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「オンブラ・マイ・フ」
クセルクセースに愛されたプラタナス

ヘンデル(1685-1759)のオペラ《セルセ》(Serse、1738年初演)の最初の場面にでてくるアリオーソ「オンブラ・マイ・フ」は、ヘンデルの曲のなかでもいちばん有名なもののひとつだろう。歌詞はイタリア語で、

Ombra mai fù
Di vegetabile
Cara ed amabile
Soave più.

オンブラ マイ フ
ディ ヴェジェタービレ
カーラ エダマービレ
ソアーヴェ ピュ。

こんなにも いとしく愛らしく
気もちのいい
木陰は
いままでになかった。

っていう、これだけのみじかいもので、この歌詞が3回くりかえされる(そのほかにフレーズのくりかえしが2回)。fù はいまのイタリア語の正書法だとアクセント記号をつけないけど、当時はつけてたみたいだから、そのまんまにしとく。

この歌詞が2行にかいてあるのをよくみかける。でも、それだと脚韻がわかんなくなるとおもう。1行目と4行目の -ù、2行目と3行目の -abile がそれぞれ脚韻をふんでて、abba って形式になってるんだから、4行にかいたほうがいいはずだ。マルゴワール指揮の CD(SM3K 36 941)の解説書でも4行になってる。

ここの場面は主役のセルセがプラタナスの木にむかってかたりかけてるとこなんだけど、セルセ(Serse)っていうのはペルシャ帝国の王クセルクセースのことで、イタリア語だ。でもってクセルクセース(Ξέρξης [ksérksɛːs])っていうのはギリシャ語で、もともとは古代ペルシャ語でフシャヤールシャン(Xšayāršan)っていうらしい。でも、とりあえずここじゃクセルクセースにしとく。

このアリオーソの下じきになってるのはボノンチーニ(Giovanni Bononcini、1670-1747)の曲で、ボノンチーニはヘンデルのオペラのライバルだった。もともと愛の歌だったのが、ここじゃペルシャの王が木にむかって愛情をうたいあげる内容になってる。「ヘンデルのラルゴ」っていわれることもあるけど、ほんとはラルゲットで、アリオーソなのにアリアっていわれることもある。

《セルセ》ってオペラは喜劇調の作品で、実際のクセルクセースとはあんまり関係ないはなしになってる。でも、ところどころ史実っていうか古典からとったエピソードがつかわれてて、たとえば、ヘッレースポントス海峡(=ダーダネルス海峡。トルコ語でチャナッカレ海峡)にかけた橋があらしでこわされるとことかがでてくるし、このプラタナスのはなしも古典にある。

ヘーロドトス(紀元前485年ごろ-430年以降)の『歴史』(7.31)によると、クセルクセースはプリュギアーからリューディアーにはいって、首都サルデイスにむかう途中、

ταύτην ἰὼν ὁ Ξέρξης τὴν ὁδὸν εὗρε πλατάνιστον, τὴν κάλλεος εἵνεκα δωρησάμενος κόσμῳ χρυσέῳ καὶ μελεδωνῷ ἀθανάτῳ ἀνδρὶ ἐπιτρέψας δευτέρῃ ἡμέρῃ ἀπίκετο ἐς τῶν Λυδῶν τὸ ἄστυ.

クセルクセースがその道をすすんでいくと、プラタナスをみつけた。みごとな木だったので、この木に黄金の飾りをさずけ、不死身の兵隊のひとりを番人としてのこして、2日目にリューディアー人たちの都についた。

「不死身の兵隊」っていうのはペルシャ軍の精鋭部隊のことなんだけど、プラタナスについてヘーロドトスにでてくるはなしとしてはたったこれだけのみじかいものだ。もっとくわしいはなしはアイリアーノス(2世紀後半-3世紀)の『ギリシャ奇談集』(2.14)にある。

 ゼウスの造られた海や陸を侮辱し、新しい道を作り前代未聞の渡海を行なう一方で、プラタナスに仕える身になり下がり、樹木を崇拝したとは、クセルクセースも笑うべき男である。言い伝えによると、彼はリューディアーの地でプラタナスの大樹を見て、何の用もないのに終日その場を去らず、この木のほとりの無人の荒野で宿営した。さらに、高価な飾りを木に懸け、首飾りや腕輪で枝々を荘厳しょうごんなどして、世話係まで残していったのは、寵姫に見張りや警護をつけるのと変りがなかった。しかし、これによってどれほどの美しさが木に付け加わったというのか。飾りは後からの添加物で少しも似合わず、ただ空しくぶら下がっているだけであり、木をえさせるのに全然役に立っていない。けだし樹木の美しさというのは、品の良い枝ぶり、よく繁った葉、堅固な幹、地中深く下ろした根、樹木を吹き抜ける風、広やかな木蔭、季節のめぐり、水路を走る養いの水と天からのうるおいの雨、こういったものなのだから。クセルクセースのマントや異国の王の黄金やその他の贈物は、プラタナスにとってもその他の木にとってもいっこうに貴重なものではなかったのである。
(アイリアノス『ギリシア奇談集』、松平千秋・中務哲郎訳、岩波文庫。表記を一部かえた)

むかしからプラタナスの一件はこんなふうにいわれてたわけだ。こんなエピソードだから、この場面を最初におくことで、セルセがそれほどまともな人物じゃないっていうのをまず観客に印象づけることになったのかもしれない。

クセルクセース:クセルクセス。 ヘッレースポントス:ヘレースポントス、ヘッレスポントス、ヘレスポントス。 ヘーロドトス:ヘロドトス。 プリュギアー:プリュギア。 リューディアー:リュディア。

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2007.12.12 kakikomi; 2012.10.03 kakikae

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