『イーリアス』と『イリアッド』
ホメーロスの『イーリアス』のことを英語で「Iliad[イリアッド]」っていうけど、日本語でもむかしはその英語をつかって『イリアッド』っていってたことがあった(ホメーロスのことも英語式に「ホーマー」っていってたし)。ほかにもむかしは英語のいいかたをつかってたことがおおかったし、いまでも「イソップ」(=アイソーポス)とか「ユークリッド」(=エウクレイデース)とか「シーザー」(=カエサル)とかがのこってる。
それにしても、「イリアッド」っていうのは「イーリアス(Ilias)」のたんなる英語よみじゃなくて語尾がちがってる。これは、英語が外来語をとりいれるときに、変化する語尾のとこをきりおとして語幹のかたちにすることがおおかったからだ(「ホーマー」も「イソップ」も「ユークリッド」も語尾がなくなってる)。ただし、近代にはいってからは、語尾をなくさないでもとのまんまとりいれることがおおくなってるから、語尾があるかないかで、その外来語がいつごろはいったのか、つまり中世か近現代かの手がかりになる。
で、「イーリアス」の語幹だけど、辞書によれば英語にはラテン語の語幹がはいったらしい。ラテン語でも『イーリアス』は「Ilias[イーリアス]」で、この語幹が「Iliad-」なんだけど、ギリシャ語の「Ἰλιάς[iːliʲás/イーリアス]」にしても語幹はおんなじ「Ἰλιαδ-[iːliʲad-]」だ。そういうことからいえば、ギリシャ語の語幹をとりいれたっていったっておんなじことにはなる。
それじゃあ、なんでギリシャ語もラテン語も「Ilias」っていうのと語幹のかたちがちがってるかっていうと、「Ilias」は辞書にのってるかたち、つまり主格単数のかたちだからだ。これは語幹に主格単数の語尾がついてできてるもので、ギリシャ語でもラテン語でも「-s」がつく。この「s」と語幹の最後の「d」が衝突して「d」がなくなっちゃうもんだから、「Iliad-」が「Ilias」になる。
ところで、『イーリアス』はロマンス語(フランス語とかイタリア語とかスペイン語とか)のほうでも英語とにたようなかたちになってるんだけど、これは英語とはちょっと事情がちがう。ロマンス語はラテン語が変化したものだから(現代ラテン語ともいえる)、ロマンス語にとっては外来語ってわけじゃない。たとえばフランス語なら「Iliade[イリヤドゥ]」、イタリア語なら「Iliade[イリーアデ]」で、これはラテン語の対格形がのこったものだ。
ロマンス語は名詞の格変化がなくなってるけど、ロマンス語の名詞としてのこったのはラテン語の主格形じゃなくて、簡単にいえば対格形(目的格、「~を」)だった。ラテン語の「イーリアス」の対格は「Iliadem[イーリアデム]」で、これがロマンス語の「Iliade」になった。ラテン語の単語のおわりの「m」はほんとは子音じゃなくて鼻母音をあらわしてたから、なくなりやすかったんだろう(鼻母音ってことでいえば「イーリアデン」ってかいたほうがいいのかも)。
『イーリアス』は、現代ギリシャ語でも純正語(文語みたいなもの)なら、古典語とおんなじで発音がちょっとちがうだけだけど(Ιλιάς[iˈlĭas/イリャス])、民衆語(口語みたいなもの)だと「Ιλιάδα[iˈlĭaða/イリャーザ]」になる。おもしろいことに、これも「イーリアス」の対格形がもとになってる。ギリシャ語は現代語でも格変化はあるけど、第3変化っていうグループの名詞はちょっと変化がむずかしいもんだから、対格形からべつのかたちをつくって、かんたんな第1変化になってるのがけっこうあって、女性名詞なら古代の対格形がそのまんま主格形になる。古典語の「イーリアス」の対格形は「Ἰλιάδα[iːliʲáda/イーリアダ]」で、女性名詞だから、これがそのまま民衆語の「イリャーザ」になったわけだ。
『イーリアス』とおんなじことが、ギリシャ語のギリシャって名まえにもあてはまる。古典ギリシャ語でギリシャのことは「Ἑλλάς[hellás/ヘッラス]」っていうけど、現代の純正語なら「Ελλάς[ɛˈlas/エラス]」、民衆語なら「Ελλάδα[ɛˈlaða/エラーザ]」で、語尾が『イーリアス』とおんなじことになってるのがわかるとおもう。
ちなみに、『イーリアス』じゃなくて『イリアス』っていうのもみかけることがあるとおもうけど、これは古典ギリシャ語とかラテン語のながい母音を無視してカタカナがきするっていうヘンな習慣が一部にあるためだ。でも、日本語には母音のながさの区別がちゃんとあるんだから、こんなことをする必要はないはずだ(→「ギリシャ語・ラテン語のながい母音のあつかい」)。『イリアス』は現代ギリシャ語の発音だっていえなくもないけど、こうかいてるひとは、ながい母音を無視するっていうやりかたにしたがってるだけで、現代語の発音のつもりはないとおもう。
ホメーロス:ホメロス。 アイソーポス:アイソポス。 エウクレイデース:エウクレイデス。
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2005.07.26 kakikomi; 2009.06.09 kakinaosi
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コメント
毎日、私は書き込みをしませんが、このブログへやってきています。勉強になりますよ。
いつも日本語にする時、どう書こうかと悩むのが固有名詞の表記です。これが翻訳よりも意外と難しいです。
投稿: lemonodasos | 2005.07.28 21:14
いつもよんでくださって、ありがとうございます。
lemonodasos さんのブログはいつもうつくしい写真満載で、すばらしいですね。それにくらべて、こちらは文字ばかりで……(^_^;
翻訳ものをよむと、いろんな地域のひとのなまえがでてくるもので、固有名詞がやはり気になります。とくに、英語じゃないなまえをいまさら平気で英語よみしているのがまだまだあります。それぞれの分野ではちゃんともとのことばのよみになっているのに、そんなこともしらべないで訳しているのかなあ、とおもってしまいます。それにしても、どのことばでもカナがき自体がいろいろあるわけですけど…。
投稿: rakuto | 2005.07.29 00:29