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『金剛頂経』の百八名讃

仏教の経典には百八名讃みょうさんっていうのがでてくるのがある。名まえをたくさんとなえて仏さまをほめたたえるものだけど、百八っていうのはたいていのばあい「たくさん」ってことで、実際に名まえが108あるわけじゃない。108よりおおいのもすくないのもある。

日本の密教の根本経典のひとつ『金剛頂経こんごうちょうぎょう』にも百八名讃がでてくる。『金剛頂経』には30巻のながいのもあって、それだと6つの百八名讃があるんだけど、この漢文訳は空海とか最澄の時代にはまだなくて、ふつう『金剛頂経』っていえばその30巻のほうじゃないから、一般的な『金剛頂経』についていえば百八名讃はひとつだけだ。

この百八名讃は、シュローカ(श्लोक śloka)っていうインドの代表的な詩の形式でできてる。シュローカの基本は2行ひとくみで、1行が16音節。これをっていうんだけど、この2行をえんえんとつづけてながい叙事詩にもなる。音節のながさのくみあわせについてこまかい規則があるけど、それについては「四智梵語はシュローカじゃない」にかいた。で、この百八名讃は全体で16偈ある。

वज्रसत्त्व महासत्त्व वज्र सर्वतथागत ।
समन्तभद्र वज्राद्य वज्रपाणे नमोऽस्तु ते ॥ १ ॥
वज्रराज सुबुद्धाग्र्य वज्राङ्कुश तथागत ।
अमोघराज वज्राग्र्य वज्राकर्ष नमोऽस्तु ते ॥ २ ॥
वज्रराग महासौख्य वज्रवाण वशंकर ।
मारकाम महावज्र वज्रचाप नमोऽस्तु ते ॥ ३ ॥
वज्रसाधो सुसत्त्वाग्र्य वज्रतुष्टि महारते ।
प्रामोद्यराज वज्राग्र्य वज्रहर्ष नमोऽस्तु ते ॥ ४ ॥
वज्ररत्न सुवज्रार्थ वज्राकाश महामणे ।
आकाशगर्भ वज्राढ्य वज्रगर्भ नमोऽस्तु ते ॥ ५ ॥
वज्रतेज महाज्वाल वज्रसूर्य जिनप्रभ ।
वज्ररश्मि महातेज वज्रप्रभ नमोऽस्तु ते ॥ ६ ॥
वज्रकेतु सुसत्त्वार्थ वज्रध्वज सुतोषक ।
रत्नकेतो महावज्र वज्रयष्टे नमोऽस्तु ते ॥ ७ ॥
वज्रहास महाहास वज्रस्मित महाद्बुत ।
प्रीतिप्रामोद्य वज्राग्र्य वज्रप्रीते नमोऽस्तु ते ॥ ८ ॥
वज्रधर्म सुतत्त्वार्थ वज्रपद्म सुशोधक ।
लोकेश्वर सुवज्राक्ष वज्रनेत्र नमोऽस्तु ते ॥ ९ ॥
वज्रतीक्ष्ण महायान वज्रकोश महायुध ।
मञ्जुश्री वज्रगांभीर्य वज्रबुद्धे नमोऽस्तु ते ॥ १० ॥
वज्रहेतु महामण्ड वज्रचक्र महानय ।
सुप्रवर्तन वज्रोत्थ वज्रमण्ड नमोऽस्तु ते ॥ ११ ॥
वज्रभाष सुविद्याग्र्य वज्रजाप सुसिद्धिद ।
अवाच वज्रसिद्ध्यग्र वज्रवाच नमोऽस्तु ते ॥ १२ ॥
वज्रकर्म सुवज्राज्ञ कर्मवज्र सुसर्वग ।
वज्रामोघ महौदार्य वज्रविश्व नमोऽस्तु ते ॥ १३ ॥
वज्ररक्ष महाधैर्य वज्रवर्म महादृढ ।
दुर्योधन सुवीर्याग्र्य वज्रवीर्य नमोऽस्तु ते ॥ १४ ॥
वज्रयक्ष महोपाय वज्रदंष्ट्र महाभय ।
मारप्रमर्दिन्वज्रोग्र वज्रचण्ड नमोऽस्तु ते ॥ १५ ॥
वज्रसंधि सुसांनिध्य वज्रबन्ध प्रमोचक ।
वज्रमुष्ट्यग्रसमय वज्रमुष्टे नमोऽस्तु ते ॥ १६ ॥

vajrasattva mahāsattva vajra sarvatathāgata |
samantabhadra vajrādya vajrapāe namo ’stu te ∥ 1 ∥
vajrarāja subuddhāgrya vajrākuśa tathāgata |
amogharāja vajrāgrya vajrākara namo ’stu te ∥ 2 ∥
vajrarāga mahāsaukhya vajravāa vaśakara |
mārakāma mahāvajra vajracāpa namo ’stu te ∥ 3 ∥
vajrasādho susattvāgrya vajratuṣṭi mahārate |
prāmodyarāja vajrāgrya vajrahara namo ’stu te ∥ 4 ∥
vajraratna suvajrārtha vajrākāśa mahāmae |
ākāśagarbha vajrāhya vajragarbha namo ’stu te ∥ 5 ∥
vajrateja mahājvāla vajrasūrya jinaprabha |
vajraraśmi mahāteja vajraprabha namo ’stu te ∥ 6 ∥
vajraketu susattvārtha vajradhvaja sutoaka |
ratnaketo mahāvajra vajrayaṣṭe namo ’stu te ∥ 7 ∥
vajrahāsa mahāhāsa vajrasmita mahādbhuta |
prītiprāmodya vajrāgrya vajraprīte namo ’stu te ∥ 8 ∥
vajradharma sutattvārtha vajrapadma suśodhaka |
lokeśvara suvajrāka vajranetra namo ’stu te ∥ 9 ∥
vajratīkṣṇa mahāyāna vajrakośa mahāyudha |
mañjuśrī vajragābhīrya vajrabuddhe namo ’stu te ∥ 10 ∥
vajrahetu mahāmaṇḍa vajracakra mahānaya |
supravartana vajrottha vajramaṇḍa namo ’stu te ∥ 11 ∥
vajrabhāa suvidyāgrya vajrajāpa susiddhida |
avāca vajrasiddhyagra vajravāca namo ’stu te ∥ 12 ∥
vajrakarma suvajrājña karmavajra susarvaga |
vajrāmogha mahaudārya vajraviśva namo ’stu te ∥ 13 ∥
vajraraka mahādhairya vajravarma mahādṛḍha |
duryodhana suvīryāgrya vajravīrya namo ’stu te ∥ 14 ∥
vajrayaka mahopāya vajradaṃṣṭra mahābhaya |
mārapramardin vajrogra vajracaṇḍa namo ’stu te ∥ 15 ∥
vajrasadhi susānidhya vajrabandha pramocaka |
vajramuṣṭyagrasamaya vajramuṣṭe namo ’stu te ∥ 16 ∥

とりあえず第1偈のカタカナがきの発音と意味をかいておくと、

ヴァッジュラサットワ マハーサットワ ヴァッジュラ サルワタターガタ |
サマンタバッドラ ヴァッジュラーッデャ ヴァッジュラパーネー ナモー ストゥ テー ∥ 1 ∥

金剛サッタよ、偉大な存在(大サッタ)よ、金剛しょよ、一切如来よ |
普賢ふげんよ、金剛の最初のもの(金剛本初ほんじょ)よ、金剛手よ、あなたに帰依します ∥ 1 ∥

『金剛頂経』の百八名讃はそれぞれの偈がかならず नमोऽस्तु ते namo ’stu te [ナモー ストゥ テー](あなたに帰依します)っていう文句でおわる。これは नमस् अस्तु ते namas astu te [ナマス アストゥ テー]が連声れんじょうでつながったもので、अस्तु [アストゥ]がなくても意味はかわらない。नमस् [ナマス]は「あたまをさげること、敬礼、帰依」、अस्तु [アストゥ]は英語の be にあたる動詞の命令法・3人称・単数で「あるように」、ते [テー]は「あなたに」ってことなんだけど、अस्तु [アストゥ]をなくせば नमस्ते namas te [ナマス テー]になって、これならきいたことがあるだろう。もともとはサンスクリット語なんだけど、ヒンディー語とかネパール語とか、インドの地方語であいさつのことばとしてつかわれてる。相手のなかにいる神に帰依するってことらしい。この百八名讃で नमोऽस्तु ते [ナモー ストゥ テー]っていいまわしをつかってるのは韻律にあわせるためだ。

नमस् [ナマス]はつぎにくる音によって語尾がかわって नमः nama [ナマハ]になったり नमो namo [ナモー]になったりするんだけど、このことばは中国経由で日本にはいってきてる。ナマステーをしらないひとでも南無なむならしってるだろう。南無阿弥陀仏なむあみだぶつとかの南無だ。発音をうつしただけで漢字に意味はない。それから、真言で「のうまく」とか「のうぼう」とかではじまるのがあるけど、それは नमः [ナマハ]を「のうまく」、नमो [ナモー]を「のうぼう」ってよんでるわけで、日本語になったっていうのとはちがうけど、とにかくこういうかたちでも日本につたわってきてる。

で、नमोऽस्तु ते [ナモー ストゥ テー]以外のとこが仏さまの名まえで、ここには7つある。こういうふうに1偈に7つっていうのがいちばんおおい。この百八名讃は16偈あるから、単純に計算すると112の名まえがでてくることになるけど、最後の第16偈には6つしかないから、全部で111になる。そうすると、ここでもやっぱり百八っていうのは実際の数じゃないってことになるけど、ちょっとみかたをかえれば108っていえないこともない。

111個でてくる名まえのなかには、おんなじものがある。ひとつは वज्राग्र्य vajrāgrya [ヴァッジュラーッグリャ](金剛のなかの最高のもの)で、第2偈と第4偈と第8偈にでてくる。もうひとつは महावज्र mahāvajra [マハーヴァッジュラ](大金剛)で、第3偈と第7偈にでてくる。これをそれぞれひとつだけってかぞえれば、3つすくなくなるから、ちょうど108になる。だから、この百八名讃は実際に108の名まえになるようにしてあるんじゃないかとおもうんだけど、どうだろ。

で、最後の第16偈にでてくる名まえは6つなんだけど、これを7つにかぞえる説もある。第16偈の1行めはどっちにしても ほかとおんなじ4つなんだけど、2行めの解釈がちがう。

वज्रमुष्ट्यग्रसमय वज्रमुष्टे नमोऽस्तु ते ॥ १६ ॥

vajramuṣṭyagrasamaya vajramuṣṭe namo ’stu te ∥ 16 ∥

ヴァッジュラムシュテャッグラサマヤ ヴァッジュラムシュテー ナモー ストゥ テー ∥ 16 ∥

金剛拳の最高のサンマヤをたもつものよ、金剛拳よ、あなたに帰依します ∥ 16 ∥

ここで वज्रमुष्ट्यग्रसमय vajramuṣṭyagrasamaya [ヴァッジュラムシュテャッグラサマヤ]をふたつにわけて、「金剛拳よ、最高のサンマヤをたもつものよ」って解釈することもできないことはない。そうすると名まえがひとつふえて第16偈も7つになる。それでも、この行に「金剛拳」っていう名まえが2回でてくることになるから、おんなじ名まえをひとつにかぞえれば結局は6つになって、結果はおんなじことだ。でも、こんなちかくに、つまりおんなじ行のなかにおんなじ名まえがでてくるのはちょっとヘンだから、やっぱりふたつにわけるのはおかしいんじゃないかな。

ヴァッジュラサットワ:ヴァジュラサットヴァ。 金剛サッタ:金剛薩埵。 大サッタ:大薩埵。 サンマヤ:三摩耶、三昧耶。

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2006.12.01 kakikomi; 2011.08.09 kakinaosi

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