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韻律を気にかけないのはなぜか

ある仏教経典の校訂本をだした学者が、「韻律のことはわからない」とかいってるのをどっかでよんだことがある。例によって日本的な謙そんなんだろうけど、この校訂本のなかで、うしなわれてる部分を韻律にあわない文章でおぎなってることからすると、どうもそれだけでもないような…。本文校訂に関して韻律にふれてるとこもあるにはあるんだけど。

おんなじ経典のインドででてる校訂本をみたら、その部分はちゃんと韻律にそった文章で復元されてた。とうぜん韻律のことはかんがえてるわけだ。

仏典の文章で、散文のとこにでてくる名まえと、韻文のとこにでてくる名まえがちがってるばあいがある。なんでちがうかっていうと、韻文のほうは韻律にあわせるために いいまわしとか ことばをかえてるからだ(それだけとはいいきれないかもしれないけど)。こういうふうに、仏さまの名まえをかえてまで韻律にあわせるようなことをしてるんだから、韻律がどうでもいいようなもんだとはいえないだろう。

でも、どうも日本の研究者には、韻律を気にかけないひとがいるような印象をうける。おもいすごしならいいけど。

いちおうこういう印象がまちがってないとして、じゃあ、なんでそうなのか かんがえてみると、日本文学のちょっとした特徴が関係あるのかもしれない。日本文学には伝統的な定型詩として、おもなものじゃ、和歌と俳句っていうみじかいのしかない。ほんとの叙事詩がない。それに、和歌と俳句の形式は、拍の数をあわせるだけのけっこう単純なものだ。日本の文学がこういう感じだから、韻律に対する感覚があんまりないってことなってるんじゃないかとおもう。

2007.04.11 kakikomi

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コメント

日本文学の特徴ではなく、日本語の特徴と言えるかもしれません。言語と音楽の韻律を考えると分かるのですが、日本語には強烈な韻律の重要性が(無理に当てはめない限り)ないです。Mississippiなんて言葉一つだけでも(強勢と群化)、韻律の影響がひしひし感じられる言語とは違うでしょう。普段、使うことも意識することも殆どないですからね・・・。もちろん、だからこそ意識する必要があるというのが正論です。

投稿: KANAMI | 2007.05.05 08:54

日本文学にこういう特徴があるのは、とうぜん日本語の性質のせいでしょうから、そこまでさかのぼれば、日本語の特徴が原因ともいえるでしょう。ただし、その外国語そのものが韻律を意識させるようなものであるなら、それにかかわっていれば、そのことばの韻律を意識してもよさそうなものなのに、そうではないとすると、やっぱり、どっちかというと、日本語で叙事詩のようなものに したしんでいないせいではないでしょうか。詩の形式でかたるということ自体に対する認識のなさとでもいえばいいのかもしれません。

日本語にちゃんとした叙事詩がない直接の原因としては日本語の特徴がかんがえられるわけですが、韻律を意識しない直接の原因は、日本語の特徴というより、文学形式として叙事詩のようなものにしたしんでいないということにあるのだとおもいます。

もっとも、外国語をちゃんとした発音でよんでいないために、カタカナ発音になってしまい、そのせいで、そのことばの韻律が感じられないとすれば、日本語の発音の特徴のせいということになるのかもしれませんが。ただ、そうすると、問題はそんなことでもなくて、けっきょくは発音に注意をはらっていないせいということになるのかもしれません。発音なんかどうでもよくて意味さえよみとれればいいという風潮もあるみたいですから。

それと、こまかいことですが、ここでとりあげた仏教経典はサンスクリット語のものですが、サンスクリット語の韻律は、古典ギリシャ語・古典ラテン語とおなじように、強勢とそれによる群化とは関係なく、音節のながさによるものです。英語のような強勢による韻律は、それにくらべれば単純なものです(だからこそ脚韻というものがある?)。それでも、近代ヨーロッパ語の詩は、音節のながさによる古代の韻律を強勢におきかえて ある程度とりいれてはいます。

投稿: yumiya | 2007.05.05 13:47

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