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古典式発音と日本語的発音

古典ギリシャ語とラテン語っていうと、日本ではふつう古典式発音でよんでる。ヨーロッパ各国とちがって、もともと伝統的なギリシャ語・ラテン語の発音なんてなかったんだから、それも当然だろう。でも、日本語のはなし手のばあい、どうせ日本語的な発音になっちゃうだろうから、古典式っていったってどうなんだ、とかおもうひともいるかもしれない。

日本語的な発音になるのは、どの外国語のばあいでもおんなじことだから、とくべつ古典式発音だけの問題ってわけじゃない。でも、ギリシャ語・ラテン語の古典式発音については、日本語のはなし手のほうがかえって有利なことがある。それは、日本語に母音のながさの区別と かさね子音(ながい子音)があること、それに日本語のアクセントがたかさアクセントだってことだ。

まえにも一部引用したことがあるけど、『独習者のための楽しく学ぶラテン語』(小林標[こばやし こずえ]著、大学書林)って本にはこんなことがかいてある。

 本書では紀元前一世紀の、つまりキケローの時代のラテン語の発音を想定している。この発音は比較言語学の手法によって復元された物であり、現在世界中の文献学者によって認められ、実践されている。しかしながらヨーロッパ各国においては、比較言語学の発達以前にその国特有のラテン語の発音が定まっており、それがいまだに根強く学校教育に残っている。ラテン語と関係の深いロマンス語国では特にその傾向が強い。例えば Cicerō をフランス人もイタリア人もスペイン人も殆どキケローとは発音しないであろう。しかしこの場合、日本人の発音の方が正しいのである。
 また、長くラテン語を共通語として会話のためにも使ってきたカトリック教会にも伝統的な発音法があるが、これはラテン語の綴りをイタリア語と同じように発音するもので、古典ラテン語そのままではない。
 余談ながら、母音の長短を区別する言語を持つ日本人は,同じ特徴を持つラテン語を欧米人よりは正確に読めるのである。これは、詩を朗誦する際には特に強力な武器となる。

もうひとつべつの本からも引用しよう。『はじめてのラテン語』(大西英文[おおにし ひでふみ]著、講談社現代新書)にはこうかいてある。

 外国語の発音というと、苦手だという日本人が大半だと思いますが、文字がそうであったように、ラテン語の発音も日本人にはごく馴染みやすいものです。もしあなたが何かの折に欧米人の前でラテン語を話したりする機会があれば、むしろあなたのラテン語の発音のほうが正しい(古典ラテン語に近い)と信じて、堂々胸を張って話してください。これには理由があります。
 ヨーロッパのラテン語教育の歴史は古く、ある意味ではローマ時代から連綿と続いているとも言えますが、直接的には、古典古代(ギリシア・ローマ)の学芸の復興を目指したルネッサンスの教育理念に端を発しています。この長い歴史の過程で、しかし、いつしか古典ラテン語の発音の中に自国語式の発音が紛れ込むようになっていったのです。イタリア語の発音に近い「教会式」と呼ばれるものがその代表格です。イギリスでは、やはりエリザベス朝期にこの傾向は顕著になります。
 自国語式発音によるラテン語教育という悪しき慣行は、20世紀の初頭になってもまだ続いていました。19世紀の終わりごろから是正の必要性が叫ばれ、徐々に改善されていくのですが、長年慣れ親しんだものは捨て去りがたいのが人情、これに対するアレルギーや抵抗も強く、たとえばフランスでは1928年に古典式発音(歴史的発音とも言う)に反対する会が設立されたほどです。名付けて Amis de la prononciation française du latin (「ラテン語のフランス語式発音愛好者の会」)。ん?? その気持ち、なんとなくわかるような気もします。

ラテン語の「教会式」発音はローマ式ともいって、これについては「ラテン語の発音(古典式とローマ式)」で説明してある。

で、ラテン語の発音についていえることは、だいたい古典ギリシャ語にもあてはまるだろう(文字はちがうけど)。ただし、ギリシャ語のばあい基本になるのは、ラテン語よりふるい紀元前5、4世紀の古典時代の発音になる。

中世の西ヨーロッパでギリシャ語をしってるひとはほとんどいなかったけど、14、5世紀にはまたギリシャ語の知識が復活してきた。とくに1453年にビザンチン帝国がほろびてビザンチンの学者が西ににげてきて、そのひとたちがギリシャ語をおしえるようになったのがおおきい。ビザンチンの学者がおしえるギリシャ語の発音は当然その当時の発音で、現代ギリシャ語とあんまりちがいはなかった。ところがその発音は、古代人が発音についてかきのこしてるのともちがってるし、ローマ人がラテン語にうつした発音ともずれてるし、つづりからかんがえても疑問がある、なんてことがあって、ビザンチン式の発音は古代の発音としてはおかしいんじゃないかってだんだんおもわれるようになってった。15世紀すえには、最初にこのことを論じた本もでてる。

このころの古典式発音の研究でとくに有名なのが、エラスムス(Desiderius Erasmus)の『ラテン語とギリシャ語のただしい発音についての対話』(Dialogus de recta latini graecique sermonis pronuntiatione, 1528)で、古典式発音をエラスムス式なんていうこともある。ただしエラスムスは理屈としては古典式をかんがえたけど実践はしなかった。そのあと、古典式発音を実践した学者が大学を追放されるとかいろいろあったすえに、16世紀のおわりにはヨーロッパで古典ギリシャ語を古典式発音でよむっていうのがひろまった。ところがイギリスじゃ英語の母音がこのあとおおきく変化したせいで、古典式発音も英語の発音といっしょにかわっちゃったもんだから、19世紀すえにはあらためて古典式発音になおさなきゃいけなくなった。でも、それまでの伝統の影響はまだまだのこってるみたいだ。それにヨーロッパ各国で古典式発音にも微妙にちがいがある。

で、はなしをもどすと、母音のながさと かさね子音は文章のリズムに直接関係してる。ながい母音か、かさね子音をふくめた複数の子音があれば、そこはながい音節になる。この音節のながさってものが、詩でも散文でも文章のリズムをつくってる。英語とかの詩は、つよさアクセントのある音節とない音節を規則的にならべて、脚韻をふんでるのがおおいけど、古代ギリシャ・ローマの詩の形式は、サンスクリット語の詩とおんなじように、ながい音節とみじかい音節のくみあわせで、脚韻はないし、アクセントの位置とも関係ない。近代ヨーロッパの詩でも、古代の詩の形式をつかうことがあるけど、そのばあいはながい音節をアクセントがある音節に、みじかい音節をアクセントがない音節におきかえてる。

ギリシャ語もラテン語も中世までには母音のながさの区別がなくなってたから、中世よりあとの発音で古代の詩をよんだら、リズムがぶちこわしになって詩の形式がきえうせる。意味がわかんないことはないけど、詩のいちばんだいじな要素、つまり音楽的な面がうしなわれる。散文でも詩みたいなリズムをつかってるのがあるから、そういうのもせっかくの文体が台なしだ。でも、日本語的な発音なら、母音のながさの区別もちゃんとできるし、かさね子音も発音できるから、こういう問題はなくなる。

もうひとつの有利な点、アクセントについていうと、古代のギリシャ語のアクセントは日本語みたいなたかさアクセント(pitch accent, melodic accent)だった(ラテン語でもそうだったっていわれてる。「物質的」になったアクセント」)。ところが、西洋人にとってはこれがむずかしいもんだから、古典式っていっても、アクセントだけは、近代ヨーロッパ語みたいなつよさアクセント(stress accent, dynamic accent)でよむことがおおいみたいで、それだと、3種類のアクセント記号の区別を、発音とはべつにおぼえなきゃいけなくなるし、詩のリズムとアクセントが衝突することにもなる。これが日本語的な発音ならそんなことにはなんなくて、アクセント記号に忠実にそのまんまよめばいいだけのことだ。近代ヨーロッパ語とおんなじようにつよさアクセントになってる現代ギリシャ語じゃ、この3種類のアクセント記号を廃止して1種類だけにしたけど、そりゃそうだよな(こういうふうに現代ギリシャ語のかきかたは一部現代語に即した手なおしをしてるけど、つづりそのものはだいたいむかしのまんまで現代語の発音にそったものにはなってない)。

ちなみに英語だと英語のアクセントのことをたんに stress っていうことがよくある。これは、英語のアクセントがつよさアクセントつまりストレス・アクセントだからで、この stress っていいかたは、英語とか現代ギリシャ語とかの近代ヨーロッパ語のアクセントにはつかえるけど、古代のギリシャ語のアクセントはたかさアクセントつまりピッチ・アクセントだったから stress とはいえない。いうんだったら pitch だ。もちろん日本語の文章のなかでギリシャ語についてストレスだのピッチだのいう必要なんかないだろう。ただアクセントっていえばいいんだから。

つよさアクセントは母音のながさにも影響する。近代ヨーロッパ語のなかには、現代ギリシャ語もふくめて、アクセントがある母音をながめに発音することばがあるけど、古典式なのにこれをやっちゃうと、ますます母音のながさがおかしくなる。日本語的な発音ならこういうことになる心配もない。

古典ギリシャ語:古代ギリシャ語。 ビザンチン:ビザンティン。

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2005.10.10 kakikomi; 2011.07.12 kakitasi

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