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鼻音のかきかた

鼻音っていうと、日本語ならナ行の子音[n]とマ行の子音[m]と鼻濁音のガ行(カ゚ キ゚ ク゚ ケ゚ コ゚ であらわすことがある)の子音[ŋ]、それに「ン」がある。要するに鼻にぬける音のことで、とくに子音のまえにある鼻音のかきあらわしかたには、ことばによっていろいろ特徴がある。

日本語のばあい、ナ行・マ行と鼻濁音のガ行の子音はとくにどうってことはない。でも、ひらがなで「ん」、カタカナで「ン」、訓令式ローマ字で n ってかく鼻音は、けっこういろんな発音があって、左の表はこのちがいを発音記号であらわしたものだけど([ ] のなかが発音記号(IPA)、/ / のなかは音韻記号)、閉鎖音と鼻音のまえだと、それとおんなじ口のかたちの鼻音になるし、摩擦音と半母音と母音のまえなら鼻母音になる。よくみてもらうとわかるとおもうんだけど、たとえば「本と」「本だ」「本の」の「ン」はおんなじ[n]だから、これはひとつのばあいで、みっつのちがいがあるわけじゃない。そうすると、表には12種類の「ン」があるわけだけど、これで全部ってことじゃなくて、摩擦音と半母音と母音のまえの「ン」はこまかく表記しようとすればいろいろある。それにしても、音韻記号のほうはひとつの記号であらわされてるように、日本語の発音の体系のなかじゃどの「ン」もおんなじひとつの音韻〔音素〕だから、ひとつの文字でかけばいいし、現にそうしてる。

ところがヘボン式ローマ字だと、パ行・バ行・マ行のまえの「ン」だけ m ってかく。子音のかきかたが英語式だからだ。でも、いろいろある「ん」の発音のなかで[m]だけ特別あつかいするなんておかしい。ただし、これは正書法としてかんがえたばあいのことで、ヘボン式ローマ字をあくまで外国人むけの臨時のローマ字ってわりきれば、音声つまり実際の発音をうつしたほうがわかりやすいともいえる。でも、それなら[m]のばあいだけじゃなくて、ほかの音声のときも区別したらいいようなもんだけど、しょせん英語式の子音のかきかただから、英語で区別するものしか区別してない。

で、外国人むけのローマ字ならまだしも、カタカナでも、おんなじようなおかしなことをしてるばあいがある。外国語の名まえとか外来語で[m]の発音の「ン」を「ム」ってかくやりかただ。たとえば「オリピア」を「オリピア」なんてかいたりする。もとの外国語の発音をかんがえて[m]のつもりで「ム」にしてるんだろうけど、そういうふうに外国語の発音に気をつけてるひとが日本語の「ん」のことはしらないのかな。パ行・バ行・マ行のまえの「ン」は自然に[m]になるんだから「ム」なんてかく必要はないし、旧かなづかいならともかく、いまの日本語のかなづかいとしてはおかしい。一般にはこういうことはあんまりないけど、かえって学者が「ム」ってかいてたりする。外国語のことはしってても日本語の発音のことはしらないのかな。

たしかに、平安時代はじめに はつ音便があらわれたとき、「む」でかくばあいがあって、当時は[n]と[m]が区別されてた。[n]は「に」とか「り」とかの舌の音から変化したもので、たとえば「さかなり」が「さかなり」になったんだけど、「ん」は表記されなくて「さかなり」ってかいてた。[m]のほうは「ひ」「へ」「び」「み」とかのくちびるの音から変化したもので、たとえば「おもみれば」が「おもみれば」になって、たいていこの「ん」は「む」ってかいたから、このばあい「おもみれば」ってかきかたになった。だから、むかしのかなづかいならそういう「ム」をつかうのもいいかもしれないけど、いまのかなづかいじゃ「ム」の発音はあくまで[mɯ]なんだから、「オリムピア」ってかいたら[orimpia]じゃなくて[orimɯpia]になっちゃう。つまり「ン」ってかくより「ム」ってかくほうがもとの発音からはなれることになる。それに、こういう「ム」をつかうひとが、文章全体を旧かなづかいでかいてるってわけでもないみたいだから、旧かなづかいのつもりでもないみたいだし。

英語のばあい、鼻音は[m][n][ŋ]の3つがあるけど、文字としては m と n のふたつしかない。だから n って文字が[n]と[ŋ]のふたつの音をあらわすことになってる。たとえば ink とか finger の n は[n]じゃなくて[ŋ]の音だ。要するに[k]と[ɡ]の音のまえの n は[ŋ]になる。それから、[ŋ]をあらわすのに ng っていう2文字をつかってるばあいもある。たとえば sing、singer、singing の ng は4つとも[ŋɡ]じゃなくて[ŋ]をあらわしてる。singer をあえてカナでかけば、「スィンガー」じゃなくて「スィカ゚ー」ってことになるだろう。こういうふうに[ŋ]でおわる動詞に語尾がついたものは[ŋ]のまんまだけど、finger の ng は[ŋɡ]、つまり「フィカ゚ー」じゃなくて「フィンガー」だ。

ドイツ語の ng にもにたようなことがある。[k]のまえの n が[ŋ]になるのは英語なんかとおんなじだけど、ng はたいてい[ŋɡ]じゃなくて[ŋ]。たとえば Finger (指)の ng は英語とちがって[ŋ]、つまり「フィンガー」じゃなくて「フィカ゚ー」だ。それでも、つづりをわけるときは Fin-ger ってきる。これは inner [イナー] (うちがわの)を in-ner ってきるようなもんかもな。こういうふうにドイツ語の ng はよわい母音(-e、-en、-er、-es、-ig、-ung とかの母音)のまえだと[ŋ]だけど、[ŋɡ]になることがないわけでもない。tangieren [タンギーレン](接する)なんかがそうで、こういうのは外来語におおいとおもう。それから、ラテン語起源で、kon- とか in- みたいに -n でおわる接頭辞がついてて、つぎが g- か k- ではじまる単語(Kongress [コングレス](会議)とか Inkarnation [インカルナツィオーン](受肉、顕現)とか)は[ŋɡ][ŋk]でもなくて[nɡ][nk]になる(ただし[ŋɡ][ŋk]って発音もないことはない)。外来語じゃなくても、ein- って接頭辞がついてる eingehen [アインゲーエン](はいりこむ)、Einkauf [アインカオフ](かいもの)みたいな単語の ng nk は[ŋ, ŋɡ][ŋk]でもなくて[nɡ][nk]になる。この手のものは、-n と g- k- のあいだに単語のつくりのきれ目があるからだろう。

[ŋ]専用の文字があれば、こういうゴチャゴチャしたことはおこらなかったんだろうけど、これはそもそもローマ人がラテン語をかくのに[ŋ]をあらわす文字をつかわなかったことからはじまってる。西ヨーロッパの文字はラテン文字っていうことからもわかるように、もともとラテン語の文字だった。ラテン語でも[ɡ]と[k]のまえの[ŋ]は n ってかいてる。ほかに n のまえの g も[ŋ]の音になったんだけど(agnus [a(ː)ŋnus ア(ー)ク゚ヌス](小ヒツジ)の g)、つづりは g のまんまだった。それから、ラテン語の鼻音っていうと、単語のおわりの m にも特徴がある。時代によるちがいがあるにしても、これは子音じゃなくて鼻母音をあらわしてた。だから、m でおわる単語のあとに母音ではじまる単語がつづくばあいは、韻律をかんがえるときなんかに、母音がつづいてるのとおんなじあつかいになる。

ラテン語で gn の g が鼻音だったことからきてるとおもうけど、イタリア語の gn は「ニュ」の子音[ɲ]をあらわす。これはフランス語でもおんなじで、たとえばイタリア語の gnocchi (ニョッキ)の gn なんかがそうだ。この音をスペイン語は ñ、ポルトガル語は nh ってかく。イタリア語とフランス語の gn の音は舌の位置が[ŋ]と[n]のあいだだから、gn が[ŋn]っていうふたつの鼻音だったのがそのうち中間の発音になったってことなんだろう。もっとも、ロマンス語のこの音はラテン語の gn だけが起源じゃなくて、nia が「ニャ」になったのとかもある。イタリア語の鼻音は、ほかはだいたいラテン語とか英語とかとおんなじようなもんで、[ɡ]と[k]まえの[ŋ]は「n」ってかく。特徴的なのは[f]と[v]のまえの鼻音で、confetto [コンフェット](砂糖菓子(*))、invito[インヴィート](招待)っていうふうに n であらわしてるけど、発音は[n]とも[m]ともちがう。くちびるをとじないで、[f]([v])の口のかたちでまえ歯と下くちびるで[m]みたいな発音をする[ɱ]だ。それから、単語のおわりの n はつぎの単語の最初の子音とおんなじ系列の鼻音になる。たとえば、in piedi [イン ピエーディ](たって、おきて)の n は[m]、in casa [イン カーサ](家のなかで)の n は[ŋ]っていうふうに。
 (*) これに対応してるポルトガル語の confeito が日本語の「こんぺいとう」になった。「金平糖」はあて字。

ヨーロッパ以外でラテン文字をつかってることばをみてみると、たとえばインドネシア語の鼻音のかきかたが[ŋ]を区別しないラテン語式とはちがってて、文字じたいに[ŋ]専用のものはないけど、そのかわりに[ŋ]はつねに ng ってかく。だから、オランウータン(orang utan)の orang (ひと)は[oraŋɡ]じゃなくて[oraŋ]って発音になる。[ŋɡ]をあらわすつづりは ngg で、bunga [buŋa ブカ゚](花)に対して tangga [taŋɡa タンガ](はしご)っていうふうになる。べつの説明をすれば、英語の ink をインドネシア語式にかくと ingk になるっていえばわかりやすいかもしれない。それから[ɲ]の発音は ny であらわす。これは日本語のローマ字とおんなじだ。

ギリシャ文字のばあい[ŋ]専用の文字はないけど、Γ, γ (ガンマ)がこの鼻音をあらわす。ふつうガンマは[ɡ]の音だけど、Γ, γɡ](ガンマ)と Κ, κ [k](カッパ)と Ξ, ξ [ks](クセイ〔クシー〕)と Χ, χ [kʰ](ケイ〔キー〕)のまえだと[ŋ]になる。それから Μ, μ [m](ミュー)のまえでも[ŋ]になった。Ν, ν [n](ニュー)のまえで[ŋ]になったかどうかは説がわかれてる(鼻音のガンマ」)。それから、Ν, ν (ニュー)はふつうは[n]だけど、イタリア語みたいに、単語のおわりのニューはつぎの単語の最初の子音とおんなじ系列の鼻音になった。つまり、ばあいによっては[m]とか[ŋ]の音になった。たとえば ΕΝ ΠΟΛΕΙ [empólei エン ポレイ](都市〔ポリス〕のなかで。この ΕΙ はもともと[ei])の Ν の発音は[m]になって、ふるい碑文だと発音どおりに ΕΜ ΠΟΛΕΙ ってつづりになってたりする(ただし当時の碑文にはこういうわかちがきはない)。

現代ギリシャ語には古代になかった鼻音がふたつある。どっちもイタリア語のとこにでてきた鼻音で、[ɱ]と[ɲ]だ。でも文字のほうはふえたわけじゃないから、それぞれの音専用の文字はない。古代の Β, β [b](ベータ)と Φ, φ [pʰ](ペイ〔ピー〕)の発音が現代ギリシャ語でそれぞれ摩擦音の[v]と[f]になったもんだから、これのまえの Μ, μ [m](ミュー)が[ɱ]の発音になった。たとえば σύμφωνο [スィンフォノ](子音、条約)の μ。それと、単語のおわりの Ν, ν (ニュー)が、そのあとに[v]か[f]がくると、その影響でやっぱりこの音になる。たとえば των φίλων [トン フィーロン](友人たちの)の των の ν がそうだ。[ɲ]のほうは、母音[i]のまえの Ν, ν (ニュー)がこの音になることがあるのと(φωνή [フォニ]」(声)の ν とか)、Ν, ν (ニュー)のあとにアクセントのない[i]があって、そのあとに母音がつづくと、[ɲ]があらわれる。たとえば πανιά [パニャ](布、帆)の νι なんかがそう。

これはシッタン文字とも梵字[ぼんじ]ともいって、「アン」ってよむんだけど、胎蔵[たいぞう]マンダラの無量寿如来[むりょうじゅ にょらい](=アミダ如来)とか普賢[ふげん]ボサツの種字[しゅじ]につかわれる。この字の上についてる点のことを「空点」っていってるけど、この点は鼻音をあらわしてて、ほかのインド系の文字にもこれがある。サンスクリット語で अनुस्वार anusvāra [アヌスワーラ]っていったり、たんなる点って意味の बिन्दुबिंदु bindu [ビンドゥ]っていったりする。閉鎖音のまえの鼻音はもともとは結合文字でかくんだけど、そのかわりにアヌスワーラをつかってかくこともおおい。結合文字っていうのは、子音がつづくばあいにつかわれるもので、このばあい、その閉鎖音とおんなじ系列の鼻音をあらわす文字をふくむ結合文字になる。

अनुस्वार [アヌスワーラ]と बिन्दुबिंदु [ビンドゥ]ってかいた文字はデーバナーガリー文字っていうんだけど、インド系の文字の代表としてここにあげることにする。この文字は、ヒンディー語とかマラーティー語とかネパール語とかにつかわれてて、サンスクリット語もいまはこの文字でかく。「ビンドゥ」っていう単語につづりがふたつあるのは、上にかいたみたいに、閉鎖音のまえの鼻音のかきかたがふたつあるからで、ひとつめが結合文字をつかったつづりで、ふたつめがアヌスワーラ(ビンドゥ)をつかったつづりだ。

左の画像にはこれ以外の例をあげてみた。ヒンディー語の「ヒンディー」と「ガンガー(ガンジス)」と「ムンバイ(ボンベイ)」と「パンジャーブ」で、上が結合文字をつかったもの、下がアヌスワーラ(ビンドゥ)をつかったもの。この文字はヨコ棒をつなげてかくんだけど、ひと文字ずつわけて発音記号をつけたものを右側にあげておいた。いちおうヒンディー語だけど、つづりはマラーティー語でもネパール語でもおんなじで、発音もこのばあいそれほどかわりはないはず。それから、サンスクリット語の辞書だと結合文字のほうがみだし語になるのがふつうなんだけど、ヒンディー語の辞書だとアヌスワーラ(ビンドゥ)をつかったつづりがみだし語になる。

シッタン:悉曇。 マンダラ:曼荼羅。 アミダ:阿弥陀。 ボサツ:菩薩。 アヌスワーラ:アヌスヴァーラ。 デーバナーガリー:デーヴァナーガリー。

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2006.02.24 kakikomi; 2012.03.01 kakitasi

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