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「ら」ぬきことば

いわゆる「ら」ぬきことばについてはいろんな意見があるだろうけど、ひとつわすれられてることがあるとおもう。ふだんしゃべってることばについて「ら」ぬきことばを問題にするのはまったくの筋ちがいじゃないのかな。

「ら」ぬきが問題になるとすればそれは標準語(共通語)についてで、ふだんのはなしことばに関して問題にするのはおかしい。いったいどこでふだん標準語をしゃべってるっていうんだろ。東京の人間だって標準語でしゃべってるわけじゃない。かんたんにいえば、ふだんのはなしことばは方言だ。その方言について、標準語をものさしにして「ら」ぬきを問題にするのはおかしい。

それに、標準語っていうか かきことばっていうか、そういうのとくらべて、ふだんのはなしことばの うつりかわりが はげしいのは当然のことで、いろんな影響にもさらされて、あたらしいいいかたがどんどんでてくる。たとえば大阪弁について、むかしの純粋な大阪弁じゃなくなってきたなんて なげいてるひともいるけど、はなしことばっていうのはそんなもんじゃないのかな。方言だからこそそういうもんだろう。それを標準語とか かきことばみたいに標準的なものに固定しろっていうわけ?

だいたい、はなしことばとか方言は標準語がくずれてできたわけじゃない。方言にはそれ自体の歴史があって、標準語はあとからつくられたものだ。「ら」ぬきことばも標準語がくずれたんじゃなくて、はなしことばの歴史のなかで でてきたいいかただ。それなのに、標準語をタテにとってものをいうのはおかしいだろう。

その標準語にしたところで、永遠にかわらないわけじゃない。だから、そのうち「ら」ぬきが標準語のかたちになるときがくるかもしれない。ただ、いまんとこはそうじゃないから、ばあいによってつかいわける必要はあるとおもう。国語の試験なら かきことば(つまり標準語)でこたえをかかなきゃいけないだろう。そこで「ら」ぬきことばをつかったら、点をひかれてもいまの段階じゃしかたがないとおもう。でも、国語教育としてふだんのはなしことばの「ら」ぬきをとがめるのは的がはずれてる。それより、必要に応じてことばをつかいわけられるようにするのが国語教育ってもんだろう。

さらにいうと、「ら」ぬきことばには標準語よりすぐれてる点がある。たとえば「くる」が変化した「こられる」には標準語だと可能とか受身とか尊敬とかの意味がある。でも、「ら」ぬきの「これる」には受身と尊敬の意味はない。つまり、「これる」だと可能って意味だってことがわかって、受身とか尊敬の「こられる」とはっきり区別ができる。これが標準語だとどれもいっしょになっちゃって、前後関係で区別するしかない。

もっとも、「ら」ぬきを批判するのは、標準語をものさしにしてるんじゃなくて、すこしまえのはなしことばとくらべてのことなのかもしれない。このばあい、そういうはなしことばのかたちはちょうど標準語とおんなじだから、標準語との関係があいまいになるけど、でもとにかく、そういうことなら、それはそれで、たんにむかしはよかった みたいなはなしだし、どっちかっていえば年配のひとたちが、自分たちのいいかたとはちがうから気にくわないっていってるだけのことだろう。そういうのは、はなしことばの性質を無視してるし、「ら」ぬきことばのすぐれた点に気がついてないともいえる(あえて目をつぶってるだけ?)。

もちろん、そういうひとたちがムリに「ら」ぬきことばをつかう必要もないわけで、自分たちがなれてるいいかたをすればいいだけのことだし、逆に、「ら」ぬきことばをつかってるひとたちが、すこしまえのはなしことばにあわせなきゃいけないってこともない。

「ら」ぬきことば:ら抜き言葉。

2005.04.01 kakikomi; 2009.08.15 kakitasi

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