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アイコン、イコン、エイコーン

パソコンをつかってるひとなら「アイコン」ってことばをみききしたことがないってことはないとおもうけど、いうまでもなくこれは英語の icon だ。もとはギリシャ語の εἰκών [eːkɔ̌ːn エ~コーン](像、にてるもの、幻影)で、これがラテン語の icon [イーコーン]になって、それが英語にはいった。英語として最初につかわれたのは1572年で、コンピューター用語としては1982年からつかわれてるらしい。

icon はコンピューター用語じゃなければ「像、肖像、聖画像」ってことで、ikon、eikon ともつづる。発音はどれもおんなじで[ˈaɪkɒn]。「聖画像」っていうのは、ギリシャ正教会とかの東方正教会のキリストとか聖人とか天使の絵のことだけど、この意味で英語の icon がつかわれたのは1833年が最初らしい。日本語だと「イコン」っていってる。

日本語の「アイコン」は英語がもとだけど、「イコン」のほうはなに語なんだろ。国語辞典にはラテン語の icon だとかドイツ語の Ikon [イコーン]だとかかいてあるんだけど、εἰκών の現代ギリシャ語式の発音[iˈkon イコン]ってことはないのかな。なにしろギリシャ正教のことなんだから。ただし現代ギリシャ語の民衆語(口語文)だと εικόνα [iˈkona イコーナ]だけど。

ところで、ギリシャ語の「エイコーン」(古典ギリシャ語のよくあるカタカナがきだと εἰκών はこうなる)っていうと、旧約聖書の『創世記』の最初のほうをおもいだす。『創世記』第1章第26・27節の人間がつくられる場面で、

26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(新共同訳)

っていうとこがあるけど、この「かたどり」「かたどって」っていうのがギリシャ語だと「エイコーン」をつかったいいかたになってる。

ここでいうギリシャ語の本文は古代のギリシャ語訳旧約聖書「七十人訳(セプトゥアギンタ、Septuaginta)」のことで、この部分はこうなってる(ただし「そして海の魚……支配させよう。」のとこは省略)。

26 καὶ εἶπεν ὁ θεός, Ποιήσωμεν ἄνθρωπον κατ᾿ εἰκόνα ἡμετέραν καὶ καθ᾿ ὁμοίωσιν, [...] 27 καὶ ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾿ εἰκόνα θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν, ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.

εἰκόνα [eːkóna エ~コナ]は εἰκών の単数・対格で、前置詞といっしょの κατ᾿ εἰκόνα [kat eːkóna カテ~コナ]で「かたどって」って意味になってる。「我々にかたどり」のあとに「我々に似せて」っていうのがつづいてるけど、こっちの「似せて」のほうは καθ᾿ ὁμοίωσιν [katʰomǒijɔːsin カトモイヨースィン]で、ὁμοίωσις [homǒijɔːsis ホモイヨースィス](にること、にせること、にすがた)の単数・対格に「かたどって」とおんなじ前置詞がついてる(かたちがちょっとちがってるけど)。それから、新共同訳だと「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」っていうふうに、第27節で「かたどって」っていうのが2回くりかえされてるけど、七十人訳は「神はひとを創造された。神にかたどって創造された」っていうふうに1回だけだ。

旧約聖書の原文はヘブライ語だから(一部アラム語)、「エイコーン」(像、かたどり)と「オモイオーシス」(にすがた)のもとのヘブライ語のこともいっとくと、「エイコーン」は צלם elem [ツェレム](かげ、像)、「ホモイオーシス」は דמות dəmûth [デムート](にてること)。それから、第27節のヘブライ語の原文は新共同訳とおんなじで(っていうか新共同訳がヘブライ語の原文から訳してるわけだけど)、「かたどって」っていうのが2回でてくる。これはほかの翻訳でもそうで、七十人訳だけがちがってるんだけど、七十人訳がもとにした原文が、いまつたわってる旧約聖書の本文とはちがう系統の写本だったってはなしだから、そのへんのことが関係してるのかもしれない。

で、ここでおもしろいのは、まず第26節で神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」っていってるのに、つぎの第27節じゃ「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」になってて、実際に人間をつくったときには「かたどって」だけで「似せて」がなくなってることだ。これはヘブライ語の原文でもそうだし、七十人訳でもほかの翻訳でもかわりない。

いくつか翻訳をみてみると、ラテン語訳のウルガタ(Vulgata)は、

26 et ait faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostram [...] 27 et creavit Deus hominem ad imaginem suam ad imaginem Dei creavit illum masculum et feminam creavit eos

欽定訳(Authorized Version/King James Version)は、

26 And God said, Let us make man in our image, after our likeness: [...] 27 So God created man in his own image, in the image of God created he him; male and female created he them.

それから、七十人訳からの英語訳(Sir Lancelot C. L. Brenton, 1851)は、

26 And God said, Let us make man according to our image and likeness, [...] 27 And God made man, according to the image of God he made him, male and female he made them.

英語だと「エイコーン」は image、「ホモイオーシス」は likeness。ラテン語のほうは「エイコーン」は imago [イマーゴー](像、映像、かげ、うつし)、「ホモイオーシス」は similitudo [スィミリトゥードー](にてること)って訳してるけど、上の文章のなかじゃ ad っていう前置詞のあとでそれぞれ単数・対格のかたちになってる(ad imaginem et similitudinem。et は英語の and。ラテン語の発音はとりあえず古典式)。

ここから、ラテン語で imago Dei [イマーゴー デイー]っていうのを人間についていうようになったわけだけど(Dei は Deus [デウス](神)の属格上の文章には対格の imaginem Dei [イマーギネム デイー]っていうのがある)、これをよく「神のにすがた」って訳してる。でも、『創世記』の文章に即して imago (=エイコーン)と similitudo (=ホモイオーシス)を区別するんなら、「にすがた」は similitudo のほうだから、この訳はおかしいともいえる。だから「神の像」「神のかたどり」とでも訳さなきゃいけない。ただし、実際に人間をつくったときは imago のほうしかいってないから、このふたつにとくに区別なんかなくって、similitudo はただ imago の意味をおぎなってるだけだって解釈するんなら、「神のにすがた」でもわるくないことになる。

でも、このふたつをはっきり区別して、ここにふかい意味をよみとる解釈もある。そういう解釈からすると、人間はつくられたまんまの状態だと、神の「エイコーン」だけど、まだ「ホモイオーシス」にはなってないってことになる。日本の正教会の用語だと「エイコーン」は「像[ぞう]」、「ホモイオーシス」は「肖[しょう]」っていうらしいんだけど(「肖」なんていわないで「にすがた」でいいんじゃないの?)、高橋保行『ギリシャ正教』(講談社学術文庫)にはこんなことがかいてある。

 神の力と働きに人があずかり、神と交わりを持つとき、はじめて人間とよばれうるものとなるというギリシャ正教の人間観は、ただたんに創られたまま、あるがままの形で存続するだけでは人間とは考えないことを意味する。これは、すでにみたように、人間の生死の問題を、肉体や霊魂の生死という現象面からでなく、人間と神の関係から解こうとするからである。ギリシャ正教の世界で、人の生死の判断を究極的な意味においてくだすときには、過去においても、現実においても、人が神の力と働きにあずかっているかいないかが基準とされるのである。
 ここで問題となる人間の創られたままの形と、人間が神との交わりの中に生きつつあるものとなるという過程の関係を、表信者聖マキシマスは、創世記の中の像と肖という言葉にみいだしている。われわれの像と肖に似せて人を創ろうという神の言葉から、聖マキシマスは、人間の創られたままの形を像、創られた人間が神の力と働きにあずかり、神との交わりの中に生きる過程を肖と解釈するのである。この解釈は、人が人とよばれるには、神の力と働きの中に生きつつあるというプロセスをもっていなければならないことを意味する。霊と体が存続するだけではなく、神に向かって生きつづけるという上昇のムーヴメントがなければ人間とはよばれないのである。
 この世に生まれてくる者はすべて神の像をもっているが、肖はこの世に生きるときに、人が神との交わりにより、自分の意志と力で自分の中に築きあげてゆくものである。生まれながらに与えられている像と肖のうち、像は人間がどんな人生を送ろうが消えないが、肖は人が意志と力により自分の中にとりいれなければならない。像と肖は、共に神の恩恵により与えられるが、肖のほうは人生の途上で、人がみずからの中に神との交わりにより形成するものである。
 人が自分の意志と力で神の肖をとりつつ生きるとき、はじめて神の像と肖をもつ総合的な人間が生まれる。

それから、『創世記』のこの部分についてこの本にはこんなこともかいてある。

神は人を創るときだけ、光あれ、とか、水の間に大空があって、水と水を分けよというような命令の口調をとらないで、われわれの像と肖に似せて人を創ろう、と心の中で思う口調をとっている。つまり、神が人を創るときに、特別に他とはちがう考えと意図をもって創ったことがうかがえる。人は、この世の他のものと同じようには創られていないのである。

ついでにいうと、第27節の最後に「男と女に創造された」ってかいてあるけど、このあとの第2章には、「主なる神」がアダムをねむらせて、あばら骨をとりだして、その骨からエバをつくる、っていうはなしがでてくる。まず「男と女に創造された」ってかいてあるのに、そのあと男から女をつくってるわけだ。これにはいろんな解釈があるけど、いまの学説だと、『創世記』のもとになった資料が3つぐらいあって、そのためにちがう神話がまじってるってことになってる。第2章第4節の途中ではなしが一段落するんだけど、そこまでが「祭司資料」っていって、神のことをただの普通名詞「エローヒーム」(אלהים ʼĕlōhîm、ヘブライ語で「神」、複数形)っていってる。これに対して、第2章第4節の後半からは「ヤハウェ資料」で、「主なる神」ってことばをつかってる。日本語訳の「主」っていうのは「ヤハウェ」(יהוה Yahwe)っていう名まえの翻訳だ。でも、これって、こういうふうに、もとになった資料に分解するだけでかたづくことなのかな。矛盾したはなしをそのまんまつなげて『創世記』をかいたってことになるわけだけど、そんなうっかりしたことするかなあ。古代オリエントの神話で、やっぱりこんな感じの二段がまえの創造神話があるから、『創世記』のこの部分もそういうのの一種だってこともあるみたいだし。

で、この手の学説じゃなくて、ユダヤ教にもある解釈だけど、エバがつくられるまえのアダムは両性具有だったっていうのがある。アダムのあばら骨からエバがつくられるまえに、まず神が人間を「男と女に」創造したっていうんだから、たしかにこういう解釈もありかもしれない。ただし、原文でもいろんな翻訳でも、第27節の最後のとこは、「彼らを男と女に創造した(male and female created he them)」ってなってて(新共同訳は日本語として当然この人称代名詞をいちいち訳してない)、「彼を」じゃないから、その点じゃムリがあるようにもおもえる。でも、もともとは「彼ら」じゃなかったのに、あとから「男と女に」っていうのにあわせて文章に手がくわえられたとかいうことだったら…。それか、両性具有だからこそ「彼ら」っていってるんだともいえるかも。

2006.12.28 kakikomi; 2017.05.21 kakitasi

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コメント

たまたまグーグル経由で辿り着きました。こんな素敵なサイトがあるとは。で、イコンですが、私は日本の正教会がロシア経由の物だったということでてっきりロシア語のикона,あるいはиконаграфияから入って来たものだろーなどと簡単に考えていました。でもどうもそうじゃぁないですよねぇ。フランス語あたりから堀口大學あたりが?とかも考えたくなったりしますが、実際どうなんでしょう。これは考え出すと眠れなくなりそうです。

投稿: Koning | 2007.01.05 04:29

そうなんですよねえ。日本の正教会はロシアからきてるので、マタイのことをロシア語のなまえをつかって「マトフェイ(Матфей)」っていってるなんてことがありますね。ニコライ堂の案内のひとは「マトフェイ」はギリシャ語だなんて説明してましたけど…。

あらためて高橋保行『ギリシャ正教』をみてみると、「ギリシャ語で『イメージ』を意味するイコン」ってかいてあるので、この本ではギリシャ語起源ってことになってるみたいです。でも、ギリシャ語説にしても、国語辞典のラテン語説・ドイツ語説にしても、日本語の「イコン」にちかい発音のことばをさがしてきて、あてはめてるだけじゃないかともおもえます。とくに何語ってことじゃなくて「icon」を、なんていうか、ローマ字よみしたものがもとになってるのかもしれません。

投稿: yumiya | 2007.01.05 23:51

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