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「薔薇」の読み

テレビ で 中川 翔子 が 自分 の 本名 (薔子。 ただし 戸籍 の うえ で は 「しようこ」 らしい) の漢字 を バラ の 「ば」 って 説明 してた の を きいて、 なる ほど な~ と おもった。 こう いう ふう に おもってる の も 無理 ない もん なあ (オタク で ものしり らしい けど …)。

「薔薇」 を 「ばら」 って よむ の は 熟字訓 で、 「薔」 を 「ば」、 「薇」 を 「ら」 って よんでる わけ じゃ ない。 「今日」 を 「きょう」、 「明日」 を 「あす/あした」 って よむ の と おんなじ こと だ。 「今」 が 「きょ」 で 「日」 が 「う」 って こと じゃ なくて、 「今日」 2 文字 で 「きょう」 って いう 訓よみ に なってる。

「薔薇」 も これ と おんなじ で、 この 2 文字 で 「ばら」 って いう 熟字訓 だ から、 ひと文字 ずつ の 訓よみ に は わけられない。 それ に だいたい この 漢字 それぞれ の 訓よみ なんて、 すくなく と も いま は まず つかわない だろう。 でも 漢字 だ から 音よみ は ある (国字 で も ない し)。 「薔薇」 を 音よみ すれば 「ショウビ/ソウビ」 で、 意味 は もちろん 「バラ」。 この ばあい は 「薔」 が 「ショウ/ソウ」 で、 「薇」 が 「ビ」 って いう 音 だ。 「ばら」 は やまと ことば で、 「ショウビ/ソウビ」 は 漢語 って こと に なる。 でも 「ショウビ/ソウビ」 なんて ほとんど いわない だろう けど ね。

ただ それ に して も、 「薔」 が 「ば」 で 「薇」 が 「ら」 って かんちがい しちゃう の は 無理 も ない。 そもそも 熟字訓 なんて の が ある から いけない ん だ けど (熟字訓という暴力」)。 「薔薇」 って 字 が かける の が エライ みたい に おもってたり、 こむずかしい 漢字 が かける ほう が あたま が いい と か おもいこんでる ひと で も、 けっこう 「薔」 が 「ば」 で 「薇」 が 「ら」 だ と か おもってたり して ね。

そう いえば いきもの の なまえ を カタカナ で かいてる の を よく みかける。 生物学 あたり が もと な の か な。 いきもの の なまえ は けっこう ロク で も ない くだらない 熟字訓 が ある から (ニホン語 の 単語 の つくり と は ぜんぜん 関係 ない 中国 の 熟語 を その まんま つかって 熟字訓 で よんだり と か)、 カタカナがき は いい こと だ。 バラ だって カタカナ で かけば すむ はなし だ し。 ただし ながい なまえ は なか点 を いれる か わかちがき する か した ほう が いい と おもう。

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 ・ギリシャ語のバラ
 ・熟字訓という暴力

2006.12.12 kakikomi; 2012.09.05 kakinaosi

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コメント

ギリシャ語のトリアンダフィロを訳すと漢字の薔薇がぴったりのように思います。
30枚の花びらというイメージが漢字の薔薇にありますね。

投稿: lemonodasos | 2006.12.12 02:43

このてのはなしでは、自分のふだんの習慣とちがう意見に対する感情的な反発というのがおおいようにおもうのですが、それはそれとして…。

文字のみためのイメージをつかったやりかたで、はたしてなにかを訳したといえるのか疑問におもいます。漢字に気をとられて、ことばそのものとか発音とかのほうに注意がいかない風潮がありますよねえ。日本語のばあい、とくに文学方面では、ことばそのものを工夫するより文字を工夫することがよくありますけど、そういうのは、田中克彦さんのことばをかりれば、文芸ではなくて「文字芸」でしょう。

日本語の「バラ」は「うばら」がみじかくなったもので、これはトゲのあるひくい木のことをいっています。「いばら」のふるいかたちです。ここにふくまれる「はら」は「針」のことだと説明されています。

「薔」と「薇」は形声文字で、くさかんむり以外の部分は発音をあらわしています。ただそれだけのものです。もっとも、会意文字もかねているという説もあるんですけど、そのばあいでも、「薔」は「えだがほそながくのびる植物」、「薇」は「芽だちのちいさい菜」ということのようで、どっちにしても花びらをあらわしているわけではありません。それに漢字は象形文字ではありません。

日本語はトゲ、漢字は(会意文字だとすれば)「ほそながくのびる」などの意味、現代ギリシャ語は30枚の花びら、というようにそれぞれ目のつけどころが全然ちがうのがおもしろいところです。このちがいを無視して、「薔薇」という漢字にまとめてしまうとしたら、それはどうなんでしょうか。

「薔薇」という熟字がバラにつかわれているせいで、バラの花のイメージとこの漢字がむすびついてしまっているだけで、この漢字そのものにそなわった特徴ではないでしょう。このての、なんかゴチャゴチャした漢字なら、ほかの字だってバラの花のイメージとむすびつくようになるんじゃないでしょうか。

それに、日本語のかきかたをかんがえるばあい、外国語の発想や翻訳のことは関係ないとおもいます。まあ、そういうことより、あくまで翻訳のこととしていわれてるのかもしれませんけど。

コメントには直接関係ないかもしれませんが、ついでにいうと、よく、漢字をだいじにすることが日本語をだいじにすることのようにいうひとがいますけど、日本語そのものに耳をかたむけず、日本語の単語のつくりや発想を無視して、こういう熟字訓のようなものをつかいつづけるのは、かえって日本語をだいじにしていないことになっているとおもいます。

投稿: yumiya | 2006.12.12 15:46

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