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ベーシック・イングリッシュ訳の聖書

ずいぶんまえにかった “The Bible in Basic English” をひさしぶりにみてみたら、ちょっとおもしろいとこがみつかった。『マタイによる福音書』の6章11節(「主の祈り」の一節)と『ヨハネによる福音書』の1章3節後半から4節前半のとこなんだけど、原文からして問題があるとこだからどうなってるかしらべてみると、よくある訳とちがってる。どっちもあたらしい解釈とおんなじ訳になってた。

まず『マタイ』のほう。ベーシック訳は、

Give us this day bread for our needs.

口語訳だと「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」で、新共同訳だと「わたしたちに必要な糧[かて]を今日与えてください」だけど、原文の ἐπιούσιος [epiǔːsios エピウースィオス]ってことばは用例がほとんどないもんだから意味がはっきりしない(新約聖書だけど発音はとりあえず古典式)。「毎日の」「きたるべき日の」「必要な」とかいわれてるなかで、あたらしい訳は「必要な」になってるみたいで、新共同訳のほかに、『新約聖書Ⅰ マルコによる福音書 マタイによる福音書』(岩波書店)も「私たちに必要なパンを、今日私たちにお与え下さい」っていうふうになってる。

英語訳をみてみると、有名な欽定訳(Authorized Version/King James Version)は「Give us this day our daily bread」で、ほかの訳もほとんどおんなじだ。改訂標準訳(Revised Standard Version)もおんなじ訳だけど、べつの訳として「Or our bread for the tomorrow」って注がついてる。ルターのドイツ語訳は「Unser täglich Brot gib uns heute」で「毎日の」だけど、あたらしいドイツ語訳(Gute Nachricht Bibel)だと「Gib uns, was wir heute zum Leben brauchen」で「必要な」になってる。

つぎは『ヨハネ』のほう。ベーシック訳は、

and without him nothing was. What came into existence in him was life,

新共同訳は「成ったもので、言[ことば]によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった」。口語訳も基本的におんなじで、「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言(ことば)に命があった」。ところが『新約聖書Ⅲ ヨハネ文書』(岩波書店)だと「彼をさしおいては、なに一つ生じなかった。彼において生じたことは、命であり」で、ベーシック訳とおんなじになってて、注には、新共同訳は「四世紀末以降の伝統的な読み方に従ったもの」ってかいてある。フランシスコ会訳(中央出版社)は「造られたもので、みことばによらずに造られたものは何一つなかった。みことばのうちにいのちがあった」で、新共同訳・口語訳とおんなじたけど、注として、「テキストの区切り方によってはつぎのふた通りに訳せる。『みことばによらず造られたものは、何一つなかった。造られたものはみことばのうちにいのちを持っていた』。あるいは、『みことばによらず造られたものは一つもない。みことばのうちに造られたものはいのちであった』」っていうのがのってる。

英語訳だと、欽定訳は「and without him was not any thing made that was made. In him was life」。改訂標準訳は基本的におんなじだけど、注に「Or was not anything made. That which has been made was life in him」ってかいてあって、これはベーシック訳とおんなじテキストのくぎりかただ。ドイツ語訳は、ルターが「ohne dasselbe ist nichts gemacht, was gemacht ist. In ihm war das Leben」、“Gute Nachricht Bibel” は「und ohne das Wort ist nichts entstanden. In ihm war das Leben」で、どっちも新共同訳・欽定訳とおんなじくぎりかたになってる。

この部分の原文は「καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἓν ὃ γέγονεν ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν」で、どこで文章をくぎるか(ピリオドをうつか)で訳がちがってくる。口語訳・新共同訳・欽定訳・ルター訳なんかは ὃ γέγονεν (なったもの、生じたこと、つくられたもの)のあとにピリオドをうつよみかたで、これは岩波の注にあったみたいに「四世紀末以降の伝統的な読み方」だ。これに対して、ベーシック訳・岩波版とかは ὃ γέγονενまえにピリオドをうつよみかたで、ὃ γέγονεν が4節前半の文章の主語になる。こっちのほうがもともとのよみかただったのに、4世紀後半からかわっちゃったのは、聖霊が「つくられたもの」のうちにふくまれる危険をさけるためだったとかで、教父のクリュソストモス以来のことらしい。

まあ、とにかく、すくなくともこの2か所でベーシック訳があたらしい解釈とおんなじになってるわけで、これはどうしてなんだろ。ベーシックの訳者は先見の明があったってことか? もちろんあたらしい解釈のほうがよくなってるとはかぎらないんだけど。

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2005.03.18 kakikomi; 2017.05.17 kakitasi

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