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融通のきかない英語

英作文で、文法的にまちがってなくても、英語としてはそういうふうにはいわない、とかいわれることがよくある。日本語なら「わたしとあなた」でも「あなたとわたし」でもいいのに、英語だと I and you はダメで、you and I じゃなきゃいけないとか(絶対ダメってわけでもないかもしれないけど)。

それから、日本語だと「この本はだれの本ですか」って名詞をくりかえしてもいいし、「この本はだれのですか」みたいに「の」だけでもいいけど、英語なら Whose book is this book? っていうふうに名詞をくりかえしたらまちがいってことになる。

ネイティブにそういわれればそれまでだし、日本人がまちがってかいた英語は要するにまちがいなんだろう。でも、なんていうか、英語はずいぶん融通がきかない感じがする。

おんなじことをいうのに、日本語ならけっこういろんないいかたができるのに、英語だとだいたいきまりきったいいかたになるっていうのはよくあることで、これについて、英語とかフランス語とかの近代ヨーロッパ語は標準的ないいかたができあがってるのに対して、日本語はそうじゃない、ってかいてるひとがいた。どうもこれは日本語だけのことじゃないみたいで、アジアのことばはだいたい日本語みたいな感じらしい。

この件に関しておもしろい文章をみつけた(シュタイナー『精神科学による教育の改新 [シュタイナー教育基礎講座Ⅲ]』西川隆範訳、アルテ)。

今日では、人々が慣れているのとは異なった位置に主語を置くと、ただちに訂正されます。ドイツ語では、まだましです。ドイツ語では、まだ構文を自由にできます。
 西欧語では、誤りを犯すのはまったく恐ろしいことです。ことごとく、「そういうふうに言うことはできない。それは英語ではない。それはフランス語ではない」と、言われます。同様に「それはドイツ語ではない」と、言われることはありません。ドイツ語では、主語はどこにでもおくことができます。文章をなんらかの方法で、内的に活気づけることができます。
 私はジャーナリスティックな物言いをするつもりはありません。しかし、私は事実を確認したいと思います。これは言語の死滅プロセスです。絶えず、「そういうふうに言うことはできない。それは正しい言い方ではない」と言われると、言語は死にはじめます。
 〔…略…〕
 西欧の言語の場合のように、あれこれの言い回しが誤っており、一個の決まった話し方のみが正しいと、いつも言われるなら、それは実際、言語から生命をだんだん奪っていきます。

英語に関して「進化」なんてことばをつかうことがあるけど、語尾がすりきれてなくなってることとかをかんがえると、どうも逆のことがいいたくなるし、ここでいわれてることからしてもそんな感じがする。そういうことばが国際語だっていうんだから…。もっとも、本国の英語とちがって、ネイティブじゃないひとどうしがつかってる英語は、これとはまたべつの方向にいくのかもしれない。それに、本国だって、方言とか、ふだんはなしてることばだったら、はなしはべつだろう。「そういうふうに言うことはできない。それは正しい言い方ではない」っていうのは「標準語」についてだろうから。

2006.04.08 kakikomi

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コメント

留学生に日本語を書かせると、
文法的にまちがってなくても、日本語としては
そういうふうには言わない、と言いたくなることがよくある。

おんなじことを言うのに、外国語ならけっこういろんな言いかたができるのに、日本語だとだいたいきまりきった言いかたになるっていうのはよくある。

お説の逆もあります。

投稿: 吉川武時 | 2006.07.22 15:37

そうでしょうか。
おはなしのようなことは、さがせばいろいろあるでしょう。でも、全体的な傾向としては? それに、かんじんなのは外国人がいわば“まちがって”いってしまうような、その種のことではありません。そういう“まちがい”はこのことをかんがえるきっかけのひとつにはなりますが。

とくに語順なんかのことではあきらかではないでしょうか。英語の融通のきかない語順に対して、日本語の語順は文節単位でずっと自由です。おんなじ語族のなかでみても、ドイツ語とかラテン語とかギリシャ語とかサンスクリット語とくらべて、英語の融通のきかなさははっきりしているとおもいます。

それから、「外国語ならけっこういろんな言いかたができるのに、日本語だとだいたいきまりきった言いかたになる」といっても、ここでの問題は英語です。日本語と外国語の比較ではなくて、英語とそのほかの言語のちがいです。外国語のなかには、英語とはちがって、いろんないいかたができるものも当然あるでしょう。

それに、「日本語だとだいたいきまりきった言いかたになる」というのも、ちょっと疑問におもいます。実際の日本語は、外国人におしえる日本語の教科書のような、標準的なきまりきったものではないのですから。まあ、「だいたい」ということなんでしょうけど。

ただ、近代文明のなかでは、ここに引用したようなことはどこでもある程度はあるのでしょう。ですから、いまの日本語にもあてはまる部分はあるとおもいます。いわゆる標準語についてはとくにそうですね。

投稿: yumiya | 2006.07.24 09:03

「融通のきかない英語の語順」に関しては、確かにyumiyaさんおっしゃる通りだと思います。英語が格変化を大幅に捨て去って、語順によって意味構成を成す言語として発達してきたことは、サンスクリット・ギリシャ語、ドイツ語等と比較すれば明瞭ですね。

それから、江副さんおっしゃるところの「日本語の『~た』は過去形ではなく完了形」というお説は、古語の(完了の助動詞)「ぬ」「たり」との関係から明らかでしょうね。(広辞苑にもその辺のことは「た」の説明に明らかですが)

子供の頃に「先生が来た!」とか「{探し物が)あった!」という時の「た」を不思議に感じたものですが(今来ているのに「来た」、今まさにあるのに「あった」)、それが過去ではなく「完了(強意・確述)」の「たり」の流れを汲むものだということを、高校の古典の時間に実感しました。
yumiyaさんの詳説による(現在完了形の)「EURIKA(解った!)」も、その頃学んだ言葉でした。

吉川さんの「ルの形」「タの形」という表現も面白いと思いました。
「わかル」に比して「わかっタ」の方が確実に刻み込まれた「わかり方」だ、という説明は外国人にわかりやすい教え方かも…。

ただ吉川さんの「“助動詞”のない文法」(日本語学校論集15号 昭和63年12月25日)
http://homepage3.nifty.com/taketoki/jodosiless.html
を一読しましたが、現代日本語を現代の状態のままで分類整理されようとするところに、若干の無理を感じました。

例えば、「取ろう」の「う」を助動詞ではなく変化語尾であると説明されるようですが、これは古語の「取る」の未然形「取ら」に意志の“助動詞”「む」が付いた「取らむ」が「取らう」となり、更に音韻変化で「取ろう」となった、という説明の方が、ずっと納得できるのではないでしょうか。
吉川さんは「日本の子どもに正しい日本語の体系を示すのは当然である」とおっしゃる。だとすれば、日本語の歴史的な体系を示すことも一層当然だと思えるのですが…。
「現在の体系」のために助動詞を抹消するのは、チト早計ではないかと思われるのですが、いかがなものでせうネ?

例えば英語の「-ing形」の説明に現在分詞と動名詞とがあるというのが現代日本の英語教育の通説のようですが、これも又「現在の体系」ではないかと思えるわけです。

ドイツ語の「-ung」(動名詞)やサンスクリットの「-at,-ant」(現在分詞)等と比較検証すれば、自ずと系統が異なるものを現在の形の類似で強引に並べて説明しているわけですものね。
この辺りはyumiyaさんがお得意の分野なので、或いはどこかに詳説して頂いているかも…。

確かに西欧語の文法システムですべてを説明しきろうとする愚は、吉川さんのお説の通りだと思います。確かに昔のチベット語の文法書では、日本語の「て・に・を・は」に相当する助辞を西洋語の格変化方式に分類していたり、ちょっと違和感がありましたものね。

(吉川氏宛にも上記メールしましたところお返事を頂きました。
氏の文法論は「共時論の立場」で「日本語記述に歴史的観点を入れないようにという言語学の原則に立ったもの」なのだそうです。)

投稿: JIIRA | 2006.08.01 02:33

そうですね、いまの言語学の主流は「共時的」というもので、記述文法はそのやりかたですよね。歴史的な、いわゆる「通時的」なやりかたとは、べつに対立するようなものではないとおもいますよ。なんというか、目的がちがうような。共時的な文法は、文法の歴史的な由来とか、そうなっている原因・理由を説明するものではないですから。

「-ing」については、有名な Michael Swan の "Practical English Usage" でも、「-ing form」というふうに一括してあつかっています。現在分詞か動名詞かは、専門の文法学者でも意見がわかれるばあいがあるのですから、そのような区別は実用的ではないともいえるでしょう。どっちかきめかねる構文について「half-gerund」としている学者もいます。

助動詞については、古文の「む」のことをかんがえたからといって、それで「う」などという実体のないものが助動詞だということにはならないのではないでしょうか。現代かなづかいのせいで「う」というものがあるようにみえてしまうだけでしょう。城生佰太郎氏の『当節おもしろ言語学』(講談社)にもこんなことがかいてあります。
・・・・・・・・・・
「書こう」を、わざわざ文語の「書か」+「む」にまで遡行して「書こ」+「う」と分析する珍妙な学校文法に至っては、首をかしげざるを得ないと思うのである。何故ならば、これを音声表記で示せばたちどころに明らかとなるが、「書く」の活用は次のようになっているからである。
[kakanai]
(中略)
[kakeba]
[kake]
[kako:]
(中略)従って、敢えて「書こ」+「う」とした場合の「う」に該当する部分を右の例から捜せば、長音符号の [:] になるとしか言いようがなくなってしまう。どうして現状に全く合わないこんな不自然な分析を、明日の日本語をになう大切な子供達に押しつけなければならないのだろうか。
・・・・・・・・・・
さらに、「う」を助動詞とみとめなくても、「む」のほうは助動詞かといえば、それもちがうのではないでしょうか。これについては「国文法のおかしなところ」にかきましたが、古文の「む」も助動詞ではないとおもいます。

投稿: yumiya | 2006.08.01 23:02

確かに「学校文法」を問題視しながらもその範疇に染まってましたね。いつの時代でも「通時的」な自覚を持ちながらも「共時的」にものごとを整理せざるを得ない必然は、古今東西の(と言う自信はないですが)多くの文法論の宿命なのでしょうかネェ…。
(唐突ですが、世界の民族問題のモジャグレ方にも歴史と政治の交差するベクトルが感じられます)

ともかく、いつも明晰なご指摘とレファランスに感謝いたします。
"Just buy Swan!"のレビュー通り、例示ページを覗いてみると確かに「学校文法」のウロコを剥ぎ落としてくれそうです。Swanのご提示本、Practical とBasicを早速注文しました。
城生佰太郎氏の本もアマゾンにあったので合わせて取り寄せます。

投稿: JIIRA | 2006.08.02 22:45

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