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「ギリシャ」という名まえ

「ギリシャ」っていう日本語のもとはポルトガル語の Grécia で、室町時代に日本語にはいったらしい。ふるくは「ゲレシャ」っていってた。「ギリシャ」にしても「ゲレシャ」にしても、むかしの外来語の特徴があらわれてる(むかしの外来語」)。いまなら「リシャ」「レシャ」になりそうだけど、そうなってない。

ついでにいうと、ヘボンの『改正増補和英語林集成』(1886)には「Girisha」ってローマ字でかいてあって、Girishia でも Girishiya でもない。当時も「ぎ・り・しゃ」って発音で、「ぎ・り・し・あ」なんていってなかったわけだ(「ギリシャ」のかなづかい」「「ギリシア」という表記について」)。

で、このポルトガル語の Grécia は、さかのぼればラテン語の Graecia [グラエキア]で、そこにすんでるひとのことは Graecus [グラエクス]っていった(すんでるひと全体をさすときは複数形だったりするけど、とりあえずここでは全部男性単数形、つまり辞書のみだし語のかたちにしとく)。このラテン語が、一方では英語の Greece, Greek になったし、もう一方では、ポルトガル語をふくめたロマンス語になって、イタリア語の Grecia, greco、フランス語の Grèce, Grec とかになった。ラテン語起源の英語の単語は、たいていはノルマン・フランス語からはいってるけど、この Greek とかは、英語以前の段階でゲルマン語にはいった単語らしい。

それにしても、土地の名まえの Greece、Grecia、Grèce はどれも大文字ではじまってるけど、Greek、greco、Grec のほうはバラバラだ。英語は形容詞でも ひとでも ことばでも全部大文字だけど、おんなじロマンス語でもイタリア語とフランス語にはちがいがある。形容詞のばあいと「ギリシャ語」って意味のときはどっちも小文字で greco、grec だけど、「ギリシャ人」の意味だとイタリア語は小文字で greco、フランス語は大文字で Grec になる。

ローマ人が、ギリシャ人のことを Graecus ってよんだのに対して、ギリシャ人は自分たちのことを Ἕλλην [héllɛːn ヘッレーン]っていってた。現代の文語なら Έλλην [ˈɛlin エーリン]、口語なら Έλληνας [ˈɛlinas エーリナス]になる。それから、ギリシャっていう土地の名まえのほうは古典語で Ἑλλάς [hellás ヘッラス]、現代の文語で Ελλάς [ɛˈlas エラス]、口語で Ελλάδα [ɛˈlaða エラーザ]になる(『イーリアス』と『イリアッド』」)。

じゃあ、ラテン語の Graecus はどっからきてるかっていうと、ギリシャ語の Γραικόςɡraikós グライコス]がもとになってる。これは Γραῖαɡrâija グライヤ]ってとこにすんでるひとのことだけど、グライアていう土地の名まえはギリシャの古典にでてくる場所としてはなんか所かあって、どこがギリシャっていう名まえの起源になったかははっきりしない。

グライアもヘッラスももともと一地域の名まえで、そこにすんでるひとがグライコス、ヘッレーンだった。それがそのうちギリシャ全土、ギリシャ人全体の名まえになった。

それなら、グライコスとヘッレーンはどういう関係なのかっていうと、ギリシャ人自身がふるくはグライコスっていってたことについて、古代ギリシャ人のあいだでいいつたえがのこってたみたいだ。アリストテレースの『気象論』(352b)には、「かつてグライコスとよばれていて、いまはヘッレーンとよばれているひとたち(οἱ καλούμενοι τότε μὲν Γραικοὶ νῦν δ᾿ Ἕλληνες)」っていうのがでてくる。

それから、神話によると、ゼウスは青銅時代の人間をほろぼそうとして洪水をおこした。そのとき、プロメーテウスのむすこデウカリオーンは父親からそのことをしらされて、ノアの箱ぶねのはなしみたいに箱ぶねをつくって、それにのってたすかった。このデウカリオーンの長男がヘッレーンで(ヘッレーンはゼウスとデウカリオーンの奥さんの子どもだっていうはなしもある)、アポッロドーロスの『ビブリオテーケー(ギリシャ神話)』(1.7.3)には、このヘッレーンが「グライコスとよばれていたひとたちを自分の名まえからヘッレーンと名づけた(αὐτὸς μὲν οὖν ἀφ᾿ αὑτοῦ τοὺς καλουμένους Γραικοὺς προσηγόρευσεν Ἕλληνας)」ってかいてある。

パロス島は大理石で有名だけど、ここで「パロスの年代記」(Parian Chronicle)っていわれてる大理石の碑文がみつかってる。この碑文によると(§6)、グライコスって名まえがヘッレーンにかわったのは紀元前1521年か1520年ってことになる。

アリストテレース:アリストテレス。 プロメーテウス:プロメテウス。 デウカリオーン:デウカリオン。  ヘッレーン:ヘレーン、ヘッレン、ヘレン。 アポッロドーロス:アポロドーロス、アポッロドロス、アポロドロス。

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2005.08.22 kakikomi; 2010.09.13 kakinaosi

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コメント

お久しぶりです。
今まで当然の様に使っていた「ギリシャ」ですが、
悩むところがある物ですね。

気になるところなのですが、
そもそもギリシャ人が自分たちを一つの「ギリシャ文明」として
自覚し得たのはいつ頃なのでしょうか?
それとも私たちが区分し得るのはいつなのでしょうか?
ミノア文明から?
それともドーリア人が侵攻してから?
はたまたもっと後か…
そこら辺によっても変わるんじゃないかなと。
ふと思ってみました。

投稿: Dice+K | 2005.08.22 05:53

いまのところ、ギリシャ人とされているのは、ミュケーナイ〔ミケーネ〕文明からですね。ミノア文明の線文字Aはギリシャ語ではないので、ギリシャ人ではありません。紀元前2千年ごろにギリシャ人の祖先がギリシャ本土にはいってきて、ミノア文明を吸収して、ミュケーナイ文明をつくりました。この文明がのこした線文字Bは、解読の結果、ギリシャ語であることがわかりました。のちにミュケーナイ文明はクレタにもひろまって、クノッソスでも線文字Bの文書が出土しています。

投稿: ゆみや | 2005.08.23 00:46

■現代ギリシア語との、距離は、いかほどなのでしょうか? 現代ギリシア語に、文語的表現と、口語的表現が歴然とわかれている点については、ファーガスンの、「ダイグロッシア」という社会言語学的モデルが有名でしたね。
■あと、古典ギリシア語というのは、当のギリシア国民にとっては、どういった連続性が意識されているんでしょうか? インドでは、サンスクリットを まだはなす人々がいると、きいたことがありますが、ギリシア正教の経典などは、古代ギリシア語でよみあげられたりするんでしょうか?
■ちなみに、ギリシアのひとびとの、現代の自称は、ローマ字化すると、どうなりますか?
■まえまえから、ずーっと、気になってました。

投稿: ハラナ・タカマサ | 2005.08.23 15:48

現代の民衆語(口語)は、ずいぶん古代とはちがいます。一見してわかるのは、単語のちがいでしょう。外来語がめだちます。ただし古代とおなじ単語がつかわれているばあいは、アクセント記号・気息記号以外はみためにはかわりありません。発音がちがうだけです。もっとも語尾がかわっているのもありますが。それから、格変化はまったくおなじというわけではありません。

文法で、古代語にあって現代語になくなったものは、両数、与格、不定詞、希求法が代表的なものでしょう。未来形、完了形、接続法のつくりかたもかわりました。

サンスクリット語のばあい、母語だというひともいるぐらいで、バラモンの家庭では父親とむすこがサンスクリット語ではなしたりしていますし、伝統的な学問をおしえるサンスクリット大学では、サンスクリット語で授業をしていますし、ラテン語よりもはるかにつかわれているでしょう。まちがっても死語とはいえません。

ギリシャ人が古典をよむときは、日本人とおなじで、現代の発音でよみます。教会では聖書は原文のギリシャ語で朗唱しています。

「ギリシャ人」をローマ字でかけば「Ellinas」(男性単数)、「Ellinida」(女性単数)でしょう。エルはふたつ分発音するわけではありませんが、つづりにふたつあるので、ローマ字でもふたつにするのがふつうじゃないでしょうか。

投稿: ゆみや | 2005.08.23 23:52

こんにちは!私のブログにコメントありがとうございました。

「ギリシャ」って室町時代から日本にあったんですね!!ちょっと話がそれるのですが、日本人で最初にギリシャへ行った人ってだれなんでしょうか?

それと、明治時代のの中井櫻洲がパルテノン神殿について詠んだ漢文をみたことがありますが、彼の作品が載ってる本などありますか?このことについてご存知だったら、ぜひ教えてください。

ゆみやさんのブログ、リンクさせていただきました。これからもよろしくお願いします!

投稿: Xiromaki | 2005.08.24 00:21

リンクしていただいて、ありがとうございました。

ギリシャに最初にいった日本人ですか…。ちょっとわかんないですねえ(^_^;

で、中井櫻洲の著作集とかはわからないですけど、『明治文化全集 第17巻』(日本評論社)に、本名の中井弘のなまえで『西洋紀行航海新説』と『漫游記程』がはいっているみたいです。ただし、その漢文かどうかはわかりません。

ギリシャ関係の作品では『土耳古希臘埃及印度漫遊紀程』(トルコ・ギリシャ・エジプト・インド…)というのがあります。『漫游記程』とはべつに出版されているのですが、ほかに『魯西亜土耳其漫遊記程』(ロシア・トルコ…)というのもあって、もしかしたら、ふたつをまとめて『漫游記程』にしたとか?

国立国会図書館の電子図書館の近代デジタルライブラリーには『西洋紀行航海新説』があります。デジタルライブラリーではないですが、『土耳古希臘埃及印度漫遊紀程』も蔵書のなかにはあります。国会図書館の本は、ちかくの公立図書館をとおして閲覧することもできますし、複写サービスもあります。

投稿: ゆみや | 2005.08.24 07:49

こんにちは!

詳しい情報ありがとうございます!国立国会図書館ですか、大学の時行ったきりだなぁ。ここでちょっと調べてみようと思います。

しかし、外国名を漢字にすると難しいですねぇ…土耳古、希臘、埃及、印度、魯西亜…。
知っていないと読めないですね。

それにしても一番最初にギリシャへ行った日本人ってだれなんでしょうね~大理石のパルテノン神殿を目にしたとき、びっくりしただろうな。

投稿: Xiromaki | 2005.08.24 11:02

こんにちは。昨日はコメントありがとうございました。早速、ゆみやさんのところにもお邪魔しています。
ギリシャ語に関してかなり奥のふかいブログ、
面白く勉強になりますね。
「ヘラス」は去年のアテネオリンピックでギリシャ戦を応援に行った時に、皆が「ヘーラス!!ヘーラス!」と叫んでものすごい熱気だったことが思い出されます。

また遊びにきますね。それからリンクさせてもらいますのでよろしくお願いします!

投稿: さらさ | 2005.08.24 11:58

ゆみやさん、くわしい補足ありがとうございました。
小生も、おくればせながら Wikipediaにいって、少々しらべました。やっぱり、「ヘレナ」さまの なまえの 後継なんですねぇ。
これだけ、西洋史の「起源」的あつかいをうけながら、現在の「国力」というか、印象のうすさとが、落差がありすぎるでしょうに、その国民意識のありようには、興味をそそられます。

投稿: ハラナ・タカマサ | 2005.08.24 21:51

さらさ さん、リンク、ありがとうございます。

アテネ・オリンピック、いかれたんですね。ギリシャ人の応援のこえはテレビでも耳にしました。

これからもよろしくおねがいします。

投稿: ゆみや | 2005.08.25 00:50

ハラナさん、ちょっと補足させていただきます。
自分でもむかしカンちがいしていたことがあったのですが、「ヘッレーン(Hellên)」(「ギリシャ人」単数形・古典語)というよび名は、「ヘレネー(Helenê)」(トロイのヘレン)からついたものではありません(ヘレネーのエルはひとつです)。「ヘッレーン」というよび名のもとになった「ヘッレーン(Hellên)」はおとこです(^_^;

投稿: ゆみや | 2005.08.25 01:23

’l ’と ’ll’ とでは、おおちがいですね。
おはずかしいかぎりで。削除していただきたいぐらいです(笑)。
ともかく、日本の外来語、とりわけ固有名詞は、いろんなところから、いろんな経緯ではいりこんでいるので、わけがわからんものが、おおすぎますね。
まあ、あらかわ・そおべえ さんみたいな、ものしりは、もうでないでしょうから、ネット上で、どなたかが、分業化したうえで体系化してくださるしかなさそうですが。

投稿: ハラナ・タカマサ | 2005.08.25 10:06

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