

もうひとつ文法的におかしい解釈がある。それは「堅固性がわたしのためにあれ」っていうような翻訳で、わたしでもあなたでもないものが「あれ」っていうものだ。これだと、動詞が3人称じゃないとおかしい。このあとにつづく文章にしても、こういう解釈のものがある。bhava が2人称だってことがわかってれば、こんな訳にはならないはずだ。

文法なんてことをいうと、そんなものには興味ないとか、内容が重要だとかいいたくなるひとがいるかもしれないけど、こういう解釈を目にすると、それこそ古文とか漢文でもよむときによくあるみたいに、文法を無視して、せいぜい単語の意味だけいちおう確認して、あとは雰囲気で、その内容とやらをよみとろうとしてるんじゃないかって感じがする。たしかに、ネイティブみたいにそのことばがわかってれば、文法なんか関係なく雰囲気でよんでも正確によみとれるだろう。でも、そんなレベルでもないのに、雰囲気だけでよんでるんじゃないのかなあ。

はなしをもどすことにしよう。金剛サッタはボダイ心をあらわしてる。あるいはボダイ心そのものっていってもいい。ボダイは漢字で「菩提」ってかいて、サンスクリット語の बोधि bodhi [ボーディ](さとり)の発音をうつしたことばだ。ボダイ心は बोधिचित्त bodhicitta [ボーディチッタ]っていう。そのボダイ心は、まずは「さとりをもとめるこころ」ってことなんだけど、さらに、さとりそのもののこころをさすようにもなった。つまりボダイ心にはふたつあるわけで(さらにいくつかにわける説明もあるけど)、もとめるボダイ心と もとめられるボダイ心なんていうこともある。もとめられるボダイ心(本来さとってるこころ)がもともとそなわってるからこそ、もとめるボダイ心(さとりをもとめるこころ)をおこすようにもなる。

金剛サッタは『初会金剛頂経』の流通分るずうぶんで「はじまりも おわりもないボダイ心(अनादिनिधनं बोधिचित्तं anādinidhana bodhicitta)」っていわれてるんだけど、はじまりがないってぐらいだから、そのボダイ心は本来ひとにそなわってるもので、このボダイ心である金剛サッタのはたらきかけで、ひとはさとりをもとめるボダイ心をおこす。ボダイ心は仏教の根本にあるものだ。

金剛サッタが堅固になるっていうのは、べつのいいかたをすればボダイ心が堅固になることだともいえる。

本来そなわってるボダイ心は、煩悩とか罪にけがされてない純粋な状態のこころでもある。金剛サッタは人間のなかにあるこういう本質のことだともいえるわけで、その金剛サッタにふれる、あるいはふたたびむすびつくことで、本来の純粋な状態をとりもどすことができる。百字真言があらゆる罪をきよめるっていうのはそういうことだ。

後期密教になると、ボダイ心はハンニャと方便ほうべんがひとつになったものだって説明されるようになるんだけど、ハンニャのかわりに空性っていったり、方便のかわりに大悲っていったりもする。ハンニャは空性をさとる知恵のことで、方便は大悲による活動だから、こういいかえられる。こういう説明がされるようになったもんだから、金剛サッタがもってる金剛鈴はハンニャを、金剛杵は方便をあらわすって解釈されるようになった。ボダイ心である金剛サッタのもちものはボダイ心のふたつの面をあらわしてるわけだ。

ちなみに、प्रज्ञोपाय prajñopāya [プラジュニョーパーヤ](ハンニャ方便)っていうことばが金剛サッタのよび名のひとつとして『理趣経』関係の百八名讃にでてくる(『理趣経』の百八名讃」)。

सुतोष्यो मे भव sutoyo me bhava

sutoyo は तुष् √tu (よろこぶ、満足する。よろこばせる、満足させる)の未来受動分詞 toya に su がついたもので、語尾がサンディでかわってる。toya は √tu の使役 toaya の未来受動分詞 toayitavya とおんなじで「よろこばされるべき、満足させられるべき」っていう意味になる。っていっても、「…されるべき」っていうのはひとつの意味で、未来受動分詞には必然・必要・当然・義務・命令・許可・可能・能力・推測・予期・期待・未来とかの意味がある。「べき」を現代語じゃなくて古文の意味でかんがえるなら、こういういろんな意味をけっこうカバーできるだろう。動作者は属格か具格であらわされる。

su は「よく、うまく、すばらしく」って意味で、たいていは名詞とか形容詞の接頭辞みたいにつかわれる。ここでもそうなってるわけだけど(分詞は一種の形容詞)、こういうふうに未来受動分詞につくと、「…されやすい」っていう意味になる。

me はひとつまえの文章の me とおんなじで、与格か属格だから、未来受動分詞の動作者「わたしによって」として解釈するなら属格だし、与格の「わたしにとって」っていう解釈もできるだろう。そのあとの bhava もひとつまえの文章の bhava とおんなじだ。

そうすると、この文章を直訳すれば、「わたしによって よろこばされやすくなってください」「わたしによって満足させられやすくなってください」ってことになるだろう。それから、「わたしによって」じゃなくて「わたしにとって」っていう解釈もできるから、これをもうちょっとましな日本語にしようとすれば、「わたしにとって よろこばせやすくなってください」「わたしが容易によろこばすことができるものになってください」とでもすればいいのかな。要するには「あなたを簡単によろこばすことができますように」ってことだろう。翻訳文のことはともかくとして、ここの文章の意味はこういうことだ。

受動の文章になってるから、そのまんま訳すとなんかゴチャゴチャするけど、サンスクリット語っていうのは受動の文章が大すきで、受動になってることに特別な意味があるわけじゃないことがおおい。複雑な人称変化をさけるために、過去については過去受動分詞、未来については未来受動分詞がよくつかわれる。どっちも受動分詞だから、けっきょく受動の文章になっちゃう。「かれがいった」っていう簡単な文章も「かれによっていわれた」なんてことになる。

神やほとけをよろこばせる、っていうのはインドでもよくいうことで、どうやってよろこばせるかっていえば、代表的なのは供養だろう。供養っていうと死者をとむらうとか先祖供養みたいだけど、もともとサンスクリット語の पूजा pūjā [プージャー]の翻訳語で、pūjā には「尊敬、尊重、崇拝、礼拝、ていねいな接待」っていうような意味がある。敬意をもって もてなすことっていえばいいのかな。実際には、神やほとけにいろいろささげものをしたり、そういう儀式をしたりする。

अनुरक्तो मे भव anurakto me bhava

anurakto は अनुरञ्ज् anu-√rañj (こころひかれる、このむ、愛着する、愛する)っていう動詞の過去受動分詞で、もう形容詞になってるともいえる(これもサンディで語尾がかわってる)。こういう -ta でおわる過去受動分詞の動作者は属格であらわされる。さらにこの過去受動分詞が属格といっしょにつかわれると過去の意味はなくなって、抽象名詞とか現在分詞みたいになる。

過去受動分詞の anurakta の意味は、受動分詞ってぐらいだから、まずは受動の意味で「愛されている」ってことだけど、ほかに能動の意味もある。つまり「愛している、愛着している」ってことで、その対象は、動詞のばあいとおんなじで、対格か処格であらわされる。

じゃあ、ここの anurakto は「愛されている」なのか「愛している」なのかっていうと、それはもちろん me との関係をかんがえればいい。me と bhava は上にでてきたのとおんなじだから説明はくりかえさないけど、この me の格はなにかっていうと、過去受動分詞といっしょにつかわれてるんだから動作者をあらわす属格だろう。かりにそうじゃないとしても、そのばあいは与格ってことになるから、「愛している」対象をあらわす対格にも処格にもあてはまらない。ってことは、anurakto の意味は「愛されている」なわけだ。

ただし、仏教混交サンスクリット語だと me には具格と対格の用例もあるから、その対格だとすれば、「愛している」って解釈できないこともない。でも、百字真言の前後の文章もふくめて、ここまでみてきた文章は一般的な古典サンスクリット語だった。それを、ここにきて、ここだけ仏教混交サンスクリット語として解釈しなきゃいけないもんなのか疑問におもう。この真言はぜんぶ古典サンスクリット語としてよめるんじゃないかな。

そうすると、ここの文章を直訳すれば、「わたしによって愛されているものになってください」とでもなるだろう。例によって よくある受動の文章だから、これを能動にかえれば、「わたしが愛しているものになってください」になる。ただ、これでもまだ直訳調っていうか、ちょっと不自然な感じがする。だれがだれを愛してるのか わかってるんなら、いちいち「わたしが」っていうのは必要ないし、me はここでも与格にとれないこともない。だから「わたしにとって いとしいものになってください」のほうがまだ自然な日本語のような感じがする。それに、こうしたほうが me が全部「わたしにとって」になって、ほかの3つともつりあいがとれていいっていえるかもしれない。

この文章に関連して供養のことをみておこう。ひとつまえのとこで、供養でほとけをよろこばせるっていうふうにかいたけど、金剛界マンダラには八供養っていわれてる女神がでてくる。このうち最初にあらわれるのが金剛嬉戯きげにょवज्रलास्या vajralāsyā、伝統的には金剛嬉ボサツ)で、ビルシャナ如来がまず「一切如来をよろこばす供養のサンマヤから生じる金剛」っていう瞑想にはいって、そのあと途中経過は省略するけど、金剛嬉戯女が「金剛サッタの愛人となって」あらわれて、こういう詩をとなえる。

अहो न सदृशी मेऽस्ति पूजा ह्यन्या स्वयंभुवां।
यत्कामरतिपूजाभिः सर्वपूजा प्रवर्तते॥

aho na sadśī me ’sti pūjā hy anyā svayabhuvā
yat kāmaratipūjābhi sarvapūjā pravartate∥

ああ、みずから存在しているもの(=仏)たちの供養で、わたしのようなものはほかにいない。
なぜなら、愛欲のよろこびの供養によって、すべての供養がおこなわれるのだから。

『金剛頂経』のインドの注釈書がチベット語訳でいくつかのこってるんだけど、そこには、「金剛サッタの愛人」について、「ボダイ心に対するよろこびを本性としている」「金剛サッタをよろこばせるかたである」っていうようなことがかいてある。それから、詩の2行めについては、「ボダイ心というのは仏になることをもとめるので、そのもとめるこころが非常につよいということで、『愛欲』ということばがつかわれている」「『愛欲』とは金剛サッタである。それをよろこぶので『愛欲のよろこび』である。そのこと自体が供養である」「『愛欲』とは、その本性が欲し愛着されるべきものであるから、世尊金剛サッタである。かれをよろこぶとは、かれがいとしいのである。そのいとしさをもって無限の供養をなすにいたるのである」って説明してる(注釈書の文は、中央公論社の『大乗仏典 中国・日本篇 8 中国密教』の訳注と、「高野山大学論叢11」の堀内寛仁「金剛頂経の説相」をもとにした)。

「愛欲」って訳したのは kāma なんだけど、これはギリシャ語のエロース(ἔρως [érɔːs])にあたることばで、どっちも愛の神の名前でもある。カーマの意味は「欲望、意欲、愛、愛着、愛欲、性愛」だけど、そのほかに「愛欲の対象」っていうのもある。「愛欲」について「その本性が欲し愛着されるべきものであるから」って説明してることからすると、ここの kāma も「愛欲の対象」ってことになるだろう。

「よろこび」って訳した rati は「よろこび、たのしみ、享楽、快楽、満足、恋情、愛のいとなみ」っていう意味があるけど、インド神話の愛の神カーマの妻の名前でもある。そうすると、kāma-rati っていうのは「カーマとラティ」っていう夫婦の神の名前ともとれる、っていうか、そういう連想をさせることばっていえる。

『金剛頂経』で供養に関してこういうことがでてくるから、「わたしの愛しているものになってください」っていうのを金剛嬉戯女の供養とむすびつけて解釈することができるだろう。愛してる「そのこと自体が供養である」、愛してることによって「無限の供養をなすにいたる」、そういうことだ。

こうやって供養とむすびつけるなら、ひとつまえの文章の「よろこばせる」ってことともつながりができる。愛してること自体が金剛サッタをよろこばせる供養だし、それはボダイ心を愛しもとめることでもある。ひとがボダイ心をおこすことをほとけたちはよろこぶわけだけど、これはボダイ心供養っていわれてる。

上にかいたみたいに、チベット仏教の百字真言は、ここの文章とつぎの文章の順番がいれかわってるんだけど、くりかえしていうと、ここにあげた日本につたわってるものがもとのかたちだとおもう。

सुपोष्यो मे भव supoyo me bhava

supoyo は पुष् √pu (やしなう、そだてる。支持する、保持する、維持する。成長させる、発展させる、おおきくする。繁栄させる、繁栄する。獲得する、所有する、もつ。享受する)の未来受動分詞 poya に su がついたもので、語尾がサンディでかわってる。ここは動詞がちがうだけで、あとはふたつまえの文章とまったくおんなじだ。

未来受動分詞の poya には「養育されるべき、栄養のいい、豊富な、繁栄する」っていう意味があるから、「繁栄する」っていうような意味をとった翻訳もよくみかける。それでもわかんないことはないのかもしれないけど、金剛サッタがボダイ心だってことをかんがえれば、この動詞の意味は「やしなう、そだてる、保持する」あたりがいいんじゃないかとおもう。

そうすると、この文章を直訳すれば、「わたしによって はぐくまれやすくなってください」「わたしによって たもたれやすくなってください」ってことになるだろう。それからここでも「わたしによって」じゃなくて「わたしにとって」っていう解釈もできるから、これをもうちょっとましな日本語にしようとすれば、「わたしにとって はぐくみやすくなってください」「わたしが簡単にそだてることができるものになってください」とでもすればいいのかな。要するには「あなたを簡単にはぐくんでいくことができますように」ってことだろう。「はぐくむ、そだてる」ってことは、獲得して、それを保持するってことをふくんでるってかんがえていいだろうから、翻訳としては「保持する」とか「獲得する」あたりのことはださなくてもいいだろう。それでも「たもち はぐくむ」っていってもいいかもしれないけど。

つまり内容としては、ボダイ心をうしなうことなく、たもったまんまで、さらにそれをそだててく、そういうことが楽にできるように、ってことだろうし、文字どおりの意味なら、金剛サッタとして自分の身にとどまってる存在をたもち、はぐくんでいくことが簡単にできるように、ってことになるだろう。

सर्वसिद्धिं मे प्रयच्छ sarvasiddhi me prayaccha

sarva- は「すべての、一切の、あらゆる種類の」。siddhi は上にかいたみたいに「成就」で、単数・対格。me はここでは与格で「わたしに」。prayaccha は प्रयम् pra-√yam (あたえる)の2人称・単数・命令形。

だから、「あらゆる成就をわたしにさずけてください」で、ここはとくに問題ないだろう。

百字真言の説明文に成就のことがでてきてたけど、こういうふうに百字真言そのものにあらゆる成就をねがうことばがちゃんとあるわけだ。

सर्वकर्मसु च मे चित्तश्रेयः कुरु sarvakarmasu ca me cittaśreya kuru

sarva- はまえとおんなじで、つぎの karmasu は karman (行為、行動、作用、ごう、カルマ)の複数・処格のかたちだ。ca は「そして、と」っていう接続詞で、文章の最初にはこない。me はいままで でてきたのとおんなじ。citta は「こころ」。śreya はもともと比較級の形容詞だけど、ここは中性名詞で「さらにいい状態、幸運、幸福、至福、恩ちょう、宗教的功徳」。kuru は कृ √k (する、つくる)の2人称・単数・命令形。

比較級には絶対用法っていうのがあって、そのばあいは比較をあらわすわけじゃないし、最上級のかわりとしてつかわれたりもする。それに、比較の意味だったら奪格といっしょにつかわれるんだけど、ここには奪格の名詞とかがないから、とくに比較の意味をかんがえる必要はないかもしれない。っていっても、ますますしあわせがおおきくなるようにってことをいってるとしたら、比較の意味もあることになる。

それから、me がどこにかかるのかがちょっと問題かもしれない。まずは属格だとして、sarvakarmasu にかければ「わたしのすべての行為において」だし、cittaśreya にかければ「わたしのこころの幸福を」だけど、与格ってかんがえて、「わたし(のため)に こころの幸福をつくりだしてください」ともかんがえられる。はっきりいって、どれともいえない。でも、どの解釈をとってもとくに内容がかわるわけでもないだろう。

とりあえず、「そして、すべての行為において、わたしのこころの(さらなる)幸福をうみだしてください」とでも直訳しておく。

हूं hū

は「吽」っていう漢字でうつされて、日本式の真言の発音だと「ウン」になる。阿吽あうんの呼吸とか、仁王像とか こまイヌの阿形あぎょう吽形うんぎょうの「吽」だ。いろんな意味に解釈されてるけど、弘法大師空海はこれをえんえんと論じた『吽字義』っていうのをかいてる。

これは金剛サッタの種子しゅじ(種字ともかく)で、種子っていうのは梵字ひと文字でほとけをあらわすものだけど(なかには子音だけをあらわすもうひと文字がついてるのもある)、チベット仏教の浄化法の瞑想だと、百字真言を円のかたちにおもいえがいて、そのまん中にこの種子をイメージするんだけど、それについてはすでに説明した。ちなみに、密教の種子は「しゅじ」だけど、唯識ゆいしきの種子は「しゅうじ」ってよむ。密教の種子を「しゅうじ」ってよむのはまちがいなんじゃないかな。

「金剛サッタとして」ってことで大印のことにもすこしふれた。それは身密にあたるわけだけど、ここにでてきた種子は法印っていえるだろう。法印は語密(口密)にあたる。もっとも、金剛サッタの名前そのものも真言だから、それを法印だっていってもいいし、百字真言そのものが金剛サッタの法印だともいえるのかもしれない。

『理趣釈』(大正蔵 No.1003、vol.19、p.609)はこの種子をこう説明してる。

吽字者因義。因義者謂菩提心為因。即一切如来菩提心。

吽字は因の義なり。因の義とは謂はく菩提心を因とす。即ち一切如来の菩提心なり。

フーン字は原因を意味する。原因を意味するとは「ボダイ心を原因とする」ということである。すなわちすべての如来のボダイ心である。

「菩提心為因(菩提心を因とす)」っていうのは『大毘盧遮那成仏神変じんべん加持経』(略して『大日経』、大正蔵 No.848、vol.18、p.1)にでてくる有名な文章なんだけど、それはそれとして、hū に「原因」の意味があるっていわれてるのは、「原因」って意味のサンスクリット語 हेतु hetu [ヘートゥ]と かしら文字がおんなじだからだろう。

は祈願の意味をふくんでるっていう説明もある。こういうふうにいわれるのは、हू √hū っていう動詞が「よぶ、よびかける、呪文でよびだす、祈願する、いのる」っていう意味だからだろう。この動詞とほんとに関係あるのかわかんないけど、こういう連想がはたらいてもおかしくはない。ちなみに、この動詞の過去受動分詞 हूत hūta (よばれた、いのりをささげられた)と英語の god はおんなじ語源で、god はもともと「よびかけられるもの、いのりをささげられるもの」っていう意味だった。

ह ह ह ह होः ha ha ha ha ho

説明するまでもないとおもうけど ha ha ha ha っていうのは わらい声で、そのあとの ho はよろこびをあらわすから、この5文字は cittaśreya (こころのさらなる幸福)と関連があるっていっていいだろう。

ha ha ha ha ho を金剛界の五仏、五智にあてる解釈もある。この5文字のまえにある hū は金剛サッタの種子でもあるから、ha ha ha ha ho を五仏だって解釈するんなら、ここには のちの本初仏もふくめた六仏がそろってるってかんがえることもできる。

もっとも、ここでわざわざ本初仏をもちださなくてもいいだろう。『金剛頂経』のなかだけでかんがえても、大ビルシャナとしての金剛サッタがいるんだから、その金剛サッタと五仏をあらわしてるっていえば、はなしはそれですむ。さらに、hū がボダイ心をあらわしてるってことからすれば、大ビルシャナの大ボダイ心としての金剛サッタっていったほうがいいかもしれない。

भगवन्सर्वतथागतवज्र bhagavan sarvatathāgatavajra

bhagavan はブッダの称号のひとつで、「幸運なひと、威徳あるひと、尊敬すべきひと」っていうような意味なんだけど、ここは呼格のかたちになってる。漢文訳だと「世尊」って訳されたり、主格の भगवान् bhagavān [バガヴァーン]の発音をうつした「薄伽梵/婆伽梵(ばがぼん)」がつかわれるたりする。『バガバッド・ギーター』のバガバッド(バガヴァッド)もおんなじことばで、語幹のかたち भगवत् bhagavat がサンディで भगवद् bhagavad になってる。

sarvatathāgatavajra も呼格で、これは「一切如来金剛」だから、そのまんまつづけて訳せば「世尊一切如来金剛よ」になる。「一切如来金剛」はこれで名前になってて、金剛サッタがこうよびかけられてるわけだけど、もうちょっと説明的に訳せば「一切如来の金剛杵」ってことだろう。

金剛サッタは大ビルシャナの別名でもあるわけだけど、べつの点からいえば、大ビルシャナの大ボダイ心・普賢大ボサツの別名でもある。この大ボダイ心・金剛サッタは一切如来たちの胸のなかにやどってる。密教は具体的なイメージをつかうから、この大ボダイ心が堅固なことを五鈷金剛杵であらわす。『金剛頂経』にでてくる五相ごそう成身観じょうじんがんっていう瞑想法だと、胸のなかに月輪があって、そこに五鈷金剛杵がたってるようにイメージする。この金剛杵のことをサッタ金剛っていうんだけど、一切如来の金剛杵っていうのはこのサッタ金剛のことだろう。このばあいのサッタはこころっていうか、もっと具体的にいえば心月輪のことをいってる。胸のなかにある月輪、あるいは、こころを具体的にあらわした満月のかたちだから、心月輪っていって、サッタ金剛は「心月輪の金剛杵」っていう意味だ。

そうすると、こんどは金剛サッタが、大印またはカツマ印としてあらわされるボサツのすがた、つまり尊形じゃなくて、意密(心密)にあてられるサンマヤぎょうとしてよびかけられてることになる。『金剛頂経』にでてくるサンマヤ印は手印なんだけど、上に引用した説明のひとつにもあるみたいに「特定の尊格の内面性を象徴する象徴的な形象」もサンマヤ印で、こういうのをサンマヤ形っていってる(手印だって「象徴的な形象」だろうけど)。サンマヤ形も手印とおんなじように仏像にあらわされてて、仏像が手にもってるものなんかがそうだ。

この解釈がただしいとすれば、これで金剛サッタの大印(身密)と法印(語密)のほかにサンマヤ印(意密)もでてきたことになる。

मा मे मुञ्च mā me muñca

mā は禁止をあらわす副詞。me はいままでのとおんなじ。muñca は मुच् √muc (はなす、解放する。にげる、たちさる、はなれる。みすてる)っていう動詞の2人称・単数・命令形。

ここの翻訳をみると、「わたしをみすてないでください」っていうようなものがおおい。たしかに内容からすれば、結局はそういうことだろう。でも、「みすてる」っていう意味のばあい対象は対格で、そうなると me を対格だってかんがえなきゃいけなくなる。でもそれは、上にもかいたみたいに、ちょっと疑問におもう。

それよりも、me を属格として「わたしから」って意味にとれば、muc は「はなれる、さっていく」って意味に解釈できる。

ただし「はなれる」っていう意味にとれるばあいでも、「ある場所をはなれる」みたいな感じで対格をとることだってあるし(もちろん格が日本語の「を」とか「から」とかとそのまんま対応してるわけじゃないけど)、内容的には「みすてないでください」っていうのが特別おかしいわけでもないだろう。

でも、とりあえず「わたしからはなれないでください」「わたしのもとからさっていかないでください」ってことでいいとおもう。

वज्रीभव vajrībhava

vajrī- は vajra が変化したかたちで、名詞とか形容詞が √bhū とむすびついて「…になる」っていう意味になるとき、語尾の -a が -ī にかわる。√bhū の名詞 bhāva (なること)とつながるときもおんなじで、百字真言のあとにつづく文章に vajrasattvadṛḍhībhāvād っていうのがでてきてた。この -dṛḍhībhāvād は dṛḍha の語尾が -ī にかわってて、bhāvād は bhāva の奪格だから、「堅固になるので」っていう意味になる。

おんなじことは √k とむすびつくときもおこって、こっちは「…にする」になるんだけど、この真言のまえにある文章にでてくる vajrīkaraavidhivistaro にその例がある。karaa は √k の名詞または形容詞で、「する(こと)」だから、vajrīkaraa- で「金剛のようにする(こと)」っていう意味だ。

vajra には形容詞としてのつかいかたもあるから、そのばあいは「金剛のような、(金剛のように)かたい、堅固な」とかの意味で、ここもそういうことなら dṛḍha っていうのとけっきょくはおんなじ意味になる。でも、それならなんで dṛḍhībhava じゃなくて vajrībhava なんだろ。

vajra が名詞なら「金剛杵になれ」ってことだけど、一切如来の金剛杵にむかって「金剛杵になれ」っていうのもおかしなはなしで、だから形容詞ってかんがえるとしても、金剛杵にむかって「金剛杵のように堅固になれ」っていうのだって、ちょっとどうかとおもう。それとも「金剛石のように堅固になれ」ならおかしくないのかな。

この金剛杵は、金剛サッタが金剛杵のすがたで一切如来たちの胸のなかにやどってるものだって解釈したわけだけど、この時点じゃ修行者はまだ一切如来とおんなじ状態にはなってなくて、自分の胸にサッタ金剛があるわけじゃないってかんがえられる。そうだとすると、「世尊一切如来金剛よ」ってよびかけたのは、金剛サッタが一切如来のサッタ金剛でもあるから、それにちなんだ名前をつかってるだけで、自分の胸のなかのサッタ金剛にむかっていってるんじゃないってことになるだろう。っていっても、本人の自覚としてはわかってなくても、じつはすべての存在のなかに本来やどってるわけだからから、実感はなくても理屈のうえでそれにむかってよびかけるってこともかんがえられる。だから、そういう解釈でもいい。で、この名前でよびかけてるってことは、サッタ金剛として自分の身にも とどまってほしい、あるいは、自分でそれを自覚してる状態にしてほしいってねがってるからで、それがここの vajrībhava だってかんがえれば、はなしは通じるんじゃないかな。

そうだとすれば、vajrībhava は「金剛杵になれ」と「金剛杵のように堅固になれ」っていうのの両方をふくんでるともいえる。金剛杵は堅固なものだから、直訳としては「金剛杵になってください」だけでもいいかもしれないけど、両方の意味をはっきりだすんなら、「金剛杵としてしっかりとわが身にとどまってください」とでもなるだろう。

महासमयसत्त्व mahāsamayasattva

これは mahā- と samaya と sattva の複合語なんだけど、最初の mahā- は「おおきな、偉大な。おおいに、非常に」っていう意味で、これが漢字で「摩訶」ってうつされて、「摩訶不思議」の「まか」になった。その「まか」は「非常に」って意味だ。

この複合語全体は呼格だから、ここを仏教用語のまんまで訳せば「大サンマヤ・サッタよ」「偉大なサンマヤ・サッタよ」になる。まあ、これだっていいんだけど(このまんまのほうが翻訳としては無難だろうけど)、ここでもサンマヤの意味が問題になるだろう。真言の最初に誓願って意味のサンマヤがでてきてるから、最後もそれでしめくくってるってことで、とりあえず「偉大な誓願の存在よ」ってことでいいかもしれない。

前後関係をかんがえると、サッタ金剛っていうサンマヤ形がでてきたとこだから、直接そのことをいってるともかんがえられる。そのばあいならサンマヤは象徴って意味になる。サッタ金剛は直接のイメージとしてはボダイ心が堅固なことをあらわしてたり、五鈷金剛杵はほとけの五智を象徴してたりするんだけど、一般的にいうと、サンマヤ形は仏の誓願をあらわしてるって説明されてる。サンマヤ形っていうことばを「誓願(サンマヤ)のかたち」って解釈して、そういわれてるのかもしれないけど、とにかく、この説明からすると、サンマヤ形はサンマヤ(誓願)のサンマヤ(象徴)なわけだ。だから、直接にはサンマヤ形のことだから「偉大な象徴の存在」ってことになるけど、なかみとしては誓願のことをさしてるともいえるから、このばあいでも内容的には「偉大な誓願の存在」ってことにはなるかもしれない。

アミダ如来の本願みたいに、金剛サッタの具体的な誓願をといてる経典があるのかどうかわかんないけど、ほとけの誓願っていえば結局は、すべてのものをさとらせて ほとけにする、ってことになるだろう。サンマヤの「一致、平等」っていう意味にひっかけていえば、スネルグローブが説明してるみたいに、ほとけと修行者を ひとつにする 誓願ってことだし、おんなじことを空海の『秘蔵記』は、「我の如く異なることなからしめん(私と異なることのないようにしよう)」(『弘法大師空海全集 第四巻』筑摩書房)っていってる。つまり、ほとけ自身とちがいのないものにしようっていう誓願なわけだ。そうすると、サンマヤ形はサンマヤ(ほとけ自身とひとしいこと)のサンマヤ(誓願)のサンマヤ(象徴)ってことになる。

こうしてみると、サンマヤってことばはのこしたほうがいいような気もするけど、それだったら最初のサンマヤも「誓願」って訳さないでサンマヤのまんまのほうがいいってことにもなるだろう。まあ、翻訳のしかたはいろいろあるから、どれかひとつだけとはきめられない。

ところで、『金剛頂経』には、十六大ボサツの最初のグループの金剛サッタと金剛王と金剛愛と金剛善哉ぜんざい(伝統的には金剛喜)のことを「一切如来の大サンマヤ・サッタ」っていってるとこがあって、これについて、チベット語訳でのこってる注釈書にはこうかいてある。「偉大なさとりの象徴であるから『偉大な象徴(大サンマヤ)』であり、偉大なさとりを獲得させる原因である存在に対して『偉大な象徴としての存在(大サンマヤ・サッタ)』というのである。したがって、その4つの功徳は、諸仏如来たちのあらゆる功徳を獲得するための原因であるから、マンダラにおいて、4つの大印の本性として形成されたのが象徴としての存在者である」(『大乗仏典 中国・日本篇 8 中国密教』の訳注をもとにした)。

これをみると、ここのサンマヤは誓願の象徴じゃなくて さとりの象徴ってことになってるし、その象徴はサンマヤ形じゃなくて大印つまり尊形だ。すがた かたちのないものが象徴としてのすがたの大印としてマンダラにあらわれたわけで、さらに、象徴っていうのは、たんになにかをあらわしてるだけじゃなくて、その象徴つまり印契をつかって修行をするものだ。その点からも「偉大なさとりを獲得させる原因」「諸仏如来たちのあらゆる功徳を獲得するための原因」ってことになる。

ただそれだと、サンマヤ形は誓願の象徴で、大印はさとりの象徴ってことみたいだけど、べつにそういうわけじゃなくて、サンマヤ形だって「ほとけのさとりの境地を象徴的に表現するもの」ともいわれてる。誓願の象徴なのか さとりの象徴なのかは、ボダイ心のふたつの面みたいなものかもしれない。

それに、結局はおんなじことになるともいえる。「大サンマヤ・サッタ」は「さとりを獲得させる原因である存在」のことだっていってて、「さとりを獲得させる」っていうのは要するにほとけの誓願だし、さとりの境地はほとけ自身とひとしいわけだから、サンマヤ(ほとけ自身とひとしい さとりの境地)を獲得させるサンマヤ(誓願)のサンマヤ(象徴)ってことになる。

どっちにしても象徴であることにはかわりないし、「大サンマヤ・サッタ」のサンマヤが象徴じゃなくて誓願のことだってはっきりいえるんならともかく、「一切如来金剛」からのつながりとしてはサンマヤ形のことだとおもうから、ここは「偉大な象徴の存在よ」ってことでいいとおもう。それに、この「大サンマヤ・サッタ」が百字真言全体のしめくくりとして尊形のことをいってるとしても、尊形も象徴なんだから訳としてはおんなじことだ。

आः ā

百字真言はこの ā っていう種子でおわる。チベットの百字真言みたいにこのあとに हूं फट् pha がついたら百字じゃなくなる。

阿字の五転『大毘盧遮那成仏経しょ』(略して『大日経疏』、大正蔵 No.1796、vol.39、p.723)とか『金剛頂瑜伽中ほつ阿耨多羅あのくたら三藐さんみゃく三菩提心論』(略して『菩提心論』、大正蔵 No.1665、vol.32、p.574)によると、आः ā のもとになる a [ア]っていう文字について、阿字あじの五転、五義ってことがいわれてるんだけど、その五転を右にならべてみた(いちばん左が梵字、まん中がデーバナーガリー文字、右がローマ字)。a を基本にして、それに記号(赤い部分)をくっつけることで、ā [アー]、a [アン]、a [アハ]、ā [アーハ]になる。a は発心ほっしん(ボダイ心をおこすこと)、ā は修行、a はボダイ(さとり)、a はネハン、ā は方便の意味があるっていわれてる。それと、梵字のばあい、文字につける記号にこの意味にそった名前があって、ā の記号は行点ぎょうてんまたは修行点、 の記号は空点またはボダイ点、a の記号はネハン点っていわれてる。ā には行点とネハン点がついてることになる。

この阿字の五義からすると、ā の意味は方便なんだけど、この方便はボダイとネハンのあとにある。さとりをひらいて、そのまんまネハンの境地にとどまるんじゃなくて、そのあと方便の活動をするってことだ。

方便ってことばはこれまでにもなん度かでてきてるけど、あらためて説明すると、サンスクリット語の उपाय upāya [ウパーヤ]の翻訳語で、upāya の意味は「ちかづくこと、接近、アプローチ。手段、方法」ってことだ。

ā には行点とネハン点がついてるわけだけど、さとりをひらいたあとの ほとけとしての活動、ネハンの境地にありながら そこにとどまらないで活動するってことをあらわしてるんだろう。その活動が方便で、方便をあらわす種子が真言の最後にきてるっていうのは、『大日経』(大正蔵 No.848、vol.18、p.1)の有名な文章「方便為究竟(方便を究竟くきょうとす)」をおもわせる。「究竟」っていうのは पर्यवसान paryavasāna [パリヤヴァサーナ]の翻訳で、これは「おわり、完結、結末、究極」っていうような意味だから、方便が究極のものだっていってるわけだ。方便が最終目的だっていってもいいかもしれない。修行をして さとりをひらくことの最終目的は方便にあるってことになる。

ところで、「一切如来金剛」っていうよび名には、一切如来ってことばがついてる。一切如来の胸にやどってるから一切如来の金剛杵なんだろうけど、それだけじゃない。一切如来っていうのは簡単にいえば大ビルシャナの別名みたいなもんなんだけど、一切如来ってぐらいだから、たくさんの如来なわけで、大ビルシャナのいろんなはたらきのことをいってる。そのはたらきっていうのは、仏教のことばをつかえば衆生しゅじょう済度さいどのはたらきで、いきとしいけるものをすくう、ってことだけど、べつのことばでいえば、利他のはたらきっていえる。利他っていうのは、ひとの利益になることをするってことで、その反対は自利だ。で、方便っていうのは利他のはたらきのことをいってるから、一切如来っていってることにも方便の意味あいがふくまれてることになる。大ビルシャナの方便のすがたが一切如来だっていえるだろう。だから、「一切如来金剛」っていう名前には方便・利他の意味あいがあるとおもう。

そういう名前で金剛サッタによびかけて、金剛サッタの方便のすがたともいえるサッタ金剛が修行者の身にとどまることをねがって、最後に方便の種子がでてきてるわけだ。

さらに、一切如来の金剛杵が修行者の胸のなかにとどまるようになるなら、それこそ修行者も一切如来の一員になるわけで、修行者がほとけとしての活動にむかうってことにもなるだろう。修行者が一切如来になるってことは、五相成身観の最後の真言からもいえるとおもう。そうすると、最後にでてくる方便の種子は、ほとけの方便ってことだけじゃなくて、修行者のはたらきのこともふくんでるのかもしれない。そうだとすれば、百字真言の「ホーホ」までが修行者にとっての自利で、「世尊」からは修行者にとっての利他だっていう解釈をすることもできそうだ。

後期密教になると、からだと ことばと こころの金剛っていう三密の種子真言として、順に o と ā と hū っていうのがとかれるようになる。この種子は百字真言にちょうど3つともでてくるから、チベット密教の百字真言の説明だとかならずこのことにふれてる。っていっても、たいていは ā は聖なることば(語密)の種子だっていう説明だけだけど。

それでも、ā が語密の種子だってことをほとけの説法とむすびつけてかんがえるなら、説法は方便の活動の一環ともいえるから、ā が方便の種子だってことと関連することになる。

さらに、チベット密教だと ā は不空成就如来の種子で(日本の密教だと a)、不空成就如来はカツマ部族、つまり活動面を担当してるから、このことからも ā と方便の活動をむすびつけて理解することができるだろう。

翻訳

これで百字真言を全部みおわったから、全体をとおして訳したものをあげておこう。

オーン、金剛サッタよ、誓いのとおりになさってください。
金剛サッタとして すがたをあらわしてください。
わたしにとって ゆるぎないものになってください。
わたしにとって よろこばせやすいものになってください。
わたしにとって いとしいものになってください。
わたしにとって はぐくみやすいものになってください。
あらゆる成就をわたしにさずけてください。
そして、なにをしていても わたしのこころがますます しあわせにみたされるようにしてください、フーン・ハ・ハ・ハ・ハ・ホーホ。
世尊一切如来金剛よ、わたしからはなれないでください。
金剛杵のすがたでしっかりと とどまっていてください、偉大な象徴であるかたよ、アーハ。

百字真言のラップ

YouTube で百字真言の動画をけっこうみつけた。チベット式のがおおいけど、なかにはサンスクリット語としての発音でとなえてるのもあったり、曲をつけてうたってるのとか、ラップにしてるのもあった。

そのラップは台湾かなんかの動画だとおもうんだけど、チベット式の発音で、文章そのものもチベット式のものだった。チベット仏教の信者ならチベット式でいいだろうけど、せっかくならちゃんとしたサンスクリット語の真言のラップだったらおもしろかったのに。

チベット式の発音だと音節のながさのちがいがなくなってるし、もとの発音とはずいぶんちがってるとこもあって(日本式でもそうだけど)、たとえば सुतोष्यो sutoyo が「ストカヨ」だったりする(yo がチベット語よみだと「カヨ」になる)。

そこで、百字真言をもともとの文章でサンスクリット語として発音して、音節のながさのちがいもちゃんとリズムに反映させて、さらにことばのアクセントも音楽のアクセントと一致するようなラップをかんがえてみた。

ただし、サンスクリット語のアクセントは、そこらの本にはラテン語のアクセントの規則みたいなことがかいてあるけど、インド人ははっきりアクセントをつけて発音するわけじゃないし、ながい母音に自然にちょっとアクセントがつくみたいな感じのものになってるから、あんまりがんがえなくてもいいのかもしれない。

ōṃ vaj-jra-sat-twa sa-may-am a-nu-pā-la-ya|vaj-jra-sat-twat-twē-nō-pa-tiṣ-ṭha|dṛ-ḍhō mē bha-va|su-tōṣ-ṣyō mē bha-va|a-nu-rak-tō mē bha-va|su-pōṣ-ṣyō mē bha-va|sar-wa-sid-dhiṃ mē pra-yac-cha|sar-wa-kar-ma-su ca mē cit-taś-śrē-yaḥ ku-ru hūṃ ha ha ha ha hōḥo|bha-ga-van sar-wa-ta-thā-ga-ta-vaj-jra mā mē muñ-ca|vaj-jrī-bha-va ma-hā-sa-ma-ya-sat-twa āḥa∥

ここのローマ字がきは一般的なものとちがってなるべく実際の発音をあらわすようにした。e と o にも母音をのばす記号をつけて ē ō にしたし、半母音のまえの子音は二重に発音されるから、そのとおりふたつ かいて、たとえば वज्र‍ は va-jra じゃなくて vaj-jra にした。

ビサルガ()の発音は、むかしは子音だけだったのかもしれないけど、いまのインド人の発音だとビサルガのまえの母音をあとにもつけて発音するから、ローマ字でもそのとおりにした。だから、होः は ho じゃなくて hōo [ホーホ]にしたし、आः は ā じゃなくて āa [アーハ]にした。1音節あつかいだから音符のほうはスラーでつないであるけど、うしろの8分音符のとこで母音つきのビサルガを発音するつもりでかいてある。ただし、k のまえのビサルガはドイツ語の Buch の ch みたいに発音するから(発音記号は[x])、これには母音をつけなかった(母音をつけて発音してもいいんだろうけど)。

व् にはふつう v をつかうし、ここでも基本的にはそうしてるけど、子音のあとにつづくばあいは w にした。とくに子音のあとだと w みたいな発音になるからだけど、それ以外のときでも w って発音したってわるくはないし、そもそも v と w の区別があるわけじゃない。いちばんいいのは、どのばあいでも v の口のかたちで w を発音するやりかただろう(発音記号は[ʋ])。

それから、ローマ字のつづりのわけかたはデーバナーガリー文字のくぎりとおんなじにはなってない。デーバナーガリー文字は文字のまとまりが音節とは一致してないからだ。

百字真言とにてる真言

ついでに百字真言とにてる真言についてもかいておくことにする。

その真言は『理趣経』関係の儀軌にでてくるもので、百字真言よりすこしながい。出典は、『大楽金剛薩埵修行成就儀軌』と『金剛頂勝初瑜伽経中略出大楽金剛薩埵念誦儀』と『勝初瑜伽儀軌真言』と『普賢金剛薩埵略瑜伽念誦儀軌』と『仏説最上根本大楽金剛不空三昧大教王経』(七巻理趣経/理趣広経)。

हे महासुखवज्रसत्त्वायाहि शीघ्रं महासुखवज्रामोघसमयमनुपालय प्रबुध्य प्रबुध्य सुरतस्त्वमनुरक्तो मे भव सुतोष्यो मे भव सुदृढो मे भव सुपोष्यो मे भव भगवन्ननादिनिधनसत्त्व सर्वसिद्धिं मे प्रयच्छ एष त्वामाकृष्य प्रवेश्य समयैर्बध्वा वशीकरोमीमैर्मुद्रामन्त्रपदैः जः हूं वं होः॥

he mahāsukhavajrasattvāyāhi śīghra mahāsukhavajrāmoghasamayam anupālaya prabudhya prabudhya suratas tvam anurakto me bhava sutoyo me bhava sudṛḍho me bhava supoyo me bhava bhagavann anādinidhanasattva sarvasiddhi me prayaccha ea tvām ākṛṣya praveśya samayair badhvā vaśīkaromīmair mudrāmantrapadai ja va ho

おお、大楽金剛サッタよ、すぐにきてください。金剛のような大楽をかならずさずけるという約束のとおりになさってください。目ざめてください。目ざめてください。あなたは妙適です。わたしにとって いとしいものになってください。わたしにとって よころばせやすいものになってください。わたしにとって本当にゆるぎないものになってください。わたしにとって はぐくみやすいものになってください。世尊、はじまりもおわりもないものよ、あらゆる成就をわたしにさずけてください。このわたしはあなたをひきよせ、ひきいれ、約束によってつなぎとめ、おもいのままにします、この印契と真言によって、ジャハ・フーン・バン・ホーホ。

この真言は金剛サッタの十七字の真言と百字真言をくみあわせたような感じになってる。十七字の真言は、『普賢金剛薩埵略瑜伽念誦儀軌』と『金剛頂瑜伽金剛薩埵五秘密修行念誦儀軌』にでてくるもので、『理趣釈』にもとりあげられて、十七清浄句と十七尊との対応がとかれてる。

ओं महासुखवज्रसत्त्व जः हूं वं होः सुरतस्त्वं॥

o mahāsukhavajrasattva ja va ho suratas tva

オーン、大楽金剛サッタよ、ジャハ・フーン・バン・ホーホ、あなたは妙適です。

大楽だいらく」っていうのは、簡単にいえば『理趣経』がとく さとりの境地のことで、金剛サッタの別名でもある。「妙適みょうてき」については、『理趣釈』にこういう説明がある。

妙適者。即梵音蘇囉多也。蘇囉多者。如世間那羅那哩娯楽。金剛薩埵亦是蘇囉多。以無縁大悲遍縁無尽衆生界。願得安楽利益。心曾無休息。自他平等無二故。名蘇囉多耳。

妙適は、即ち梵音ぼんのん蘇囉多そらたなり。蘇囉多は、世間の那羅なら那哩なりの娯楽の如し。金剛薩埵も亦是れ蘇囉多なり。無縁の大悲を以てあまねく無尽の衆生界を縁じ、安楽利益を得んことを願ふ。心かつ休息くそくすること無く、自他平等無二の故に、蘇囉多と名づくるのみ。

妙適はつまりサンスクリット語音のスラタである。スラタは世間でいうナラ・ナーリーの楽しみのようなものである。金剛サッタもまた、これはスラタである。無条件の大いなるあわれみをもって、ひろく限りない生きとし生けるものの世界を対象にして、安楽と利益が得られることを願われている。(したがって)仏の心はいまだかつて休むことがなく、仏みずからと他のすべての生きとし生けるものが平等でわけへだてがないから、(比喩的に)スラタと名づけるだけのことである。
(日本語訳は宮坂宥勝『仏教経典選 8 密教経典』〔筑摩書房〕による。ただし漢字のサンスクリット語をカタカナになおした)

スラタは सुरत surata で、ことばそのものの意味としては「すばらしいよろこび」だから、「妙適」っていうのはその直訳だ。でも意味してるのは「ナラ・ナーリーの楽しみ」のことで、ナラは नर nara で「男」、ナーリーは नारी nārī で「女」って意味だから、スラタっていうのは男女のまじわりそのもののことだ。金剛サッタをそのスラタにたとえるのは「自他平等無二の故に」って説明してるけど、金剛サッタがスラタだっていうのは、それだけじゃないだろう。

上にも引用したみたいに「ヴァジュラ(金剛)は空性を意味し、サットヴァ(薩埵)は有るもの・世界顕現を行ないつつある識・慈悲を意味する。そしてこの対立する二つが融合し合一したものが金剛薩埵という神的な存在(絶対者)である」(川崎信定訳『原典訳 チベットの死者の書』ちくま学芸文庫)っていわれてるし、名前のことをいわなくても、金剛サッタは、

全体と部分、永遠と時間、空性くうしょうしき、個体と普遍、存在と非存在が同時に存在し、浸透しあっている
(Lama Anagarika Govinda: The Foundations of Tibetan Mysticism

って説明されてる。神秘主義に関してよくいわれるニコラウス・クザーヌスの「反対〔対立物/相反するもの〕の一致(coincidentia oppositorum)」ともいえるだろう。ここがスラタにたとえられるとこだ。

それから、金剛サッタがボダイ心だってことからしても、おんなじことがいえる。

『秘密集会タントラ』の『続タントラ』では「菩提心とは空性と大悲とが不可分であるもの」という考えが生まれた。〔…〕これは無上瑜伽密教における基本的な菩提心説となった。
 空性は般若を、大悲は方便を意味し、同義語としても用いられた。そして般若は女性を、方便は男性を表し、前者は静止の原理、後者は活動の原理とも考えられた。このように考えられた上で、般若と方便とが不二一体化したものが菩提心である、という定義が生まれた。
 さらに発展して般若と方便との一体は、女性と男性との合体に一致すると考え、これを、大楽(mahāsukha)であり、菩提心であるとも考えた。
(田上太秀『菩提心の研究』東京書籍)

ハンニャ(プラジュニャー)はサンスクリット語だと女性名詞で、方便(ウパーヤ)は男性名詞だから、ハンニャが女性で方便が男性だっていうのにはこのことも関係がある。で、ボダイ心がハンニャと方便の合一だってかんがえられてることから、そのボダイ心である金剛サッタもやっぱり女性と男性の合一にたとえられることになる。

スラタってことばそのものの意味としては「まじわり」とか「合一」じゃなくて、あくまで「すばらしいよろこび」だ。「対立する二つが融合し合一」して、そこにその「すばらしいよろこび」がうまれるわけで、その境地をべつのことばでいったのが「大楽(マハースカ)」だ。引用したボダイ心の説明にも「大楽」がでてきてた。

ところで、真言のなかにでてくる सुरतस्त्वं suratas tva [スラタス トワン](あなたは妙適スラタです)っていうのは、これだけでも金剛サッタの真言で、日本式の発音だと「そらたさとばん」っていう。そういえば、明恵みょうえ上人しょうにんの和歌にもソラタサトバンがよみこまれてたのがあったっけ(けっこう字あまりだけど)。

金剛サタノ大楽ナムソトヲカラム
  コヽロキヨクハ素羅多薩怛鑁
(金剛サッタの大楽何ぞ遠からむ
   心清くはソラタサトバン)

はなしをもどすと、最初の he [ヘー]はよびかけの感嘆詞で、「おい」っていう感じのことばだ(『七巻理趣経』だと o になってる)。mahāsukhavajrasattvāyāhi はサンディをとけば mahāsukhavajrasattva āyāhi で、「大楽金剛サッタよ、きてください」っていう意味になる。śīghra は「すみやかに」。

mahāsukhavajrāmoghasamayam (これは対格のかたち)の解釈はいろいろあるだろうけど、とりあえず mahāsukhavajra + amoghasamaya ってかんがえて、直訳すれば「大楽金剛の確実な約束」ってことで、「金剛のように永遠不滅の大安楽をひとびとにかならずさずける約束」って意味に解釈した。サンマヤは「誓願、本誓、誓い」とかのほうがいいんだろうけど、あえて「約束」にしてみた。これは、最後のほうにでてくるサンマヤとの関係もある。anupālaya の説明は百字真言の本文のの解釈を参照(サンマヤの説明も)。

prabudhya は「目をさましてください」だけど、ほとけは瞑想の境地にはいってるから、そこからでてきてくださいってことだ。

suratas tvam についてはもう説明した。そのあとの、anurakto……supoyo me bhava については百字真言の本文の解釈を参照。百字真言と順序がちがってるけど、意味はおんなじことだ。ただし、百字真言の dṛḍho がこっちは sudṛḍho になってる。この su- は百字真言にもでてきたし、surata の su- でもあるけど、「よく、すばらしく、非常に」って意味だ。

bhagavann は呼格の bhagavan がサンディでこうなってる。つまり、「バガヴァン+アナーディ…」は「バガヴァナナーディ…」じゃなくて「バガヴァンナナーディ…」になる。観音(kan+on)が「カンノン(kannon)」になるみたいなものだ。つぎの anādinidhanasattva はおんなじ呼格で、直訳すると「無始無終サッタよ」なんてことになる。

sarvasiddhi me prayaccha は百字真言とおんなじだ。

ea は指示代名詞 एतद् etad (これ、この)の男性・単数・主格のサンディしたかたちで、あとにでてくる動詞 vaśīkaromi の語尾変化であらわされてる1人称単数の主語と同格だから、「このわたしは」ってことになる。tvām は「あなたを」。

ākṛṣya は आकृष् ā-√kṛṣ (ひきよせる)の絶対分詞で、絶対分詞っていうのは、さきにおこなわれる動作をあらわす。

praveśya はप्रविश् pra-√viś (はいる)の使役の絶対分詞。

samayair は samaya の複数・具格で「サンマヤによって」だけど、このサンマヤは、修行者がこれこれこういう行をすれば ほとけがあらわれるとか、そういう真言とか印契とかのきまりごと、とりきめ、みたいなことだろう。最初のサンマヤといっしょにしてとりあず「約束」って訳したのは、真言とか印契でもって ほとけをよびだしたりするのは、要するに、ほとけとのあいだの約束だとおもうからだ。

बद्ध्वा baddhvā/बध्वा badhvābadhvā は बन्ध् √bandh (しばる)の絶対分詞なんだけど、正確なつづりは baddhvā で(デーバナーガリー文字のつづりは右の画像)、badhvā っていう略したつづりがよくつかわれる。どっちでかいても発音がおんなじになるからだ。半母音のまえの子音は二重に発音されるから、dhva は ddhva とおんなじ発音になる。baddhvā はローマ字ならなんてことないんだけど、デーバナーガリー文字だとフォントによってはちゃんとした結合文字として表示されない。だから、ここでは略したつづりのほうにしておいた。

vaśīkaromīmair はサンディをとけば vaśīkaromi と imair になる。vaśīkaromi は वशीकृ vaśī-√k (征服する、したがわせる)の1人称・単数・現在。

imair は指示代名詞 इदम् idam (これ、この)の中性・複数・具格なんだけど、正規の変化形じゃない。いわゆる仏教混交サンスクリット語のかたちで、正規のかたちなら एभिर् ebhir になる。

mudrā-mantrapadai は imair とおんなじ中性・複数・具格で、「印契と真言句によって」ってことだけど、その真言がこのあとの ja va ho で、この4つの種子それぞれに手でむすぶ印契があるから、「印契と真言」っていってる。

この種子真言は、日本式の発音だと「じゃく、うん、ばん、こく」っていって、四摂ししょうとかいうんだけど、この最後の文章にでてきた3つの絶対分詞とひとつの定動詞に対応してる。つまり、ja が ākṛṣya (ひきよせて)、hū が praveśya (ひきいれて)、va が badhvā (つなぎとめて)、ho が vaśīkaromi (意のままにする)にあたる。

ところで、百字真言とにてるこの真言は八田幸雄『真言事典』(平河出版社)にものってて、そこには「象徴的な表現をしているため文の真意がつかみにくい」ってかいてあるんだけど、翻訳をみてもらえばわかるように、とくにそういうもんじゃないとおもう。『理趣経』関係の真言だから、いかにも『理趣経』っていうイメージにひきよせて解釈してて、このひとの「密教経軌における真言文について」(「密教文化」160)には、「この真言は金剛薩埵が永遠の真理と交わり、歓喜の中にあることを男女の交会に喩えて示そうとした真言」なんてかいてあるけど、この真言でそういう『理趣経』の十七清浄句みたいな要素っていったら「大楽」と「妙適」っていうことばぐらいだろう。

このひとがあげてる真言の本文そのものにだいぶ問題があって、そのために意味がわかんなくなってる。その本文をみると、漢文の経典にのってる梵字を参考にしてない感じだし、子音の連続をあらわしてる「二合」っていう わり注があるのに、それを無視して子音の連続にしてない。だから prabudhya が prabuddhaya (「目覚めさせよ」)になってるし、ほかにも「二合」を無視しておかしくなってるとこが4か所ぐらいある。

それとか、sudṛḍho を sudś にしちゃって、「我れに美人が生ぜよ」なんて訳してるけど、この -ho は経典には「住」ってかいてあって、「荼護反」っていう注がついてるものもある。あきらかにこれは百字真言とおんなじように ho をあらわしてて、o っていう母音がついてることは「荼護反」っていう注からもわかる。この「荼護のはん」っていうのは、「住」の発音が「荼」の子音と「護」の母音(厳密にいえば韻の部分)をあわせたものだってことをいってる。それに、そもそも sudś っていうかたちはサンディの規則からしてもおかしい。ただし、それは正規のサンスクリット語のはなしで、これが仏教混交サンスクリット語の例だってとりあえずかんがえるんなら、sudś でもいいのかもしれない。そうだとしても、訳すとしたら「わたしにとって(あなたは)うつくしくなれ」だろう。百字真言のよくある翻訳みたいに、2人称の命令形なのに3人称の命令形みたいに訳してる(ここの前後の文章の翻訳もそうなってる)。

おもな参考文献 (サンスクリット語の辞書とか文法書はのぞく)

● 岩本裕訳『仏教聖典選 第7巻 密教経典』読売新聞社
● 金岡秀友『密教の哲学』講談社学術文庫
● 川崎信定訳『原典訳 チベットの死者の書』ちくま学芸文庫
● K[キャサリン]・マクドナルド(ペマ・ギャルポ、鹿子木大士郎訳)『チベット・メディテーション―― チベット仏教の瞑想法』(チベット選書)日中出版
● ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ『チベット密教の瞑想法』金花舎
● 坂野栄範『金剛頂経に関する研究』国書刊行会
● S・B[シャシブシャン]・ダスグプタ(宮坂宥勝、桑村正純訳)『タントラ仏教入門』人文書院
● ジュゼッペ・トゥッチ(ロルフ・ギーブル訳)『マンダラの理論と実践』平河出版社
● ジュゼッペ・トゥッチ(金岡秀友、秋山余思訳)『マンダラの理論と実際―― 特に現代の深層心理学を考慮して』金花舎
● 田上太秀『菩提心の研究』東京書籍
● 田久保周誉(金山正好補筆)『梵字 悉曇』平河出版社
● 田中公明『チベット密教』春秋社
● 田中公明『敦煌 密教と美術』法蔵館
● 田中公明、吉崎一美『ネパール仏教』春秋社
● 田中公明訳註『チベット密教・成就の秘法―― ニンマ派総本山ミンドゥルリン寺制定・常用経典集』大法輪閣
● 津田眞一訳『和訳 金剛頂経』東京美術
● ツルティム・ケサン、正木晃『チベット密教 図説マンダラ瞑想法』(実践講座4)ビイング・ネット・プレス
● 栂尾祥雲『金剛頂経の研究』(栂尾祥雲全集 別巻Ⅲ)臨川書店
● 栂尾祥雲『秘密事相の研究』(栂尾祥雲全集Ⅱ)臨川書店
● 栂尾祥雲『曼荼羅の研究』(栂尾祥雲全集Ⅳ)臨川書店
● 栂尾祥雲『理趣経の研究』(栂尾祥雲全集Ⅴ)臨川書店
● 中沢新一、ラマ・ケツン・サンポ『改稿 虹の階梯―― チベット密教の瞑想修行』中公文庫
● 中村元編著『図説佛教語大辞典』東京書籍
● 中村元監修、木村清孝、末木文美士、竹村牧男編訳『エリアーデ仏教事典』法蔵館
● 那須政隆『金剛頂経講伝』成田山新勝寺
● 八田幸雄『真言事典』平河出版社
● 八田幸雄『秘密経典 理趣経』平河出版社
● 八田幸雄「密教経軌における真言文について」(「密教文化」160)
● 堀内寛仁『金剛頂経の研究―― 堀内寛仁論集〈上〉』法蔵館
● 堀内寛仁「金剛頂経の説相」(「高野山大学論叢」11)
● 堀内寛仁『梵蔵漢対照 初会金剛頂経の研究 梵本校訂篇 上』密教文化研究所
● 正木晃、立川武蔵『チベット密教の神秘―― 快楽の空・智慧の海』学習研究社
● 松長有慶『密教』岩波新書
● 松長有慶『密教―― インドから日本への伝承』中公文庫
● 松長有慶『理趣経』中公文庫
● 松長有慶編著『インド後期密教〔上〕 方便・父タントラ系の密教』春秋社
● 松長有慶編著『インド後期密教〔下〕 般若・母タントラ系の密教』春秋社
● 宮坂宥勝『仏教経典選 8 密教経典―― 大日経 理趣経 大日経疏 理趣釈』筑摩書房
● 宮坂宥勝、福田亮成『理趣経』(仏典講座16)大蔵出版
● ヤンチェン・ガロ撰述、ラマ・ロサン・ガンワン講義(平岡宏一訳)『【ゲルク派版】チベット死者の書』学習研究社
● 頼富本宏『『金剛頂経』入門―― 即身成仏への道』大法輪閣
● 頼富本宏『密教―― 悟りとほとけへの道』講談社現代新書
● 頼富本宏訳『大乗仏典 中国・日本篇 8 中国密教』中央公論社
● ラマ・アナガリカ・ゴヴィンダ(山田耕二訳)『チベット密教の真理―― その象徴体系の研究』工作舎
● 『弘法大師空海全集 第4巻 実践篇』筑摩書房
● 『弘法大師空海全集 第8巻 研究篇』筑摩書房
● 『国訳一切経 印度撰述部 密教部 第1巻』大東出版社
● 『国訳一切経 印度撰述部 密教部 第2巻』大東出版社
● 『真言宗教相全書 第7巻 金剛頂経〔下〕』四季社
● 『真言宗事相全書 平成版 秘密儀軌体系Ⅱ 傍訳 理趣経法〔下〕』四季社
● 『大正新脩大蔵経 第8巻 般若部4』大蔵出版
● 『大正新脩大蔵経 第18巻 密教部1』大蔵出版
● 『大正新脩大蔵経 第19巻 密教部2』大蔵出版
● 『大正新脩大蔵経 第20巻 密教部3』大蔵出版
● 『大正新脩大蔵経 第32巻 論集部全』大蔵出版
● 『大正新脩大蔵経 第39巻 経疏部7』大蔵出版
● 『密教大辞典』法蔵館
● Alice Getty, The Gods of Northern Buddhism: Their History, Iconography and Progressive Evolution through the Northern Buddhist Countries (Oxford).
● Benoytosh Bhattacharyya, The Indian Buddhist Iconography (Oxford).
● David Llewellyn Snellgrove, Indo-Tibetan Buddhism: Indian Buddhists and Their Tibetan Successors (Shambhala).
● Lama Anagarika Govinda, Foundations of Tibetan Mysticism (Samuel Weiser).
● Lama Anagarika Govinda, Creative Meditation and Multi-Dimensional Consciousness (Theosophical Publishing House).
● Lama Anagarika Govinda, Die schöpferische Meditation und multidimensionales Bewusstsein (Aurum Verlag).
● Lama Thubten Yeshe, Becoming Vajrasattva: The Tantric Path of Purification (Wisdom Publications).
● Lama Thubten Yeshe, Vajrasattva: Heilung und Transformation im Tibetischen Tantra (Diamant Verlag).
● Lokesh Chandra ed., Sarva-tathāgata-tattva-sagraha (Motilal Banarsidass).

ヴァッジュラサットワ:ヴァジュラサットヴァ、ヴァジラサットヴァ、バジュラサットバ、バジラサットバ。 ムッドラー:ムドラー。 アラカン:阿羅漢。 デーバナーガリー文字:デーヴァナーガリー文字。 アシュク:阿閦。 アミダ:阿弥陀。 ハンニャ:般若。 ネハン:涅槃。

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2004.12.20 kakikomi; 2014.11.13 kakinaosi

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