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旧かなづかいとイデア

おどろいたことに、世のなかには旧かなづかいのリクツづけにイデアをもちだすひとがいるらしい。なんでも、旧かなづかいをみとめることはイデアをみとめることなんだそうだ。しらなかったな~。でも、この件でイデアをもちだしてもしょうがないとおもう。いまの日本語に旧かなづかいをつかうことについてはいまさら論じる気にもなんないけど、ここでは、この件についてイデアをもちだすのはどうなのか、かんがえてみたいとおもう。

イデアっていうのは、おもにプラトーンの説としてしられてる。プラトーン自身は「イデア」を専門用語にはしてなくて、いわゆるイデアのことをいうのにいろんなことばをつかってる。いちばんおおいのは「エイドス」だ。「イデア」はギリシャ語の ἰδέα [idéaː イデアー]、「エイドス」は εἶδος [êːdos エ~ドス]だけど、意味はだいたいおんなじで「みた目、かたち、すがた」ってことだ。「エイドス」のほうが「イデア」よりおおくつかわれてるのにプラトーンっていうとイデアってことになってるのは、アリストテレースの用語に「エイドス」(形相)があって、これと区別するためだ。

プラトーンのイデアについてはけっこういろんな解釈があるけど、ここで問題なのはイデアの一般的なイメージだろう。旧かなづかいのリクツづけにもちだされてるのもそういうもんだろうから、そういうイデアについて簡単に説明すると、イデアっていうのはこの世のものごとの原型で、時間を超越した永遠の存在のことだ。よくひきあいにだされる例でいうと、実際のつくえにはいろんなものがあるけど、つくえっていうからには、なんていうか、共通のものがある。それが「つくえであるもの」、つくえそのもので、要するにつくえの本質ともいえるけど、このつくえそのものがつくえのイデアっていわれてて、この世のつくえの原型として存在してる。これに対して、この世のつくえはつくえのイデアをうつした にすがたとでもいうようなものだってことになる。イデアはものだけじゃなくて、性質みたいなものごと、おおきいこととか、ただしいこととか、うつくしいこととかについてもかんがえられてて、うつくしさのイデア(美のイデア)なんていうのがよくはなしにでてくる。

この世のものは感覚でとらえられるけど、イデアは知性(νοῦς [nûːs ヌース]=じかに対象をしるはたらきで、知能とはちがう)でとらえないといけない。この世のもの、たとえばつくえはそのうちこわれたりしてつくえじゃなくなっちゃうけど、つくえのイデアは永遠の存在だから、つねにつくえのまんまでかわらない。この、かわることがなくて永遠の存在だっていうのが、ちょっとした誤解のもとかもしれない。どうもイデアを、なんだか固定した、それこそ“うごき”のない、しんでる物体みたいなイメージでとらえてることがよくあるような気がする。永遠にかわらないものをおもいうかべようとすると、この世にある、変化しないようにみえるものになっちゃうわけだ。イデアはそれこそ“いきてる”ものなのに。

で、旧かなづかいのリクツづけにイデアをもちだすっていうのは、たぶん日本語のイデアのことをいってるんだとおもう。日本語のイデアっていう永遠の存在、かわることのない永遠の日本語、これを旧かなづかいがあらわしてるっていうつもりなんだろう。

そもそも かなづかいは、この世でつかわれてる日本語の一面をうつしたものだ。プラトーンは、この世のものをえがいた絵について、イデアから二重にへだたってるなんていってるけど、かなづかいもしょせんはそんなもんだ。だから、かなづかいについてイデアをもちだすなんて、この点からもどうかとおもうけど、はなしは かなづかい全体じゃなくて、旧かなづかいにかぎったことだから、イデアをもちだしたくなるようなものが旧かなづかいにはあるってことなんだろう。

旧かなづかいは、ちょっとみると、時代を超越してるようにみえないこともない。で、この時代を超越してるってイメージから、歴史のなかで すがたをかえてく日本語に対して、かわることのない永遠のもの、つまり日本語のイデアをうつしてるっておもいこみがうまれることになるんじゃないかな。でも、これってどうなんだ?

旧かなづかいは、なんだかんだいっても結局はある特定の時期、つまりだいたい平安時代初期の日本語のすがたをうつしてるものにすぎない(ヤ行の「エ(ye)」はないけど)。それから、伝統的ってイメージもあるかもしれないけど、実際は一貫してつかわれてきたものでもない(旧かなづかいは日本の伝統?」)。どっかの施設のひとがよくいうみたいに、せいぜい「明治以来の伝統」とかいえるぐらいのもんだろう(旧かなづかいのもとになった契沖のかなづかいは江戸時代にできたけど)。それだって、その施設はいちおうまだあるけど、旧かなづかいは戦後すこしたって廃止されたんだから、さらにみじかい“伝統”だった。だから、べつに時代を超越してるわけじゃない。

それから、上にかいたイデアのまちがったイメージ、つまりこの世の変化しないようにみえるものをイデアとむすびつけるかんがえかたも関係ありそうだ。旧かなづかいに、変化しない永遠の日本語のイメージを勝手にかさねて(たんなるある時期のすがたなのに)、これがいかにもイデアっぽくおもえるってことだろう。でも、日本語のうつりかわりのそとにあって変化しない かなづかいっていうのは、はたしてほんとに日本語のイデアをうつしたものってことになるのかな。もちろん、すべてのものはイデアの にすがたっていえるから、旧かなづかいだってそうなんだけど、あくまで比較の問題として、ほかのものよりイデアにちかいかどうかってことだ。

そうするとまずイデアとこの世のものの関係についてかんがえなくちゃいけない。イデアは時間をこえた永遠のもので、この世のものは時間のなかにある。これについて、ボエーティウスの『哲学のなぐさめ』(De consolatione philosophiae)5.6(p).4-5 にはこんなことがかいてある。

Aeternitas igitur est interminabilis vitae tota simul et perfecta possessio, quod ex collatione temporalium clarius liquet. Nam quicquid vivit in tempore, id praesens a praeteritis in futura procedit, nihilque est in tempore constitutum, quod totum vitae suae spatium pariter possit amplecti.

ところで永遠とは、限りない生命を同時に全的かつ完全に所有することである。これは、時間的事物との比較によってなお一層明白になる。すなわち、時間の中に生きるものは、今は現在的であっても、それは過去から来たり、未来へと進むのである。したがって、時間の中に規定される何ものといえども、その生命の全領域を同時的に包括することはできない。
(畠中尚志訳『哲学の慰め』岩波文庫。ただしかなづかいを「現代仮名遣い」に、漢字の旧字体を新字体にあらためて、漢字を一部ひらがなになおした)

イデアは「限りない生命を同時に全的かつ完全に所有」してて、そのもののすべての性質を全部“同時に”かねそなえてる。それに対して、イデアの にすがたのほうは「その生命の全領域を同時的に包括することはできない」。

そもそも、時間っていうのは永遠の にすがたとしてつくられたってプラトーンの『ティーマイオス』にかいてある。プラトニズムの時間論の基本になるかんがえかただ。この世のもの、つまりイデアの にすがたについては、この時間ってことが重要になる。この世のものは、ある特定の時点じゃ、それそのものの性質の一部しかそなわってない。そのもののイデアがかねそなえてるいろんな性質をうつしだすためには時間が必要だ。そのためにこそ永遠の にすがたとしての時間がある。時間のなかにある この世のものは、時間とともにかわってって、そうしてちがう性質をいろいろとうつしだしてくことになる。

かりにイデアの世界をこの世よりもたかい次元の世界だとすると、この世の空間は三次元だから、イデアの世界は四次元だってかんがえることもできるだろう。ただし、四次元の図形をそのまんまイメージすることはできないから、それぞれ次元をひとつずつさげて、この世を二次元、イデアの世界を三次元にたとえることにする。はなしを簡単にするために、三次元の図形を球、二次元の図形を円ってことにすると、三次元の球がイデアで、その にすがたが二次元の円ってことになる。球のかげを平面にうつすと円になるみたいなもんだ(平面に対してななめからの光だと楕円になっちゃうけど、それはとりあえずかんがえないとして)。

球の にすがたの円は、球の性質の一部しかあらわしてない。3番目の次元がないんだから当然だ。で、この3番目の次元の性質を二次元の円としてあらわそうとするなら、時間っていう要素をもってこなきゃいけない。三次元の球が二次元の平面を通過するばあいをかんがえてみると、まず球が平面に接することになるけど、これは、二次元の世界のできごととしては、二次元空間のなかに点があらわれるってことになる。それから、球が平面を通過してくにつれて、二次元の世界の点は円になって、その円がだんだんとおおきくなってく。で、円があるとこまでおおきくなったあとは、今度はだんだんちいさくなってって、最後は点になって、きえることになる。このイメージでかんがえれば、まず点からはじまって、だんだん円がおおきくなってって、そのあと逆にちいさくなって、最後は点にもどって きえちゃう、っていう一連のできごとでもって、ただの固定した円とはちがって、三次元の球を、もともとの三次元とはちがうけど、なんとかうつしだすことができることになるだろう。霊的存在はこの世には一連のできごととしてあらわれる、とかいうのも、こんな感じのことだろう。

もっとも、球を輪ぎりにすると、いろんなおおきさの円ができるみたいに、おおきさのちがう円をいくつもかんがえれば、たくさんの円で球のいろんな面をあらわすこともできる。つくえのイデアがひとつなのに対して、実際のつくえはいろいろあるようなもんだ。でも、つくえみたいなモノじゃなくて、時間とともにはっきりかわってくようなものとか、いきてるようなものをかんがえて、それひとつだけでイデアの性質をできるだけあらわそうとするんなら、時間につれて変化してくようなものこそ、変化しないものよりもイデアにちかい にすがただっていえるだろう。

で、はなしをもどすと、日本語のイデアの にすがたはもちろん歴史のなかで変化してく実際の日本語だ。日本語の歴史全体で日本語のイデアの にすがたになってる。ある時点の日本語のすがただけじゃ、日本語のイデアのほんの一面しかあらわしてない。かなづかいは、上にかいたみたいに、もともと日本語のイデアから二重にへだたってるものだけど、それでも、イデアになるべくちかづけようとするなら、実際の日本語とおんなじように、時間のなかで変化してくものにしないといけないだろう。日本語の変化にあわせて、かなづかいをすこしずつでも手なおししてくことで、一見イデアをうつしたみたいにみえなくもない変化しない旧かなづかいよりも、イデアにちかいものになるはずだ。

くりかえしになるけど、イデアが永遠にそのもののまんまでいるってことを、なんか固定した しんだものみたいにかんがえて、この世の変化しないようにみえるものがそのイデアをいちばんあらわしてるみたいにおもうのは、まちがったおもいこみだ。そういうのは、イデアをしんだ抽象概念みたいにかんがえることにもつながるだろう。抽象概念はイデアのかげにすぎない。イデアとその にすがたの関係からすれば、時間のなかで変化するもののほうがイデアにちかい。旧かなづかいは、日本語の実際のうつりかわりとちがって、変化しないとこに意義があるっておもわれてるんだろうから、そういうものについて、イデアをもちだしてもしょうがないとおもう。

プラトーン:プラトン。 アリストテレース:アリストテレス。 ボエーティウス:ボエティウス。 ティーマイオス:ティマイオス。

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2007.05.11 kakikomi; 2009.04.24 kakinaosi

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