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『ローマ人の物語Ⅲ』:ラテン語の発音

『勝者の混迷―― ローマ人の物語Ⅲ』(塩野七生[しおの ななみ]著、新潮社、1994)の「参考文献」のとこにラテン語の発音のことがかいてある。ちょっとながいけど、まずその部分を引用する。

ラテン語の場合、発音の問題が残る。つまり、日本ではドイツ式の発音で定着して一世紀が経つが、はたしてそれで妥当なのかという問題だ。
 日本で刊行されているラテン語教習本では、なぜドイツ式の発音でよいのか説明してくれていないので、ラテン語の専門家でない私としては推測するしかないが、日本でドイツ式発音が支配的であるのは、日本の研究者たちのローマ研究がドイツ語から入ったからではないかと思う。また、古代のドイツはローマ帝国の辺境だったので、辺境の地のほうが意外と純粋な形で遺る、という理由もあるかもしれない。それに、古代ローマの研究が伝統的に盛んなのは、ローマ時代ではいずれも辺境の地であった、ドイツとイギリスだということもある。
 しかし、古代ではローマ世界の中心であったイタリアでは、ラテン語はドイツ式には発音しないのである。それには、次の理由がある。
 テープレコーダーは存在しなかったのだから、古代のローマ人が自分たちの言語であるラテン語をどのように発音していたかの、絶対的に正しい定説はない。それでイタリアのラテン語学者たちとて推測するしかないのだが、その根拠は落書にあるという。
 ポンペイの遺跡あたりに残る落書は、落書だから教育水準の高い人よりも、低い人が書き残した可能性のほうが高い。教育水準の低い人はとかく、書き言葉ではなくて話し言葉で書くものだ。それで、これらの落書から発音を推測していくと、ドイツ式発音よりもイタリア式発音であるほうが妥当、という結論に到達したというのが第一の理由。
 理由の第二は、古代ローマ時代から現代にいたるまで続いている唯一の組織はキリスト教会だが、そのキリスト教会で使われてきたラテン語の発音が、ドイツ式ではなくてイタリア式であるという理由だ。聖歌はもちろんのこと、法王の説教でも、ラテン語でなされる場合は、ドイツ語圏に属すポーランド人の現法王でさえイタリア式の発音で話す。
 理由の第三は、言語の響き具合にあるという。
 古代ローマ人の書き遺したラテン語の文章を音読したことのある人ならば、この理由に皆うなずくのではないか。
 みずみずしい感性にあふれるカトゥルスの抒情詩、雄大なヴェルギリウスの叙事詩。上出来の漫才だと私が感心する、プラウトゥスの喜劇。満場をうならせたという、キケロの弁論。見事な太刀さばきを観賞した想いにさせてくれる、明晰他に類を見ないカエサルの文章。
 これらのラテン文をドイツ式発音で音読すると、各所でつっかかってしまって、リズムは崩れるは流れは途絶えるはで、音読することで得られる快感が失われてしまう。
 ちなみに、ドイツ式発音とイタリア式発音をいくつか併記してみると、次のようになる。
         ヴェルギリウス―― ヴェルジリウス
         キケロ―― チチェロ
         カエサル―― チェーザル
         マグナ・グレキア―― マーニャ・グレチア
         プロヴィンキア―― プロヴィンチア
         ケントゥリア―― チェントゥリア
         ムニキピア―― ムニチピア
         スキピオ―― シピオ
 中世イギリスの「大憲章」で日本ではマグナ・カルタと呼ばれているものも、これではドイツ式発音で、イタリア式だとマーニャ・カルタとなる。
 上記のように言葉一つを取り出すだけならば、発音のちがいはたいした問題ではないように見える。だが、文章とは、言葉の連続なのだ。その場合、リズムなり流れなりは、当時のラテン語の普及度から考えても、無視してすむ問題ではないと、私ならば思う。

まず、ここでいってる「ドイツ式発音」っていうのがよくわかんない。「日本で刊行されているラテン語教習本」は「ドイツ式発音」をおしえてるそうだから、たぶん古典式発音のことをいってるんだろう……っておもって よみすすめると、引用した最後のほうにでてくる「ドイツ式発音」の例は古典式とはちょっとちがってる。ここでいう「ドイツ式発音」と古典式発音を「いくつか併記してみると、次のようになる」(ひとつめがこの本の「ドイツ式」、ふたつめが古典式で、3つめにドイツ語式もあげておく)。
  ヴェルギリウス―― ウェルギリウス―― ヴェルギーリウス
  キケロ―― キケロー―― ツィーツェロ
  カエサル―― カエサル―― ツェーザル
  マグナ・グレキア―― マーグナ・グラエキア―― マグナ・グレーツィア
  プロヴィンキア―― プローウィンキア―― プロヴィンツィア
  ケントゥリア―― ケントゥリア―― ツェントゥーリア
  ムニキピア―― ムーニキピア―― ムニツィーピア
  スキピオ―― スキーピオー―― スツィーピオ
こうなると、この「ドイツ式発音」っていうのは古典式じゃなくてあくまで「ドイツ式」なのかもしれないけど、それにしてもドイツ語式ともちがってる。中途半端な古典式っていうのか…。これはドイツの(ちょっとふるい)古典式なのかな。ただそうだとしても、こんなよみかた「日本で刊行されているラテン語教習本」のどこにかいてあるっていうんだろ。「日本で刊行されているラテン語教習本」をちゃんとよまないで、こんなこといってるとしかおもえない。ドイツ人宣教師がおしえるラテン語の発音に反対してるイタリア人(そういうことがあるとすれば)のいうことをウのみにしてるだけだったりして。それに、この「ドイツ式」は「カエサル(Caesar)」の ae は「アエ」ってよんでるのに、「グレキア(Graecia)」の ae は「エ」ってよんでるのもおかしい。

つぎに、ほんとによくある ありふれた いいぐさがでてくる。「テープレコーダーは存在しなかったのだから、古代のローマ人が自分たちの言語であるラテン語をどのように発音していたかの、絶対的に正しい定説はない」。まあそりゃそうだろうけど、実用的に問題ない程度にはわかってるわけで、古典式発音としてはそれでいいんじゃないかな。たとえば日本語のアとドイツ語の a とフランス語の a とイタリア語の a はこまかくいえばビミョーにちがうわけで、ラテン語の a がどうだったのかも、そこまでくわしくはわからないかもしれない。でもラテン語の a が「ア」の一種だってことははっきりしてるし、実用的にはそれで十分だろう。それに、かりにこまかいとこまでわかってるとしても、日本語のはなし手がラテン語の a を発音したら日本語のアになっちゃうだろうし、それでとくに問題はおこらない。だいたい現代のほかのことばを発音するとしてもおんなじことになるだろうから、そういうばあいとかわりはない。

「絶対的に正しい定説」なんていうんなら、ひとつだけはっきりしてることがある。それは、むかしのラテン語の発音はイタリア式発音とはちがってた、ってことだ。これは「絶対的に正しい定説」っていっていいだろう。それなのに、なんでこの「絶対的に正しい定説」を無視してイタリア式でよまなきゃいけないんだ?

ここにでてくるイタリア式がいいっていう理由もなんかおかしい(どれもイタリア人らしい いいぶんだけど)。ここでいってるラテン語はあくまで古典作品のラテン語、つまり古典ラテン語、ってことは かきことばのラテン語ってことになるとおもうけど、それをなんで落がきからわかる はなしことばの発音でよまなきゃいけないんだろ。それからキリスト教会はイタリア式によんでるっていうけど、イタリア以外のカトリック教会はどうなんだっていいたい。だいたい教会のラテン語は古典ラテン語じゃなくて教会ラテン語だ。これをイタリア式つまりローマ式によむのに反対するつもりはまったくないけど、カトリックでもイタリア人でもない人間が古典ラテン語をイタリア式でよまなきゃいけないとはおもわない。

さらにおかしいのは3つめの理由だ。このひとは作家らしくっていうのか「言語の響き具合」をもちだしてる。まずは自分の意見としてじゃないふうにいいだしてるけど、自分で音読した印象にもとづいた意見でもある。で、イタリア式とちがって、「ドイツ式発音で音読すると、各所でつっかかってしまって、リズムは崩れるは流れは途絶えるはで、音読することで得られる快感が失われてしまう」らしいんだけど、これってちゃんとした比較になってるのかな。そもそも なれってことがあるだろう。このひとはたぶんイタリア式発音には なれてるんだろうけど、ドイツ式には なれてないんだろう。だからこそ なめらかによめないってこともあるんじゃないのかな。

ただそれにしても、イタリア式にくらべてドイツ式のほうがゴツゴツした つっかかるような印象なのはたしかだろう。イタリア語とドイツ語をききくらべてみればそういう感じがする。でも、だからって、なめらかなほうが古典ラテン語の発音だとはかぎらないじゃないか。むかしのラテン語からいまのイタリア語には発音しやすいようにかわってきたわけで、そのことからすれば、ラテン語はイタリア語よりもゴツゴツした感じだったはずだ。だからドイツ式のほうがむかしのラテン語にちかいんじゃないかってかんがえてもおかしくない。

ちょっとこまかいことをいえば、引用文のなかにでてくる例で「マグナ」ってことばがある。これは magna (おおきい)で、イタリア式なら[マーニャ/マンニャ]、ドイツ式なら[マグナ]、古典式なら[マーグナ]ってよむから、イタリア式のほうがやわらかい感じがする。ただしそこらの古典式じゃなくって、もっとこまかく復元した発音でいえば、magna の g は鼻音で、[ɡ]じゃなくて[ŋ]だ。鼻濁音をつかって「マーク゚ナ」ってかけば、すこしこの発音にちかくなるだろう。もっといえば、どっちかっていうと「マーンナ」にきこえるかもしれない。こういうふうに鼻音で発音すればドイツ式よりもなめらかな感じになる。発音のことをいうんなら、こういうことぐらいかんがえにいれて ものをいってほしいとおもうんだけど。

で、「文章とは、言葉の連続なのだ。その場合、リズムなり流れなりは、当時のラテン語の普及度から考えても、無視してすむ問題ではないと、私ならば思う」ってことで、「リズムは崩れるは流れは途絶えるは」ってことにはならないイタリア式がいいっていうわけだけど、こんなふうに文章の「リズムなり流れなり」が大事だっていってるくせに、重要なことを無視してる。それは、韻律だ。「みずみずしい感性にあふれるカトゥルスの抒情詩、雄大なヴェルギリウスの叙事詩」をイタリア式でよむと、「リズムなり流れなり」がよくなって、「音読することで得られる快感」にひたれるらしいんだけど、韻律を無視して抒情詩とか叙事詩のことをいわれても…。

韻律を無視することになる原因は、イタリア式発音にある。それから、この本でいってる「ドイツ式」も韻律についてはおんなじことだ。このひとのあげてる例からするとイタリア式も「ドイツ式」も古典ラテン語の母音のながさを無視してる。そのせいでどっちの発音でよんでも古典の詩の韻律はなくなっちゃう。こうやって韻律を無視して音読しておきながら、リズムだなんだっていってるのは、なんなんだろ。韻律のことをかんがえたら、やっぱり古典式でよまなきゃしょうがないとおもうんだけど、どうしてもイタリア式がいいっていうんなら、抒情詩とか叙事詩をもちだして文章のリズムだなんだっていってほしくない。それに韻文じゃなくたってラテン語の文章のリズムは音節のながさからうまれるものなんだから、古典式でよまなきゃ散文だってもともとのリズムはわからないんだし。

まあ、イタリア人がイタリア式発音でラテン語をよんだり、イタリアにすんでるらしいこの著者がイタリア式発音でよむのは勝手だけどね。

ちなみに、イタリア語っていうのはラテン語が変化してできたロマンス語のひとつで、要するにイタリア語は 現代ラテン語 のひとつだし、ラテン語はイタリア人の古文だから、イタリア式発音とラテン語の関係は、現代ギリシャ語式発音と古典ギリシャ語(古代ギリシャ語)の関係にもあてはまる。

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2007.11.06 kakikomi; 2016.06.16 kakinaosi

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