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わかちがきに関する誤解

『日本語は悪魔の言語か?』(小池清治著、角川書店)っていう本に、わかちがきについてよくある誤解がかいてあった。その本そのものは、まあ、どうでもいいんだけど、その誤解についてはほかでもみかけるから、ちょっとかいておきたい。

まずは、わかちがきしたとこを、くぎってよむ、息つぎしてよむっていう誤解だ。日本語はわかちがきしてないから、わかちがきしたものをみると、なんかそこでマをいれたくなっちゃうんだろう。「切れ目の数だけ、自然な日本語の発音からは離れる」とか、「日本語を発音する場合、文節ごとに息継ぎをしていては、発話に時間が掛かり過ぎます」とか、「自然な日本語を反映した表記法とは言えません」なんてかいてある。

英語でも なに語でもいいけど、わかちがきしてることばで、きれてるとこをいちいち息つぎしてよんでるなんてことがあるわけない。ところがこの著者は、英語でわかちがきしてるのは、「実際の発音を表記で再現するに過ぎないからです。英語は単語単位で発音されているという事実が英語の分かち書きを支えています。日本語にはこの支えがありません」だって。英語が単語単位で発音されてるとしたら、英語のききとりはずいぶん楽だろうなあ。

かりに英語がこのひとのいうようなもんだとしても、わかちがきしてるほかのことばはどうなんだっていいたい。たとえばフランス語。入門書をみると、たいてい発音記号で文章全体の発音がかいてあるけど、発音記号のほうは単語ごとにわけてなくて、ある程度まとまったフレーズをひとつづきに発音するように、きれ目なくかいてある。実際フランス語の発音はそんな感じて、ひとつのまとまりに対してひとつアクセントがあって、そのまとまりは一気に発音する。それにリエゾン(連声[れんじょう])っていう発音がつながるようなこともあって、単語ごとにきりはなして発音できない部分もある。それでも、フランス語は単語単位でわかちがきしてる。

わかちがきした文章をきれ目でくぎってよむなんてことは、字をならったばっかりのこどもぐらいしかしないんじゃないのかな。なに語だろうと、わかちがきは、くぎってよむとこできってるわけじゃない。このひとは、日本語についても英語についてもおかしなことをいってるとおもう。

それから、わかちがきするためには、単語なり文節なりについてわかってなきゃいけないっていう、一見もっともなこともいってる。単語でくぎるわかちがきを「実行するためには、『語』とはなにかについての確実な知識が必要となるからです。言い換えますと、『語』の定義がなされ、この定義に基づき、確実な判定がなされないと、分かち書きは実行できません」。「小学一年生に向かって、『語』とはなにかを定義し、その定義に従い、『語』の識別作業をさせるということを思い浮かべてみてください。絶望するほかないでしょう」。

形容動詞についてかいたときに(いわゆる形容動詞について」)、単語にくぎるのは文法以前のことだっていったけど、ここでもそれをいいたい。ただし、正書法をつくるようなたちばのひとなんかだと、「語」とはなにかってことも問題にはなるかもしれない。でも、そういう学者とかの文法論議と、小学生におしえるのとはべつのはなしだ。英語とかフランス語みたいにわかちがきしてることばのばあい、「語」とはなにか、なんてことを小学生におしえてるとでもこの著者はおもってるのかな。そんなことおしえないで、とにかく実例によって、ひとつひとつかきかたをおしえてくんだろう。中学ぐらいで文法をおしえるようなときには、もうとっくにわかちがきした文章をふつうにかけるようになってるはずだ。わかちがきを小学生におしえることなんかできないってこのひとはおもいこんでるみたいだけど、実際にはそんなことはない。英語のばあい、単語ごとに発音してるから、こどもにもわかちがきをおしえられるっていいたいのかもしれないけど、うえにかいたみたいに、実際の発音はそんなもんじゃない。それでも、こどもはわかちがきした文章がかけるようになる。

それに正書法っていうのは、つづりにしても、わかちがきにしても、かくひとがその場その場で判断してかいてくもんじゃなくて、もうかきかたがきまってるものを、ただおぼえてるとおりかくもんなんだから、「定義に従い、『語』の識別作業をさせる」なんて必要はない。

こうやって、日本語はわかちがきできないなんていう、どっかの有名作家もいってたみたいな、おかしな結論にもってって、「仮名文字中心主義のアキレス腱は分かち書きにありました。そうして、仮名中心の表記法では分かち書きは必然ですから、日本語で仮名文字中心の表記法を採用することは机上の空論であったことになります」なんてはなしにしちゃうんだけど、わかちがきについて、これだけ誤解してるんだから、この結論だっておかしい。現に、点字ってものは、かなだけでかいてるようなやりかたで、ちゃんとわかちがきしてる。やりかたとしては文節でわけるのが基本なんだけど(点字のわかちがき」)、こういう なん十年にもわたる点字の実践をどうおもうんだろ。それに、ローマ字文だってわかちがきしてるじゃないか(こっちは単語でわけてる)。日本語はわかちがきができない、なんていってるのは、そのひとが日本語のわかちがきのやりかたをしらないだけのはなしだ。

わかちがき:分かち書き、分ち書き。

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 ・単語式わかちがきの実例集
 ・古文のわかちがきの実例(1) 『古事記』
 ・古文のわかちがきの実例(2) 『百人一首』
 ・古文のわかちがきの実例(3) 『平家物語』
 ・平安時代のわかちがき
 ・点字のわかちがき
 ・いわゆる形容動詞について

[つぎに、わかちがきした うえの文章をのせておくことにする。わかちがきは東大式(単語式)。ただし、1文字の助詞がつづいても、わけたままでつなげない。東大式については、「Rômazi Bunko」っていうサイトにある「わたしたちの分ち書きが決まるまで(後藤篤行)」を参照。]

わかちがき に かんする ごかい

『にほんご は あくま の げんご か?』 (こいけ せいじ ちょ、 かどかわ しょてん) って いう ほん に、 わかちがき に ついて よく ある ごかい が かいて あった。 その ほん その もの は、 まあ、 どう で も いい ん だ けど、 その ごかい に ついて は ほか で も みかける から、 ちょっと かいて おきたい。

まず は、 わかちがき した とこ を、 くぎって よむ、 いきつぎ して よむ って いう ごかい だ。 にほんご は わかちがき して ない から、 わかちがき した もの を みる と、 なん か そこ で ま を いれたく なっちゃう ん だろう。 「きれめ の かず だけ、 しぜん な にほんご の はつおん から はなれる」 と か、 「にほんご を はつおん する ばあい、 ぶんせつ ごと に いきつぎ を して いて は、 はつわ に じかん が かかりすぎます」 と か、 「しぜん な にほんご を はんえい した ひょうきほう と は いえません」 なんて かいて ある。

えいご で も なにご で も いい けど、 わかちがき してる ことば で、 きれてる とこ を いちいち いきつぎ して よんでる なんて こと が ある わけ ない。 ところ が この ちょしゃ は、 えいご で わかちがき してる の は、 「じっさい の はつおん を ひょうき で さいげん する に すぎない から です。 えいご は たんご たんい で はつおん されて いる と いう じじつ が えいご の わかちがき を ささえて います。 にほんご に は この ささえ が ありません」 だ って。 えいご が たんご たんい で はつおん されてる と したら、 えいご の ききとり は ずいぶん らく だろう なあ。

かり に えいご が この ひと の いう よう な もん だ と して も、 わかちがき してる ほか の ことば は どう な ん だ って いいたい。 たとえば ふらんすご。 にゅうもんしょ を みる と、 たいてい はつおん きごう で ぶんしょう ぜんたい の はつおん が かいて ある けど、 はつおん きごう の ほう は たんご ごと に わけて なくて、 ある ていど まとまった ふれーず を ひとつづき に はつおん する よう に、 きれめ なく かいて ある。 じっさい ふらんすご の はつおん は そんな かんじ で、 ひとつ の まとまり に たいして ひとつ あくせんと が あって、 その まとまり は いっき に はつおん する。 それ に りえぞん (れんじょう) って いう はつおん が つながる よう な こと も あって、 たんご ごと に きりはなして はつおん できない ぶぶん も ある。 それ で も、 ふらんすご は たんご たんい で わかちがき してる。

わかちがき した ぶんしょう を きれめ で くぎって よむ なんて こと は、 じ を ならった ばっかり の こども ぐらい しか しない ん じゃ ない の か な。 なにご だろう と、 わかちがき は くぎって よむ とこ で きってる わけ じゃ ない。 この ひと は、 にほんご に ついて も えいご に ついて も おかしな こと を いってる と おもう。

それ から、 わかちがき する ため に は、 たんご なり ぶんせつ なり に ついて わかってなきゃ いけない って いう、 いっけん もっとも な こと も いってる。 たんご で くぎる わかちがき を 「じっこう する ため に は、 『ご』 と は なに か に ついて の かくじつ な ちしき が ひつよう と なる から です。 いいかえます と、 『ご』 の ていぎ が なされ、 この ていぎ に もとづき、 かくじつ な はんてい が なされない と、 わかちがき は じっこう できません」。 「しょうがっこう いちねんせい に むかって、 『ご』 と は なに か を ていぎ し、 その ていぎ に したがい、 『ご』 の しきべつ さぎょう を させる と いう こと を おもいうかべて みて ください。 ぜつぼう する しか ない でしょう」。

けいよう どうし に ついて かいた とき に (いわゆる けいよう どうし に ついて」)、 たんご に くぎる の は ぶんぽう いぜん の こと だ って いった けど、 ここ で も それ を いいたい。 ただし せいしょほう を つくる よう な たちば の ひと なん か だ と、 「ご」 と は なに か って こと も もんだい に は なる か も しれない。 で も そう いう がくしゃ と か の ぶんぽう ろんぎ と、 しょうがくせい に おしえる の と は べつ の はなし だ。 えいご と か ふらんすご みたい に わかちがき してる ことば の ばあい、 「ご」 と は なに か、 なんて こと を しょうがくせい に おしえてる と で も この ちょしゃ は おもってる の か な。 そんな こと おしえない で、 とにかく じつれい に よって、 ひとつ ひとつ かきかた を おしえてく ん だろう。 ちゅうがく ぐらい で ぶんぽう を おしえる よう な とき に は、 もう とっく に わかちがき した ぶんしょう を ふつう に かける よう に なってる はず だ。 わかちがき を しょうがくせい に おしえる こと なん か できない って この ひと は おもいこんでる みたい だ けど、 じっさい に は そんな こと は ない。 えいご の ばあい、 たんご ごと に はつおん してる から、 こども に も わかちがき を おしえられる って いいたい の か も しれない けど、 うえ に かいた みたい に、 じっさい の はつおん は そんな もん じゃ ない。 それ で も こども は わかちがき した ぶんしょう が かける よう に なる。

それ に せいしょほう って いう の は、 つづり に して も、 わかちがき に して も、 かく ひと が その ば その ば で はんだん して かいてく もん じゃ なくて、 もう かきかた が きまってる もの を、 ただ おぼえてる とおり かく もん な ん だ から、 「ていぎ に したがい、 『ご』 の しきべつ さぎょう を させる」 なんて ひつよう は ない。

こう やって、 にほんご は わかちがき できない なんて いう、 どっか の ゆうめい さっか も いってる みたい な、 おかしな けつろん に もってって、 「かなもじ ちゅうしん しゅぎ の あきれすけん は わかちがき に ありました。 そう して、 かな ちゅうしん の ひょうきほう で は わかちがき は ひつぜん です から、 にほんご で かなもじ ちゅうしん の ひょうきほう を さいよう する こと は きじょう の くうろん で あった こと に なります」 なんて はなし に しちゃう ん だ けど、 わかちがき に ついて これ だけ ごかい してる ん だ から、 この けつろん だって おかしい。 げんに てんじ って もの は、 かな だけ で かいてる よう な やりかた で、 ちゃんと わかちがき してる。 やりかた と して は ぶんせつ で わける の が きほん な ん だ けど (てんじ の わかちがき」)、 こう いう なん じゅう ねん に も わたる てんじ の じっせん を どう おもう ん だろ。 それ に、 ろーまじ・ぶん だ って わかちがき してる じゃ ない か (こっち は たんご で わけてる)。 にほんご は わかちがき が できない、 なんて いってる の は、 その ひと が にほんご の わかちがき の やりかた を しらない だけ の はなし だ。

2005.08.17 kakikomi; 2012.08.21 kakinaosi

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