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ギリシャ語とラテン語の名言(3)

ユーリウス・カエサル(Julius Caesar、英語よみで「ジュリアス・シーザー」)の有名なことばで、紀元前49年1月10日、ルビコーン川をわたるときにいった「サイはなげられた」っていうのがある。

ἀνερρίφθω κύβος.
 [anerǐːpʰtʰɔː kýbos]
 [アネッリープトー キュボス]

iacta alea est.
 [ヤクタ アーレア エスト]

カエサルはローマ人なのに、このことばをギリシャ語でいったっていうんだけど(プルータルコス『対比列伝』の「カエサル」32と「ポンペイユス」60)、これは、もともとあったギリシャ語のきまり文句だからなんだろう。そういえば、しぬ直前のカエサルの最後のことばもギリシャ語だったっけ(「ブルータス、おまえもか」」)。で、もともとあった文句ってことは、カエサルのことばっていうのとはちょっとちがうことになるけど、カエサルがここでつかったことで、このあとひろくつかわれるようになったわけだから、まあカエサルのことばってことでもおかしくはないか。『対比列伝』の「カエサル」のとこにも、「その後誰でも見当のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺となった」(河野与一訳、岩波文庫。旧字体を新字体に、旧かなづかいを現代かなづかいにあらためた)なんてかいてあるし。

プルータルコスは1~2世紀のひとだけど、すこしあとの2世紀の歴史家アッピアーノスの『内乱史』(第2巻)だと、このことばは ὁ κύβος ἀνερρίφθω. [ホ キュボス アネッリープトー]っていうふうに語順がかわって、 [ho ホ]っていう定冠詞がついた文章になってる。

『対比列伝』の翻訳書の注には、このことばは紀元前4~3世紀の喜劇詩人メナンドロスの作品のことばだとかかいてあるんだけど、たしかに、アテーナイオスが『食卓の賢人たち』(第13巻)でメナンドロスの作品を引用してるなかに ἀνερρίφθω κύβος. がでてくる。イアンボス・トリメトロス1行の後半なんだけど、なるほどこの文句はこの韻律にうまくはまるんだ(古代ギリシャの韻律:イアンボス・トリメトロス」)。このメナンドロスの引用が文献としてのこってるものとしてはいちばんふるいのかもしれないけど、でも、メナンドロスがそもそもの出典だってほんとにいえるのかな。メナンドロスも、もともとあった文句をつかってるだけだったりして。

で、「サイはなげられた」のラテン語のほうは、スエートーニウスの『ローマ皇帝伝(De Vita Caesarum)』(第1巻「ユーリウス」32)にでてくるもので、ギリシャ語とラテン語ではちょっと意味がちがってる。

ギリシャ語の ἀνερρίφθω [アネッリープトー]は ἀναρρίπτω [anarǐːptɔː アナッリープトー](なげあげる、[危険を]おかす、一か八かやってみる)の受動態・命令法・完了・3人称・単数で、κύβος [キュボス]は「サイコロ」(男性)。だから、この文章の意味は「サイコロはなげられた」じゃなくて「サイコロをなげてしまえ」(直訳すれば「サイコロはなげあげられてしまえ」)なんだけど、ふつう「サイはなげられた」になってるのは、ラテン語のほうがこういう意味だからだ。

iacta [ヤクタ]は iacio [ヤキオー](なげる)の完了分詞・女性・単数、alea [アーレア]は「サイコロ」(女性)、est [エスト]は sum [スム](ある、いる、~である)の直説法・現在・3人称・単数で、ここでは受動態・完了の助動詞としてつかわれてる(ギリシャ語とちがって、ラテン語の受動態・完了は動詞の変化形じゃなくて完了分詞と助動詞のくみあわせ)。つまりラテン語のほうは受動態・完了の文章で、命令法にはなってない。だから「サイコロはなげられた」ってことになる。でも、もともと est は esto [エストー]だったんじゃないかってエラスムスがいってるらしい。esto は sum の命令法・未来(第2命令法)・3人称・単数で、これだとギリシャ語とおんなじ完了の命令になる。ちがいは o だけだから、かきうつされてくうちに o がなくなっちゃったんだろうっていう説だ。たしかにこのいいかたはありえないことはないんだろうけど、完了の命令法ってラテン語のふつうのいいかたなんだっけ? もともとこのかたちだったとしても、あくまでギリシャ語を直訳したいいまわしなんだろう。

それから iacta のつづりは jacta になってるのもある。もともとラテン語には j はなかったんだけど、半母音の i をあらわすためにあとから j ができた。だから、ともとものつづりは iacta だけど、jacta ってつづりをみることもある。それと alea iacta est. っていう語順になってるのもみることがある。

ユーリウス・カエサル:ユリウス・カエサル。 ルビコーン:ルビコン。 サイはなげられた:さいは投げられた、賽は投げられた。 プルータルコス:プルタルコス。 『対比列伝』:『プルターク英雄伝』。 ポンペイユス:ポンペイウス。 アッピアーノス:アッピアノス。 アテーナイオス:アテナイオス。 スエートーニウス:スエトニウス。

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2006.10.17 kakikomi; 2009.05.19 kakitasi

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