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まぜがき

まぜがきは、漢字制限と関連してよくヤリ玉にあげられる。そのばあい、《伝統》が口実になることもおおい。でも、これってやっぱりなんかヘン。

まぜがきっていうのは、たとえば「石けん」とか「ごう慢」みたいに漢語の一部をかながきすることで、おもに常用漢字表にないようなむずかしめの漢字をかながきすることがおおい。で、これが気にくわないってひとがいるわけだけど、まぜがきなんて明治よりまえのものならすこしもめずらしくない。明治になってからはあんまりみかけなくなったのかもしれないけど、そもそも明治から敗戦までなんて、日本語の歴史からすりゃみじかい期間じゃないか。それよりながいあいだ、まぜがきなんてざらにおこなわれてた。かなづかいだけじゃなくて漢字のつかいかたまでなおしてあるいまの本で古典をよむとわかんないけど、もともとの写本でもみてみれば、まぜがきなんてすぐにみつかる。それなのに、明治以来のかきかただけをもとにして、まぜがきが《伝統》に反するみたいなことをいうのは、おかしいんじゃないのかな。

で、実際に古典のまぜがきの実例をあげてみることにする。まずは近松門左衛門。岩波文庫の『曽根崎心中・冥途の飛脚 他五篇』は底本の文字づかいがわかるように翻刻してあるから、それを手がかりにまぜがきをさがしてみると、『曽根崎心中』にはこういうのがあった。

天ま (天満)
大ゆふじ (大融寺)
長ふくじ (長福寺)
大じ大ひ (大慈大悲)
一しやう (一生)
女ばう (女房)
五でう (五条)
大ざか (大坂)
大じん (大尽)

おなじく、『冥途の飛脚』には、

あん内 (案内)
三味せん (三味線)
浄るり (浄瑠璃)
すい量 (推量)
かん当 (勘当)
さん用 (算用)
大じ (大事)
くはん進 (勧進)
かい山 (開山)
ゐん居 (隠居)

ちがう時代のものもあげておこう。鎌倉時代の国語資料だって解説にかいてある『伝後伏見院宸翰 仮名書き阿弥陀経』の模刻版本の影印本をみると、こんなのがあった。

七ちう (七重)
悪しゆ (悪趣)
く徳 (功徳)
人みむ (人民)
無へん (無辺)
一しよ (一処)
舌さう (舌相)
しやう実 (誠実)
くわう長 (広長)
こう河しやしゆ (恒河沙数)
一さい (一切)
しよ仏 (諸仏)
世けん (世間)
なん事 (難事)
所せつ (所説)

古典作品じゃなくても、ふるくからあるものにはまぜがきがけっこうある。しにせの旅館とか料理屋なんかの名まえにもおおい(まぜがきの名まえ」)。

いまのまぜがきは漢字制限があって でてきたものだけど、そうじゃなくたってふるくから実例はたくさんあるんだから、まぜがきこそが日本語の伝統だっていってもいいぐらいだ。だから、まぜがきなんて、べつにおおさわぎするようなもんでもないだろう。そもそも日本語全体がまぜがきなんだし、かなと漢字をまぜてつかってるかぎり、どれに漢字をあてるかなんて漢語もふくめてきめられない。

だいたい、こういうことは なれっていう要素がおおきいとおもう。全部漢字でかいた「石鹸」をみなれてるひとが、まぜがきの「石けん」をみたらヘンな感じがするのは当然だろう。でも、まぜがきの「石けん」をみなれちゃえばべつにどうってことはない。っていっても、まぜがきがダメだっておもいつづけてるひとは、その意識がジャマして、みなれるってことはないのかもしれないけど。

それから、「ごう慢」みたいのだと、文節のきれ目がわかりにくくて、よみとりづらくなるってことをいうひともいるみたいだけど、これについてはカタカナをつかって「ゴウ慢」ってかけばいいって意見があって、このやりかたはなかなかいいとおもう。これについてはカナモジカイのページにもかいてある(「交ぜ書き」をどうすべきか)。

まぜがき:まぜ書き、交ぜ書き。

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 ・まぜがきの名まえ
 ・古文・漢文教育

2005.03.17 kakikomi; 2009.08.01 kakitasi

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