« ユニコードのギリシャ数字と音楽記号と韻律記号 | トップページ | ウェブサイトのギリシャ語原典について »

七十人訳『創世記』1:4、2:4

七十人訳っていわれてる古代のギリシャ語訳旧約聖書がある。ラテン語をつかって「セプトゥアギンタ(Septuaginta)」ともいうけど、その『創世記』第1章第4節(「神は光を見て、良しとされた」新共同訳)はこういう文章になってる。

καὶ εἶδεν ὁ θεὸς τὸ φῶς ὅτι καλόν.

この部分の七十人訳からの翻訳をみてみると、Sir Lancelot C. L. Brenton の英語訳は「And God saw the light that it was good,」で、ヘブライ語から訳したほかの翻訳と基本的にかわらない。それから、フランス語訳(Giguet: La Septante LXX)は「Dieu vit que la lumière était bonne,」で、英語にそのまんまなおせば「God saw that the light was good,」になる。

こうしてみると、七十人訳のこの文章はとくにヘブライ語の原文とはちがってないってことになるだろう。でも、秦剛平訳『七十人訳ギリシア語聖書Ⅰ 創世記』(河出書房新社)はちがう解釈をしてる。この本は「ギリシア語テクストの記述がヘブル語のテクストの記述と異なる場合、その箇所は太文字の明朝体で明示」してるんだけど、ここもそうなってて、「神は光を見た。美しかったからである」って訳してる。

たしかに καλόν の基本的な意味は「うつくしい」だ。でも日本語の「うつくしい」とまったくおんなじってわけじゃない。「みごとな、立派な、質がいい、役にたつ」って訳せるばあいもある。「見た」っていうのに関連してこのことばをつかってるんじゃないかとおもうし、自分がつくったものをみて「うまくできてる」っておもったんだろう。だからとくに七十人訳がちがうふうに訳してるわけでもないとおもうし、ここをどうしても「うつくしかった」って訳さなきゃいけないわけでもないだろう。

それでも「うつくしかった」ってことで、その点は原文とはちがってるってことでもいいけど、それよりも ὅτι のほうが問題で、この解釈はこれを「~だから」の意味にとってることになる。もちろんその意味もあるけど、まずは「~っていうこと」で、英語の接続詞の that みたいなもんだ。上にあげた英語訳もフランス語訳もその意味に訳してる。ヘブライ語の原文からしてもその意味のはずだけど、ギリシャ語として「~だから」って意味で解釈しなきゃいけない理由がなにかあるのかな。

かんがえられることは καὶ εἶδεν ὁ θεὸς τὸ φῶς ὅτι καλόν. っていう語順かもしれない。このギリシャ語の文章を語順をかえないで単語だけ英語になおすと and saw the god the light that good. ってことになる。接続詞の καί (=and)はべつとして、動詞の εἶδεν が文章のはじめにきてるのは、ヘブライ語の直訳調だからで、全体として語順はヘブライ語の原文のまんまって感じになってる。ただし、ギリシャ語として特別おかしな語順ってわけじゃない。

この文章を主文と従属文にわければ、主文が καὶ εἶδεν ὁ θεὸς τὸ φῶς (そして神はそのひかりをみた)で、従属文が ὅτι καλόν になる。これが、こういう直訳調じゃなくて、τὸ φῶς (ひかり)が従属文の主語で καὶ εἶδεν ὁ θεὸς ὅτι τὸ φῶς καλόν. だったらわかりやすかっただろう。でも実際はそうじゃないわけで、そうすると、たしかに従属文をはっきりわけて、ὅτι をもうひとつの意味にとって「うつくしかったからだ」って訳したくなるのもわからなくはない。でも、ほんとにそう解釈する必要があるのかどうか…。

ギリシャ語のこの文章は純粋にギリシャ語としてだけかんがえてもヘブライ語の原文の意味とおんなじように解釈して問題ないはずだ。つまり、この文はプロレープシス(πρόληψις、prolepsis、まえにとりだすこと、先どり)だってかんがえればいい。プロレープシスっていうのは従属文のなかの要素を主文のほうにもってくることだけど、主文の動詞が「みる」「きく」「しっている」っていうような意味のときにおおくて、代表的なのは従属文の主語を主文の目的語にもってくることだ。ここでもそうなってて、従属文の主語のはずの τὸ φῶς (ひかりが)が主文の目的語 τὸ φῶς (ひかりを)になってる。もともとはヘブライ語の直訳調なんだけど、結果としてはギリシャ語としてもとくにおかしくはない文章になってるってことになるだろう。

そういうことだから、ここを、わざわざヘブライ語の原文とはちがう「美しかったからである」っていうふうに解釈しなきゃいけない理由はないとおもう。ただそのまんまギリシャ語としてヘブライ語の原文とおんなじ意味によめるんだから、それでいいんじゃないかな。七十人訳の英語訳もフランス語訳もそうなってるんだし。

それから第2章第4節の前半にもふれておきたい。ここの七十人訳は、

Αὕτη ἡ βίβλος γενέσεως οὐρανοῦ καὶ γῆς, ὅτε ἐγένετο,

で、天地創造がひととおりおわって、それまでのはなしをうけて「これが天地創造の由来である」(新共同訳)ってしめくくるとこなんだけど、これも、『七十人訳ギリシア語聖書Ⅰ 創世記』だとヘブライ語の原文とちがうように解釈して「太文字の明朝体」をつかって「これは天と地の誕生ゲネシスの書」って訳してる。

ἡ βίβλος (書、本)にあたることばはヘブライ語の原文にはない。まずはこれがちがうといえばちがう。ただし原文にある תולדות tôlədhôth には「誕生」とか「由来」とか以外に「系図」って意味もあるから、そのへんをくみとって「書」って訳したのかもしれない。

で、「書」についてはとりあえずいいとして、問題はべつのとこにある。『七十人訳ギリシア語聖書Ⅰ 創世記』の注にはこうかいてある。

「これは天と地の誕生の書」という表現は、そこまでで語られてきた天地創造の物語を締めくくるものではなく(ヘブル語のテクストの「これが天地の創造された経緯である」は、先行する物語を締めくくる)、以降の物語の導入句である。

これは αὕτη の解釈の問題だ。

αὕτη は指示代名詞 οὗτος の女性形だけど、οὗτος っていうのは、もうひとつの指示代名詞 ὅδε が「つぎにのべること」をさすのに対して、「すでにのべたこと」をさすものだ(このことはギリシャ語の入門書にもちゃんと説明がある)。ってことは要するにヘブライ語の原文どおりなわけで、「そこまでで語られてきた天地創造の物語」をさしてることになる。これがどうして「以降の物語の導入句」つまり「つぎにのべること」になっちゃうんだろ。わざわざこんな解釈をする理由はないとおもう。

七十人訳の英語訳をみると「This is the book of the generation of heaven and earth, when they were made [or, it took place],」で、フランス語訳は「Voilà le livre de la naissance du ciel et de la terre, telle qu'elle s'accomplit,」。つまり αὕτη を英語だと this、フランス語だと voilà って訳してるわけだけど、this は「つぎにのべること」もさすし、that とおんなじように「すでにのべたこと」もさすから、英語のほうはどっちともいえない。でもフランス語の voilà は はっきり「以上が…だ」ってことで「すでにのべたこと」をさす。やっぱりこの解釈が順当だろう。

2007.05.18 kakikomi; 2012.08.01 kakinaosi

|

« ユニコードのギリシャ数字と音楽記号と韻律記号 | トップページ | ウェブサイトのギリシャ語原典について »