« イギリス英語の母音 | トップページ | 返信のRe: »

格変化の順序

インド・ヨーロッパ語族のことばには、名詞とか形容詞とかに格変化っていうものがあって、もともとは格が8つあった。この格っていうのは、日本語なら助詞つまり「てにをは」であらわすけど、この語族のことばは、名詞・形容詞の語尾を変化させてあらわす。たとえばギリシャ語の βίβλος [bíblos ビブロス](本)は、βίβλον [bíblon ビブロン](本を)、βίβλου [bíbluː ビブルー](本の)っていうふうに変化する。

サンスクリット語とかパーリ語には8つの格がのこってるけど、ラテン語は6つ、古典ギリシャ語(古代ギリシャ語)は5つになった(現代ギリシャ語はさらにへって4つ)。ドイツ語の格は4つだけど、英語の格変化はないようなもんだ。所有格ってものがあっても、形容詞も冠詞も変化しないし、ただ 's をつけるだけで、語尾変化って感じじゃない。はっきり格変化するのは代名詞だけだろう(I、my、me みたいに)。フランス語とかイタリア語とかは所有格すらない。

古典ギリシャ語の格は、主格〔名格〕、呼格(~よ)、対格(~を、英文法の直接目的格)、属格(~の、英文法の所有格)、与格(~に、英文法の間接目的格)の5つだけど、変化表の格の順序は本によってちがいがあって、主格・呼格・対格・属格・与格っていうのと、主格・属格・与格・対格・呼格っていうのの2種類ある。このふたつをくらべると、主格・呼格・対格・属格・与格って順序のほうがいいとおもう。

なんでかっていうと、主格・呼格・対格・属格・与格っていうふうにならべたほうが、にたようなかたちがつづいて、おぼえやすいとおもうからだ。中性名詞は主格と呼格と対格がおんなじだし、男性名詞も女性名詞も主格と呼格がおんなじなのがおおい。両数〔双数〕となると、主格と呼格と対格がおんなじで、属格と与格がおんなじだから、当然この順序がいい。それに、格変化でアクセントの種類と位置がかわることがあるけど、そのばあいも、主格と呼格と対格、属格と与格、それぞれのグループで共通点がある。

ギリシャ語の形容詞の変化の例をあげておこう。



 男性 女性 中性
単数 主格 καλός καλή καλόν

 呼格 καλέ καλή καλόν

 対格 καλόν καλήν καλόν

 属格 καλοῦ καλῆς καλοῦ

 与格 καλῷ καλῇ καλῷ

両数 主格 καλώ καλά καλώ

 呼格 καλώ καλά καλώ

 対格 καλώ καλά καλώ

 属格 καλοῖν καλαῖν καλοῖν

 与格 καλοῖν καλαῖν καλοῖν

複数 主格 καλοί καλαί καλά

 呼格 καλοί καλαί καλά

 対格 καλούς καλάς καλά

 属格 καλῶν καλῶν καλῶν

 与格 καλοῖς καλαῖς καλοῖς

格変化なんて、とにかくおぼえちゃえばいいわけで、変化表そのものがだいじなわけじゃないから、もう主格・属格・与格・対格・呼格の順でおぼえちゃったってひとは、あらためてべつの順序でおぼえなおす必要はないけど、これからおぼえるっていうひとには、よけいなお世話かもしれないけど、主格・呼格・対格・属格・与格っていう順番をすすめたいとおもう。

ラテン語にはさらにもうひとつ、奪格(~から、~で、~と)があるけど、これもおんなじ理由で、主格・呼格・対格・属格・与格・奪格の順がいいとおもう。ラテン語のばあい、ギリシャ語よりもおんなじかたちの格変化がおおくてまぎらわしいなんていわれることがあるけど、文章のなかにでてきた変化形がどの格なのかってことは、前後関係からみきわめるものだから、格変化のおぼえかたの順序とはまた別問題だ。べつにどの順序でおぼえたからって、どの格なのか わかりやすくなるってもんでもないだろう。だから、変化をおぼえる順序としてはおんなじかたちがまとまってたほうが能率的だとおもう。

格のならべかたの順番について、『現代(西)アルメニア語』(佐藤信夫[さとう のぶお]、国際語学社)にはこんなことがかいてある。

 格をどの順序に並べるかについては,インド・ヨーロッパ諸言語間において,またその時代や文法学者の理論によっても異なり,確定した方法は成立していない。しかし,どの言語においても共通しているのは,主格 Nominativus を一番最初にもってくることである。その理由は,格変化の中心に先ず主格を据え,主格以外の格は「斜格」 casus obliquus として一括的に纏めて論ずることが多いからである。ドイツ語の既修者は,近代ドイツ文法学者の所説を盲目的に踏襲した,1格―主格,2格―属格,3格―与格,4格―対格,という既成概念からむしろ他言語を修得する場合の障碍になっている観があるが,最近では主格の次に対格をもってくる配列方式が徐々に採りあげられてきている。こうした「格」の配列方式を最初に確定したのは,紀元前五世紀頃のインドの文法家パーニニ pāini であって,古典サンスクリットでは1格―主格,2格―対格,3格―具格,4格―為格,5格―奪格,6格―属格,7格―処格,という順序をくずす事は許されなかったが,印欧共通基語が8格ありその印欧語比較文法上の都合から主格の後に呼格を挿入する方式が定着し,アルメニア語文法では上記6格の順序でだいたい曲用変化する。

曲用っていうのは英語でいえば declension で、名詞とか形容詞とかの変化のことだけど、この本は曲用の表に主格・対格・属格・与格・奪格・具格っていう順序をつかってる。それから、サンスクリット語のはなしにでてくる「為格」っていうのは与格のことだ。

引用した文章には「近代ドイツ文法学者の所説を盲目的に踏襲した,1格―主格,2格―属格,3格―与格,4格―対格,という既成概念」ってとこがあるけど、ドイツ語の本でもこの順序じゃないのをみたことがある。ちょっとふるい『500語でできる ドイツ語会話』(藤田五郎[ふじた ごろう]、評論社)っていう本で、主格・対格・与格・属格っていう順番になってる(前置詞の説明で2格・3格・4格っていう用語もつかってるんだけど)。ドイツ語だってやっぱりこの順番つまり1格・4格・2格・3格の順のほうが、おんなじかたちがならぶことになって、いいんじゃないかとおもう。

ドイツ語圏で でてるギリシャ語の本は、とうぜんっていうか、よくあるドイツ語の格の順番にあわせた主格・属格・与格・対格・呼格っていう順序になってるのがおおい。それでも、Eduard Bornemann & Ernst Risch „Griechische Grammatik“ (Verlag Moritz Diesterweg、『ギリシャ語文法』)は主格・対格・属格・与格の順序をつかってて、主格と呼格がちがうばあいだけ最後に呼格をつけてる。この順序にした理由として、主格と対格(と呼格)、属格と与格はそれぞれ変化形とアクセントに共通点があることがおおいから、主格のすぐあとに対格をもってきて、「伝統的な順序」にはしたがわないって本文で説明してる。これは、要するに最初にいった順序とおんなじ かんがえかただ。

さらに、第2版のまえがきにも半分以上のスペースをつかってこれについての説明がある。それによると、「伝統的な順序」にもどしてほしいっていう要望があったけど、本文で説明した理由からそれにはしたがえない。この順序はフランス語圏のギリシャ語の本ならあたりまえのことだし、1888年に第1版がでた Gustav Wendt „Griechische Schulgrammatik“ (『ギリシャ語学校文法』)にもつかわれてる。それに、学校教育の場でもこの順序が有効なことが実証されてる。統語論でも格をこの順番で説明してるものがおおい。こういうことがかいてあるんだけど、そういえば Goodwin & Gulick “Greek Grammar” でも変化表は主格・属格・与格・対格・呼格の順なのに、統語論の説明のほうは主格・呼格・対格・属格・与格の順番になってたっけ。

それから、ギリシャ語の名詞をおぼえるとき、変化の種類がわかるように属格のかたちもいっしょにおぼえるんだけど、そのことからすると変化表でも属格が2番めにくるほうがいいっていう意見があるだろう。このことについても第2版のまえがきにかいてあって、それは変化表の格の順番とは別問題で、不規則動詞の基本形を動詞の変化表とはべつにおぼえるのとおんなじことだっていってる。

ところで、Bornemann & Risch の文法書で主格・属格・与格・対格・呼格っていう順序のことを「伝統的な順序」っていってるわけだけど、それは、もともと古代人がこの順序をつかってて、それがうけつがれてきたからだ。そんななかで、近代になって、『現代(西)アルメニア語』にもでてきたインドの文法の影響とかもあって、主格・呼格・対格・属格・与格っていう順序もつかわれるようになってきた。

ちなみに、『ギリシャ語辞典』(古川晴風[ふるかわ はるかぜ]、大学書林)の変化表は、最初にいった主格・呼格・対格・属格・与格の順序だし、おんなじ著者の『ギリシャ語四週間』(大学書林)もとうぜんそうだ。

関連記事
 ・屈折と「かたむき」
 ・「主格」という文法用語
 ・「属格」という文法用語

2005.04.23 kakikomi; 2013.07.25 kakitasi

|

« イギリス英語の母音 | トップページ | 返信のRe: »

コメント

たびたびお邪魔いたします。
たしかに、格の並べ方によって覚えやすさは全然ちがってきますよね。曲者は「同じ形」のもので、変化表の中で近くにまとまっていても、離れたところに点在していても、混乱しやすくて厄介です。昔は「むしろ全部違っていてくれていたほうがいいのに」なんて思ってました。

ところで、日本語で書かれたサンスクリット語の文法書などを見ると、「主格」とか「対格」といった、それぞれの格の名前はラテン語の文法書からの転用だとのことなのですが、これはラテン語の文法用語のなかにこれに相当する語句があるのでしょうか?それともラテン語の格を指示するために、日本のラテン文法家が作った造語なのでしょうか?

サンスクリットの場合、ゆみやさんはご存知でしょうが、原語での呼び方は第一格、第二格…とかなり素っ気ありません。普段はラテン語式の格名で呼んでいるので、いざ文章の中に「第○格が云々」などと出てくると一瞬思考が止まってしまうんですよね。とくに第4,5,7格あたりは(笑)

ながながとスミマセン

投稿: BuSuKu | 2005.04.29 12:16

そういえば、ドイツ語も、1格、2格…とやってますけど、その順序は主格・属格・与格・対格ですね。

で、サンスクリット語の格のなまえはすべて西洋からの翻訳です。そのなかで、もともとギリシャ語にある5つは古代ローマ人がギリシャ語から訳したものです。つまり、主格(nominativus[ノーミナーティーウス])、呼格(vocativus[ウォカーティーウス])、対格(accusativus[アックーサーティーウス])、属格(genetivus/genitivus[ゲネ〔ニ〕ティーウス])、与格〔為格〕(dativus[ダティーウス])の5つです。それから、ラテン語にはもうひとつ奪格〔従格〕(ablativus[アブラーティーウス])があって、これはギリシャ語からの訳ってことはないでしょう。

のこりのふたつですけど、具格(instrumentalis[イ(ー)ンストルーメンターリス])と処格〔於格・依格〕(locativus[ロカーティーウス])はスラブ語族にあります。スラブ語はサンスクリット語よりずっとはやく西洋にしられていたので、この用語もサンスクリット語が西洋にしられるまえからあったのだとおもいます。このふたつもラテン語ですけど、ラテン語文法の用語というのとはちょっとちがうでしょう。ただし、ラテン語の奪格は歴史的には具格と処格をふくんでいて、具格的奪格というような説明のしかたもあるので、具格・処格という用語がラテン語文法にでてくることもあります。

投稿: ゆみや | 2005.04.30 01:05

なるほど、スラブ語も絡んでくるのですか。それと、格の名前はやはりギリシャ語以来のものなんですね。

用法にちなんだ名前があると、学習上は第一、第二、などとあるよりはずっと格の意味が分かりやすくなりますから、これも地味ながら大きな発明(?)ですよね。

ところで、伝統的なサンスクリット文法だと、第六格が属格、第七格が処格で、呼格に至っては厳密には格ではないとされ除外されています。とくに他の言語に比べて属格の順番が遅いのが興味深いと思うのですが、これにはサンスクリット文法のカーラカ(行為の要素)という考え方が影響しているのかもしれません。

そういえば、素人考えですけどgenetivusのgeneがgeneralのgeneだとすると、genetivusは属格というよりも「一般格」といった訳の方が(単語の訳としては)正しいと思うのですが、ゆみやさんはどう思われますか?

実際、サンスクリットでは第六格はsaMbandha(関係)と呼ばれ、それこそ関係一般をあらわす格で、所属や所有に特に限定されてはいません。

このあたりのことは比較印欧語学あたりの領域なのでしょうね。格相互間での意味や用法の「守備範囲」の変遷というのも興味深い研究テーマですね。

投稿: BuSuKu | 2005.04.30 11:28

辻直四郎『サンスクリット文法』(岩波全書)には、「基本的には人または物相互の関連(adnominal G.)特に所属・所有の関係(svasvAmisaMbandha)を示し,他の格の表し得ない領域を含む」なんてかいてありますね。「属格」という用語がこの格の一部しかあらわしていないとしても、ここでも「特に所属・所有」といっているように、まあ、代表的なつかいかたではあるわけです。でも、ちがう用語をつかうのなら、この説明からすれば「関係格」あたりでしょう。

属格はもともと、あるものの部分とか、あるものの周囲・範囲にだけ関係があることをしめしたらしくて、ほかのつかいかたはそこからひろがっていったみたいです。そういう意味からも「属格」というのはわるくはないでしょう。ただ、「部分属格」とか「所有の属格」とかとならんで「関係の属格」というのもあるので、たしかに「関係一般」ではあります。でも「一般格」としたら、意味がひろすぎるのではないでしょうか。

「genitivus」については、「「属格」という文法用語」という記事にかきます。

投稿: ゆみや | 2005.05.01 02:31

この記事へのコメントは終了しました。

« イギリス英語の母音 | トップページ | 返信のRe: »