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専門用語と専門家の文章

日本語のばあい、専門用語とふだんのことばにはおおきなへだたりがある。これはよく指摘されることだけど、どの分野でも専門家がかくような文章はにたようなもんだろう。専門用語なんてものはとくにひどいのがおおそうだ。

専門用語がむずかしいっていっても、なかみそのものがむずかしいばあいはしょうがないともいえる。専門知識がなきゃわかんないものっていうのはことばだけの問題じゃない。でも、その専門用語が漢字をみなきゃ区別できないってことだとやっぱりことばとしては病気だとおもう。たとえば(専門用語とまではいえないかもしれないけど)「科学」と「化学」。こんなにた意味のことば、っていうか「科学」の一部門が「化学」だけど、それがおんなじ発音のことばだなんて! くるしまぎれに「ばけがく」とかいったりしてるけど、どうせなら正式にそうすればいい。そうじゃなくても、学問の名まえとしては物理学とか生物学とか漢字3文字のものもたくさんあるんだから、「化学」もなんかそういうのになんないもんかなあ。それとか哲学用語の「質料」。これなんか物理の「質量」とおんなじよみで漢字までまぎらわしい。じっさい漢字のまちがいがよくある(最近だと、古代哲学の本なら「質料」のかわりに「材料」とか「素材」とかいうようになってるからだいぶまともになってきた。物理の「質量」だってどうにかしたらいいんじゃないの?)。

それから、専門用語がふだんのことばとつながりがないっていうのも、のぞましいこととはいえないだろう。いまの日本の学問は基本的に翻訳学問で、もとになったことばは特別むずかしいものじゃなくて日常語としてもつかわれてるのに、日本語に訳すとむずかしいヘンなことばになることがおおい。たとえば、ドイツ語の Vorstellung [フォーアシュテルング]は「紹介、面接、発表、上演、想像」なんて意味だけど、哲学用語としては「表象」って訳す。日本語でこの「表象」っていう特別なことばでかくところを、ドイツ語の哲学書だと、いまいったみたいなふつうの意味があるふだんのことばでかけるわけだ(これについてもあたらしいこころみもあって、長谷川宏さんのヘーゲルの翻訳は「表象」とかの哲学用語をつかわないで訳してある)。

それでも専門用語ならまだしょうがない面があるともいえる。ところが、専門書とか学者なんかがかく文章には、専門用語以外にも必要以上にむずかしいことばがつかってある。漢字をみなきゃ区別できないことばもおおい。

いまの専門用語は明治になって翻訳語としてつくられたものがおおい。そのばあい、とにかく漢字をくみあわせてことばをつくって(漢文にあることばをつかったばあいもあるけど)、よみのほうはぜんぜん注意をはらわなかった。このへんはいまもかわらない。そのために、発音がおんなじことばがたくさんできて、文字でなんとか区別するようなことになった。

ヨーロッパの後進国だったドイツもさかんに翻訳語をつくってきたけど、漢字とか漢語にあたるものがなくて(っていうか漢語にあたるようなものから翻訳したともいえる)、日本語でいえばやまとことばにあたるもので翻訳語をつくったから、ふだんのことばとミゾができなかったし、文字をみなきゃ区別できないなんてことにもならなかった。もちろん、日本語に訳するときに、やまとことばじゃなきゃいけなってことはないけど、翻訳語をつくるとき、発音のほうだってちゃんとかんがえたらよさそうなもんだ。

もしかして、最近ふえてるみたいに、とりあえず外来語のまんまつかってたほうが、ながい目でみりゃよかったんじゃないの? むりにいそいで翻訳語なんかつくんないで、まずは外来語ですませといて、そのあとなかみを消化しながら、時間をかけて自まえの用語をつくってけばよかったのに。

すでにおこったことについて文句をいってもどうしょもないか。でも、いまできることだってあるだろう。専門用語はすぐにはどうにもならないにしても、文章自体は必要もないのにむずかしくかくことはないんだから。専門用語にしたってかえてくことはできるはずだ。時間はかかっても。

ところで、そもそもこういうことはなにも明治時代にはじまったことじゃなくて、むかし漢字が日本にはいってきたとき以来のことだ。大野晋『日本語の年輪』(新潮文庫)にはこんなことがかいてある。

漢字と漢文とが、法律・道徳・宗教・医学・天文学その他もろもろの知識学問の荷い手として日本に進入して来た〔…略…〕。それらは、未開な日本人に対して圧倒的な力を持った。
 その力が、一見無関係に見える日本語の運命に対しても決定的な影響を与えた。日本の文字・単語・造語力などに対して、むしろ宿命的というのが正しいほどの刻印を押した。〔…略…〕当時の日本人は、まだ高く深い思索を、自分の言語で営むほどに発達した段階にはいなかった。そこへ、高い精神文化を持ったシナ語・シナ文字が入ってきた。そのために、日本では抽象的な観念を、自分の生まれた時から覚えた言葉で、造語して表現する習慣が確立せずに、もっぱらシナ語でそれを表現する習慣が成立してしまった。また、学者は現象を自分で観察して、記述したり、分析したり、総合したりするよりも、シナ語を暗記・暗誦すること、シナ語についての知識をためこむことを任務と心得るようになり、本当に必要な発明と発見の態度が養われなくなるのに一役を買った。また今日のわれわれが、耳で聞いて区別できない単語(同音異義語)の多さに苦しむのも、みな、この漢字の輸入によってもたらされた問題である。シナ語の複雑な発音を、簡単な日本語で受け入れるので、同音の漢語が多くなったのである。

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2005.03.04 kakikomi; 2008.06.13 kakitasi

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