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ファンタジーは現実逃避か

ファンタジーっていうのは、神秘的・超自然的・幻想的・空想的な内容の作品のことだけど、英語の fantasy の語源はギリシャ語の φαντασία [pʰantasíaː パンタスィアー](あらわれ、みかけ、〔哲学用語:〕表象、表象能力)だ。これがラテン語にはいって phantasia [パンタスィア](空想、幻想)になって、さらにそれがフランス語になったものが英語にはいった。

で、ファンタジーっていうと、こどもむけだとか、リアルじゃないとか、現実逃避だとか、そんなこというひともおおいみたいだけど、それはちょっとちがうんじゃないかな。

本でいうと、もともと児童文学としてかかれてるものもおおいし、たんなるこどもだましみたいものだってあるだろう。でも、おとなむけの小説がどれほどのもん? そこらのドラマによくでてくるような ささいなことをグダグダかいているのがおおいんじゃないのかな。それにリアルじゃないっていうんなら、《ふつう》の小説だってただのつくりばなしで、リアルつまり現実のはなしとはちがう。そんなことをいうのは、素材のところでひっかかってるだけだろう。

現実逃避かどうかっていうと、《ふつう》の小説のほうがよっぽど現実逃避だとおもう。《ふつう》の「現実的」なはなしだったら、そんなものはほんとの現実のなかで経験すればいいじゃないか。それをつくりばなしのなかであじわうほうが、よっぽど現実からにげてる。

ファンタジーのばあい、もともとふだんの生活のなかじゃありえないことをよむわけだし、そのほうが本をよむ意味があるとおもう。本のなかでしか「経験」できないことなんだから。っていっても、一見《ふつう》のはなしでも、それだけじゃないものだってあることはあるだろう。

こういうことは、映画とかテレビだっておんなじことだ。

で、ファンタジーの傑作っていえば、なんていっても、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』だとおもう。エンデの代表作っていうとすぐ『モモ』ってことになるけど、1冊だけあげるとすれば『はてしない物語』のほうだろう(『モモ』だってもちろんいいんだけど)。ただし、『はてしない物語』は前半と後半で評価がわかれるかもしれない。ちょっと印象がちがうこともたしかだ。かんたんにいうと主人公がちがうんだけど。

『はてしない物語』も『モモ』も映画になってるけど、作者がいってたみたいに『ネバーエンディング・ストーリー』(はてしない物語)のほうは原作のかんじんなものがない。続編もあったり、テレビ・シリーズもになったりして、そのものとしてはおもしろいにしても、とりあえず原作とはべつものっておもったほうがいいだろう。原作がこの手の映画とかテレビ・ドラマをつくるのにいい素材なのはわかるし、原作そのものにそういうおもしろさがあるのも事実、っていうか、それもこの作品の魅力のひとつだ。でも、やっぱり映像にするとそういう要素ばっかりになっちゃうのかな。

映画とテレビのほうでなくなった要素はいくつかあるけど、そのひとつは、原作が「物語についての物語」、いいかえれば一種の文学論になってるっていうとこだ。この点からしても、この作品の枠ぐみ、つまり主人公の少年が本をよんでるっていうのを読者がまたよんでるってことをふくめて、やっぱり本でよんだほうがいい。ただし、文学論にとどまるもんじゃなくて、ファンタジー論だから、ほかの芸術・芸能のことでもある。

2005.07.01 kakikomi; 2010.09.12 kakinaosi

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