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発音記号の名まえ

アルファベットのそれぞれの文字には名まえがあるみたいに、発音記号にも名まえがあることはある。ただし国際音声学会(IPA)公認ってわけじゃなくて、よび名もひとつとはかぎらないんだけど、Pullum & Ladusaw “Phonetic Symbol Guide” (日本語訳はジェフリー・K・プラム/ウィリアム・A・ラデュサー『世界音声記号辞典』三省堂)がでて、そこでつかわれてる名まえがひろまってきてるし、IPA の “Handbook of the International Phonetic Association: A Guide to the Use of the International Phonetic Alphabet” (日本語訳は『国際音声記号ガイドブック―― 国際音声学会案内』大修館書店)でも “Phonetic Symbol Guide” の名まえがだいたい採用されてる。そこで、その発音記号の名まえについてちょっと紹介しようとおもう。

ラテン文字(ローマ字)とおんなじものはそのまんまの名まえで、[a]なら「小文字の a (lower-case a)」。それから、もとのラテン文字とあらわす音がちがってても、そのまんまの名まえでよばれてるものもある。たとえば、ドイツ語の ach の ch とか、現代ギリシャ語の /i/ /e/ のまえ以外の χ の音をあらわす[x](つよい[h]みたいなもの)は、ラテン文字としての x の発音とはちがうけど、そのまんま「小文字の x (lower-case x)」っていってる。

こういうもの以外は、独自の名まえがついてるものもあれば、説明的な名まえのものもある。

独自の名まえっていうのは、たいていもとになった文字の名まえで、たとえばギリシャ文字からとったものならギリシャ文字のまんまの名まえになってる。だから、think の th の音をあらわす[θ]は「シータ/テータ(theta)」ってことになる(「シータ(スィータ)」は英語よみか現代ギリシャ語の発音。「テータ」は古典ギリシャ語)。

ドイツ語の ä とかフランス語の è みたいな口のひらきがおおきい「エ」をあらわす[ɛ]もギリシャ文字がもとだから、名まえも「エプシロン(epsilon)」のまんま。

ドイツ語の ich の ch とか、現代ギリシャ語の /i/ /e/ のまえの χ の音をあらわす[ç](日本語の「ヒ」の子音みたいなもの)は、フランス語の名まえで「c セディーユ(c cédille)」(英語なら c cedilla)っていってる。

[θ]の有声音、つまり the の th の音をあらわす[ð]。これは「edh/eth [eð エズ]」っていうんだけど、古代英語とかにつかわれてた交差棒つきの d がもとで、その名まえがついてる。

それから、cat の a の音をあらわす[æ]は「ash [æʃ アッシュ]」って名まえで、これも古代英語の æsc。ただし、「小文字の a と e の結合文字(lower-case a-e ligature)」ともいうみたいだけど(まあ、わかればいいわけで…)。

英語とかドイツ語のアクセントのない音節によくでてくる「あいまい母音」とか、フランス語の e の発音をあらわす[ə]は「schwa [ʃwɑː シュワー]」っていう。このもとはヘブライ語の שוא šəwā [シェワー/シュヴァー]で、文字をとったわけじゃないんだけど、この手の音をあらわす母音記号がヘブライ語にあって、その名まえをつかってる。schwa はつづりからわかるようにドイツ語から英語にはいった。

発音記号の[j]は、英語の j の音じゃなくて子音(半母音)の y の音、つまり日本語のヤ行の子音をあらわしてるけど、そのために「jod/yod [ヨッド]」って名まえがついてる。この名まえもヘブライ語がもとで、ヘブライ語のアルファベットのひとつ יוד yôdh [ヨード]からきてる。このヘブライ文字が英語の子音 y の音をあらわす文字だからだ。発音記号として[j]がこの音につかわれてるのは、もともとラテン語としては j がこの発音だったからで、ドイツ語でも j の発音もこの音だ。それにドイツ語のアルファベットとしては j は Jot [ヨット]っていう。ただし[x]とおんなじように「小文字の j (lower-case j)」ともいわれてるけど。

この[j]に対して、発音記号の[y]は母音の記号で、ラテン語の y、ドイツ語の ü y、フランス語の u、古代ギリシャ語の υ (ユプシロン)の音をあらわしてる。つまりこれももともとのラテン語の発音とおんなじだ。ただし名まえは「小文字の y (lower-case y)」。

どっかの文字の名まえっていうんじゃないのもある。英語の sh の音をあらわす[ʃ]はイタリック体のながい s をもとにした記号なんだろうけど、「esh [eʃ エッシュ]」って名まえで、「エス」にならってつけられたんだろう。

ʃ]の有声音(pleasure の s とか)をあらわす[ʒ]の名まえは「ezh [eʒ エッジュ]」。この文字のもとは中世のゴシック体の z で、このかたちは英語の z の筆記体にのこってる。名まえは esh の有声音だから ezh にしたんだろう。ただし「尻尾つきの z (tailed z)」ともいわれてる。

にたようなものとしては、英語の song とかの ng の音をあらわす[ŋ]もある。この名まえは「eng [eŋ エング]」で、「エム」とか「エヌ」とかそういう名まえをまねしたものだろう。このかたちは n に g のしっぽをくっつけたもので、この発音は ng ってかかれることもおおいから、このつくりかたはわかりやすい。

イタリア語とか現代ギリシャ語にでてくる[ɱ]は、[f][v]の口のかたちの[m]の一種だけど、[ŋ]からの連想で「meng [meŋ メング]」って名まえがついてる。「エム」「エヌ」「エング」とちがってその音のまえに[e]をつけた[eɱ]って名まえじゃないのは、そうすると発音しにくいし、名まえのつづりとしても かきようがないからなのかな。文字のかたちとしても、[ŋ]とおんなじしっぽをつけただけで、しっぽそのものは発音とは関係ない。ただし、「〔右がわに〕左むきの尻尾つきの m (left-tail m 〔at right〕)」っていう説明的な名まえでもいわれてる。

説明的な名まえのほうについていえば、father の a [ɑː]につかわれる[ɑ]の名まえは「筆記体の a (script a)」。

all [ɔːl]にでてくる[ɔ]は「ひらいた o (open o)」。

cut の u の音をあらわす[ʌ]は「さかさの v (turned v)」。ただし、この記号はもともとは小型大文字(small capital)の A のヨコ棒をとったもので、だからこそ「ア」って音をあらわしてるんだけど、かたちとしては v をひっくりかえしたものだから、こういわれてる。

イタリア語とかフランス語にでてくる[ɲ](日本語の「ニ」「ニュ」の子音)は、「エニュ」とかにすればいいとおもうんだけど、「左カギつきの n (left-hook n)」とか「左下に左むきのカギをつけた n (n with leftward hook at left)」とか「〔左がわに〕左むきの尻尾つきの n (left-tail n 〔at left〕)」なんていわれてる。かたちとしては[ŋ]とは反対側に g のしっぽをくっつけたもので、この音をイタリア語でもフランス語でも gn ってかくから、それがもとになってる。

名まえ:名前、なまえ。

2006.03.22 kakikomi; 2013.06.27 kakitasi

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コメント

最初はIPCがほとんど分かりませんが、今は少し慣れてきました。やはり発音を説明するのにIPCを使うのは一番便利ですね。でもIPCの入力と表示が不便で、ラテン文字の組み合わせで表すのも大丈夫だと思います(^_^)
(実はいつもそう使うんですけど…(^_^;) 学校の掲示板は古いタイプですから~)

投稿: junkazama | 2006.03.23 18:06

いまの段階では、まだまだ不便ですね。どのフォントもユニコード文字がひととおりそろってれば、問題はないんですけど。

投稿: yumiya | 2006.03.24 18:26

めちゃめちゃおもしい話ですね!
韓国人や中国人は、発音記号をしっかり理解してるらしいので、例えば韓国人はFとPの区別があいまいだったりというような、口の筋トレ不足による発音の問題がある人は多いけど、ちゃんとに英語のルールにのっとっているのがわかります。だから発音を間違えても、自分である程度修正してます。

でも日本人は、発音記号アレルギーの人が多いので笑、英語のルールにのっとってないので、発音を間違えても、どこが間違ってるのか気づけないので、自分で修正ができませんよね。

学校でも、発音記号に関するこういうおもしい話をしてくれれば、もう少しみんな発音記号に対する恐怖心がなくなるんじゃないかなあとか思いました。


関係ないけど、「シータ」[θ]と聞くと、ラピュタの「シータとパズー」を連想するけど笑、ラピュタの方は、英語版のつづり見たらSheetaだったので、英語式の発音だと全然ちがいますね笑

投稿: 鶴川 | 2006.06.04 05:09

発音記号アレルギーですかあ。発音記号をしらないで辞書をひいても発音がわかんないだろうとおもうんですけど、どうやら発音のとこはみてないひともおおいみたいですね。ことばはまずは発音なのに…。

英語のつづりのよみかたの規則(いわゆる phonics)よりは、発音記号のほうがずっとかんたんなのに、ともおもいますけど、そもそも発音にはたいして関心がはらわれてないってことなんでしょうか。会話目的ならべつかもしれないですけど。

投稿: yumiya | 2006.06.04 22:17

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