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いわゆる形容動詞について

国文法には《形容動詞》っていう品詞がある。たとえば「うつくしい」は形容詞だけど、にたような意味の「きれいだ」は《形容動詞》っていわれてる。活用すれば、「きれいな」「きれいに」「きれいで」「きれいなら」とかになる。形容詞のばあい「うつくし」が語幹で「い」が語尾だけど、《形容動詞》でも「きれい」が《語幹》で「だ」が《語尾》ってことになってる。

学校でならう国文法のもとになってるのは橋本文法っていわれるものだけど、これは名前のとおり橋本進吉(1882~1945)っていう学者の説だ。このひとが、吉沢義則(1876~1954)って学者の説をうけて《形容動詞》についてかいた論文がでてから、《形容動詞》っていう品詞がひろくつかわれるようになった。それまでは《形容動詞》なんてことはあんまりいわなかったらしい。

これに対して、《形容動詞》をみとめない学者の代表といえば時枝誠記(1900~1967)だろう(時枝文法)。いまの学者なら、大野晋っていうひともいる。こっち側の説によると、《形容動詞》っていわれてるものは、「名詞+助動詞(だ)」で説明がつくってことになる。

日本語教育の文法でも《形容動詞》についてはいろいろあるみたいで、「ナ形容詞」とか「第二形容詞」とかいって形容詞の一種にしてるのもあるし、名詞のグループにふくめて「な・に名詞」っていってるのもある。英語だと adjectival noun つまり「形容名詞」っていってたりする。

《形容動詞》っていってみたり、「第二形容詞」だったりするのは、「きれいだ」が全体として形容詞とおんなじはたらきをしてるからで、《形容動詞》って名前は活用が動詞型だからだ。

《形容動詞》をみとめるたちばからすると、「名詞+助動詞(だ)」とのちがいは、だいたいつぎの3つになる。(1)《形容動詞》には連用修飾語がつくけど、名詞には連体修飾語がつく。(2)《形容動詞》の《語幹》は主語とか目的語とかにならない。(3)名詞には「な」がつかない。

(1)の例をあげると、《形容動詞》なら「とても」っていう副詞(連用修飾語のひとつ)がついて、「とてもきれいだ」になるけど、「名詞+助動詞(だ)」なら「とてもイスだ」とかいったらおかしい。こういう例をみると、なるほどちがいがあるっておもわないでもないけど、実際には「名詞+助動詞(だ)」でも「とても」がつくばあいもある。「とても美人だ」っていうのがそうだ。《形容動詞》は動詞と形容詞といっしょに用言に分類されてるから、これを修飾するのが連用(用言につらなる)修飾語ってことになるんだけど、そもそもこの「連用修飾語」って用語そのものに問題がある。こういうふうに実際には名詞つまり用言以外のものにもつくんだから。それに「あしたから」みたいな「名詞+助詞」も連用修飾“語”っていってるけど、これは「語」じゃない。「句」だろう。こういうふうに国文法ってものは「語」つまり単語に関してテキトーだから、国文法の品詞ってものもあてになんない。で、この「あしたから」っていう「連用修飾語」も「名詞+助動詞(だ)」につく。「あしたからやすみだ」っていうふうに。つまり、「連用修飾語」がつくかどうかで品詞はきめられない。修飾の関係は単語の意味によるもので、品詞の問題とはちがう。

(2)については、「きれいだ」の《語幹》「きれい」はたしかに「きれいが」とか「きれいを」とはいわない。でも、こういうかたちでつかわれないからって、「きれい」がひとつの単語じゃなくて《語幹》だってことにはならないだろう。それに、《形容動詞》ってことになってるもののなかには、《語幹》がふつうの名詞でもあるっていうのもいっぱいある。「健康だ」なんていうのがそうだ。「健康が」「健康を」っていえば名詞だし、「健康な」っていえば《形容動詞》だけど、こういうののばあい、「健康だ」となるとややっこしい。「あのひとは健康だ」のばあいは《形容動詞》だけど、「大切なのは健康だ」となると名詞だ。おんなじ「健康だ」でもちがってくる。でも、こんな区別ってほんとに意味があるのかな。こんなのは文法のための文法って感じじゃないか。それに、こういうことも、品詞じゃなくて、単語の意味とかつかいかたの問題だろう。

(3)は、連体修飾のばあいに、「きれいな」「健康な」とちがって、《形容動詞》じゃない名詞には「な」がつづかないってことで、たしかに「イスな」とはいわない(「イスなのだ」「イスなので」とかをのぞけば)。ただし、最近は名詞に「な」をつけることもよくある。『問題な日本語』なんて本があるけど、この「問題な」がそうだ(わざっとこういうタイトルにしてるんだろう)。それでも、いちおう標準的ないいかたじゃないから、名詞に「な」はつかないってことはそのとおりだとして、だからって、「きれいな」「健康な」が全体でひとつの単語ってことにはならないんじゃないかな。それに、「健康な」はあっても「イスな」がないのは、「とても美人だ」はあるけど「とてもイスだ」がないのとおんなじで、意味の問題だろう。それから、「きれいなのだ」の「な」は《語尾》で、「イスなのだ」の「な」は助動詞っていうふうな区別がほんとにあるのかどうか…。

「きれいな」が全体として形容詞とおんなじはたらきをしてるからって、これをひとつの単語だってかんがえて《形容動詞》だとか「第二形容詞」だとかいうのは、英語でいえば、「前置詞+名詞」が副詞とか形容詞のはたらきをするからひとつの単語だっていってるようなもんだろう。

それから、ていねい語のばあいに、形容詞と《形容動詞》のちがいがはっきりでてくる。「うつくしいね」をていねい語でいえば「うつくしいですね」だけど、「きれいだね」をていねい語にすれば「きれいですね」になる。つまり、形容詞なら語尾「い」もふくめた形容詞全体のあとに「です」がつくけど、《形容動詞》だと《語幹》のあとに「です」がついて、《語尾》の「だ」が「です」にかわったことになる。この点からいっても、形容詞の語幹と語尾とはちがって、《形容動詞》の《語幹》と《語尾》なんてものはうたがわしい。

「きれいだ」「きれいに」「きれいな」「きれいで」「きれいなら」、ここまではまだ《形容動詞》の活用っていえるかもしれない。でも、「きれいです」「きれいか(どうか)」「きれいは(きれいだが)」「きれいらしい」「きれいね」「きれいよ」、こういうのまで《形容動詞》「きれいだ」の活用形だとはいえないだろう。「です」も「か」も「は」も「らしい」も「ね」も「よ」も《形容動詞》の《語尾》のわけはない。だから、とうぜん「きれい」でひとつの独立した単語のはずだ。

たいていの国語辞典は学校の国文法にならって《形容動詞》をみとめてる。でも、みだし語としては「きれい」っていうふうになってて、「きれいな」とか「きれいだ」にはしてない。これはやっぱり自然な感覚として「きれい」でひとつの単語だってことなんじゃないのかな。

だいたい、国文法が単語とか品詞をあつかうやりかたそのものがなんかヘンだとおもう(国文法のおかしなところ」)。そのせいで、一方じゃ動詞と形容詞の語尾(接尾辞をふくむ)を助詞とか助動詞にして、ひとつの単語を分解しちゃったり、もう一方じゃ、「名詞+助動詞(だ)」っていうふたつの単語をひとつにして《形容動詞》にしたりしてる。

そもそも、単語にわけるっていうのは、文法以前のことなんじゃないかな。ほかの単語が途中に自由にはいりこめれば、そこは単語としてきれてるとか、そういうてつづきがいくつかあるから、それでまずは単語にわけて、それから文法の議論をするんじゃないと、はなしがまとまんないとおもう。単語って意識なしに品詞を論じたってしょうがないだろう。

ってことで、《形容動詞》なんていう品詞はないっていっていいとおもう。もっともふたつの単語でひとつの品詞っていうんなら、それはそういうもんかもしれない。でも、そうまでして《形容動詞》って品詞をつくる必要はないとおもうけど…。

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2005.08.02 kakikomi

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