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「物質的」になったアクセント

水嶋良雄『グレゴリオ聖歌』(音楽之友社)は、教会ラテン語の発音についてもいろいろくわしくかいてあっておもろい。そのなかで、アクセントについてはこんなことがかいてある。

《教会ラテンのアクセントは,まず第1に,音を高めるという特質を有す》
 アクセントとは,通常,「語の中でその音節を浮き立たせるために強める」ことを意味するものと考えられている.しかし教会ラテンのアクセントは,かならずしもそうではない.それは何よりまず第1に,その音節を「旋律的に高めること」なのである.
      〔…略…〕
ラテン語アクセントは「長く」重い音節と考えられがちであるが,それはあくまで近代ロマンス諸語的見解であって,歴史的(教会ラテン的)ではない.長・短の量的考慮がなされた第2期(古典ラテン期)においてすら,ラテン語のアクセントはむしろ「軽く,短い」ものであったということを数多くの資料が示している.
      〔…略…〕
“acutus のアクセントは gravis よりも軽く・短い.そしてあらゆる点で(数量的に)少ない”……Varron (紀元前116~前27)
      〔…略…〕
 第1期古代ラテン語では,強アクセントは語頭のそれであって,語尾前のものが高揚アクセントであったが〔…略…〕,
 第2期ラテンでは高揚アクセントのみがいわゆるアクセント(accent tonique)として認識されるようになった.
 本期といえども,ラテン単語の強音節すなわちアクセント音節でなかったのはもちろんである.そのことは,第3期前半のラテン語においてもいえることであった.すなわち5世紀までのいかなる文法学者も,アクセントに強度を与える問題にはふれていない.むしろ彼らは次のように説明している:「アクセントはあらゆる音節のうちでもっとも甘美であり,語全体の中でもっとも非物質的である」(Varron 紀元前116~前27)と.
 第3期 教会ラテン
 6世紀来このアクセントは,ごくわずかだけではあるが強く発音されるようになった.しかしそれはあくまで控え目な強さであり,軽さを失うことのない強さであった.
 第4期 ロマンス語期
 アクセントの強さは次第に強調され、重く物質的な感じのものへと変化していった.それと同時に,アクセント近隣の弱音節、とりわけ語尾前弱音節,ついで語尾音節が腐蝕され消失していった.〔…略…〕
 教会ラテンのアクセントは,したがって,わずかに強いものであるが,軽さを失わない強さであるといえる.語感の持つ内部からあふれ出るような軽い強さであって,必然性の乏しい単なる強さ(物質的な強さといわれることが多い)であってはならない.《アクセントは語の魂》(ドン・ポティエ)と呼ばれるのはここからである.
 教会ラテン・アクセントへ,近代ロマンス語的重さを付与せしめぬため,すぐれた聖歌学者,なかんずくソレム楽派修道士たちが,「軽拍的・上拍部アクセント」として考える(重拍的・打拍部アクセントとして解さない)傾向にあることは,後古典ラテン・アクセントの解釈として、まったくふさわしいものといわねばならない.

ラテン語のアクセントについては、古典時代(第2期)のアクセントがどういうものだった説がわかれてるみたいだけど、ローマ人自身がかきのこしたものからすると、たかさアクセントだったってことになるらしい。ところが、西洋人の学者はこれをギリシャ人のマネだとか解釈して、古典ラテン語のアクセントはつよさアクセントだったっていったりしてる。古典ギリシャ語のアクセントがたかさアクセントだったのははっきりしてるんだけど、ローマ人がラテン語のアクセントについてかくときに、ギリシャ人にならって たかさアクセントみたいにかいてるだけだっていうわけだ。西洋人がそういうふうに解釈したくなるのはわからないでもないけど、なんか積極的な証拠でもあるのかな。

で、それはそれとして、この本は古典時代もたかさアクセントだったっていってるし、そのあとの教会ラテン語の時代でもそうだったっていってる。でもって、注目したいのはそこじゃなくて、そのあとだ。アクセントはもともと「たかくて」「かるくて」「みじかい」ものだったのに、ラテン語がロマンス語(イタリア語とかスペイン語とか)になって、「おもくて」「ながい」ものになったってかいてある。さらに、それを「物質的」になったともいってる。「かるく」なくなって「おもく」なったっていうのを「物質的」っていうのはなんとなくわかる。それに、「ながく」なったっていうのも質より量で、やっぱり「物質的」って感じかな。「物質的な強さ」っていうのも、音量ってことで、やっぱり質より量っていえそうだ。

ギリシャ語のアクセントもおんなじ変化をした。古代にはたかさアクセントだったのが、現代語だとつよさアクセントになってるし、ロマンス語とおんなじで、ながめに発音する。ってことは、この本のことばをつかえば、ギリシャ語のアクセントも「非物質的」なものから「物質的」なものになっちゃったってことになる。

これって、人類は時代をくだるにつれて物質文明を発達させてきたわけだけど、そういう うつりかわりがことばの発音にもあらわれてるってことなのかな。

それはともかく、ギリシャ・ローマの古典をよむとき、要するに意味がわかればいいわけだから、発音なんかどうでもいいっていうかんがえにも一理あるだろう。すくなくとも散文のばあいはそうだっていってもいいかもしれない(散文にも、一種の韻律をつかった弁論の文章なんかがあるけど)。韻文のばあい、現代ギリシャ語の発音で古典ギリシャ語をよんだり、ロマンス語的発音で古典ラテン語をよむのは、どうかとおもうけど、散文ならとりあえず問題はないともいえる。その点からすれば、発音なんて実用的にかんがえればいいってことになる。

いまのギリシャ人が現代語の発音でギリシャ語の古典をよんだり、イタリア人がロマンス語的発音でラテン語の古典をよむのは、実用的ってことでいえば当然だろう。それから、ギリシャ人じゃなくても、現代ギリシャ語のほうをさきにしってるひととか、現代語しかしらないひとにとっては、古典ギリシャ語でも現代語の発音でよむほうが実用的だっていえるかもしれない。でも、現代ギリシャ語をしらないばあいは、現代語式に古典ギリシャ語をよむのは決して実用的とはいえない。古典式発音は実用的にわりきっていえば、つづりどおりによむだけだから、こっちのほうがずっと実用的だ。

ただし、西洋人の古典式は、アクセントは近代ヨーロッパ語式(ロマンス語式・現代ギリシャ語式)、つまりつよさアクセントのことがおおい。西洋人にとってはたかさアクセントはむずかしいからだろう。でも、それはあくまで西洋人のばあいで、それを日本語のはなし手がマネする必要なんかない。日本語のはなし手にとっては、つよさアクセントよりたかさアクセントのほうが、日本語とおんなじで簡単なんだから。つまりたかさアクセントのほうが実用的だ。

それに、やっぱり、せっかく古典の文章をよむのに、近代的な「物質的」なアクセント、つまり古典ラテン語・教会ラテン語ならロマンス語式、古典ギリシャ語なら現代ギリシャ語式のアクセントでよみたくはない。古典は近代・現代みたいな物質文明の産物じゃないんだから。それから、ついでにいうと、ロマンス語っていうのはけっきょく「現代ラテン語」だから、古典ラテン語をロマンス語式のアクセントでよむっていうのは、古典ギリシャ語を現代ギリシャ語のアクセントでよむっていうのとちょうど対応してる。

ちなみに、1933年にでた玉川直重『新約聖書ギリシヤ語独習』(明和書院、新版は友愛書房)にはおもしろいことがかいてある

ギリシヤ語のアクセントは音の高低を示すもの(pitch accent)で英語等に於ける音の強弱を示すもの(stress accent)とは全然異なる。故に之を正確に発音する事は我等には殆ど不可能である。

当時はまだ輸入学問で(いまでも?)、西洋人のいうことをウのみにしてたからこういうことになったんだろうけど、いくらなんでも日本語のことをまったくしらないわけでもないだろうに…。「我等」っていうのはだれのことなんだよ。

これとおんなじことが、左近義慈『新約聖書ギリシャ語入門』(新教出版社)にもかいてある。

ギリシヤ語のアクセントは音の高低を示すもの(musical pitch)で,英語などに於ける音の強弱を示すもの(stress accent)とは全然異なる。故に之を正確に発音することは我等には難しい。

文章がほとんどおんなじだ。実際にみた本は1979年の第14刷なんだけど、第1刷の年月日はかいてなかった。ただ「©1953」っていうのがあったから、これが第1刷の年なんだろう(もともとちがう出版社からでてて、その初版の年とか?)。20年たっても、この件についてはまるうつしだったわけか。

古典ギリシャ語:古代ギリシャ語。

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2006.12.07 kakikomi; 2012.04.02 kakinaosi

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