« ほうき星 | トップページ | ブラバツキー夫人 »

《チゴイネルワイゼン》と“ツァ行”

《チゴイネルワイゼン》は、スペインの作曲家でバイオリン奏者のサラサーテ(Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz、1844-1908)が1878年に作曲して初演した曲だけど、この題名はドイツ語の Zigeunerweisen [ツィゴイナーヴァイゼン]で「ジプシーのメロディー」っていう意味だ。

最近だとこの曲を《ツィゴイネルワイゼン》ってかいてるのをみかけることがある。映画の題名にも「ツィゴイネルワイゼン」っていうのがあった。でも、こういうふうに なおさなきゃいけないもんかなあ。

ドイツ語の発音になるべくちかづけるんなら「ツィゴイナーヴァイゼン」になるだろう。でもこういうのは、ドイツ語の発音のことはかんがえてても、日本語の発音のことはかんがえてないとおもう。ドイツ語はしってても、日本語のことはしらないっていうか自覚がないっていうか、そんな感じだ。外国語の入門書なんかで外国語の発音を発音記号のかわりにカタカナであらわそうっていうんならべつだけど、外来語とかをカタカナでかくばあいは、やっぱり日本語としての発音をかんがえなきゃしょうがないとおもう。

「チゴイネルワイゼン」と「ツィゴイナーヴァイゼン」のちがいは3か所ある。「チ」と「ツィ」、「ネル」と「ナー」、「ワ」と「ヴァ」の3つだ。「ネル」と「ナー」のちがいは日本語の問題じゃないからべつとして、のこりのふたつだけど、「ヴァ」については日本語としては「ヴ」はつかわないほうがいいってことをまえにかいたから(「ヴ」のつかいかた」)、いまは「チ」と「ツィ」についてかんがえてみることにする。

外来語に「ティ」「トゥ」「ディ」「ドゥ」はけっこうにつかわれてるけど、「スィ」「ツィ」ははるかにすくないとおもう。「スィ」じゃなくてたいていは「シ」だし、「ツィ」についても「チ」のほうがおおい。「ツィ」は「スィ」と同類だ。これには理由がある。

かりに ツァ行 ってものをかんがえるなら、「ツァ・チ・ツ・ツェ・ツォ」になる。「ツェ」は外来語以外にはないとおもうけど、「ツァ」と「ツォ」は標準語じゃなけりゃ「おとっつぁん」(おとうさん)とか「ごっつぉう」(ごちそう)なんてのがある。それから「チ」が「ツィ」にならないのはサ行の「シ」が「スィ」じゃないのとおんなじことで、イ段の子音は母音の影響でみんなすこしちがってる。ヘボン式ローマ字のつづりだと このちがいは shi chi ji ぐらいしかわかんないけど、ほかにも「キ[kʲi]」「ギ[gʲi]」「ニ[ɲi]」「ヒ[çi]」あたりはそれなりにはっきりしてるほうだとおもう(「ビ[bʲi]」「ピ[pʲi]」「ミ[mʲi]」「リ[ɽʲi]」とくらべれば)。

ただしイ段の子音のちがいは音声のちがいで音素のちがいじゃない。つまり日本語の発音の体系としてはイ段の子音はほかの段の子音とおんなじだから、訓令式ローマ字ならイ段の子音だけを区別してかいたりはしない(「シ」「チ」「ジ」は si ti zi)。これを shi chi ji みたいにかきわけるんだったら、イ段を全部そうすりゃいいのに、ヘボン式は中途半端に一部しか区別してない。子音が英語式だからだ。

タ行・ダ行についてもいえば、いまの日本語の発音だとタ行・ダ行には ツァ行・ザ行がまじってる。純粋なタ行・ダ行は「タ・・テ・ト」「ダ・・デ・ド」だけで、あいてるとこには ツァ行・ザ行の「チ・ツ」「ジ・ズ」がはいる(「ヂ・ヅ」は「ジ・ズ」とおんなじ音)。タ行・ダ行を服部四郎の新日本式ローマ字(ローマ字のつづり」)でかけば ta ci cu te to、da zi zu de do になるから(ダ行は訓令式とおんなじ)、このあたりのことがはっきりしてるし、タ行とダ行の対応もわかりやすい。

ただしこの対応だと、タ行の濁音がダ行なのは当然だとして、ツァ行 の濁音がザ行になってるのがちょっとひっかかるかもしれない。こうなるのは日本語に[z]と[dz]の区別がないからだ。ちょっとかんがえると「サ[sa]」の濁音は「ザ[za]」で、「ツァ[tsa]」の濁音は「ヅァ[dza]」みたいだけど、実際には「ザ」の発音には[za]も[dza]もあって、日本語の音としては[z]と[dz]はおんなじものだから(音声としてはちがってても音素としてはおんなじ)、サ行の濁音も ツァ行 の濁音もザ行になる。

で、いまのタ行・ダ行には「ティ」「トゥ」「ディ」「ドゥ」(新日本式で ti tu di du)がぬけてるから、その あきま に外来語の「ティ」「トゥ」「ディ」「ドゥ」がはいりやすかった。でも、これとちがってサ行・ツァ行 には「スィ」「ツィ」ははいりにくい。サ行・ツァ行 を新日本式でかけば sa si su se so、ca ci cu ce co で(サ行は訓令式とおんなじ)、サ行・ツァ行 にべつの行はまじってなくて、si ci は「シ」「チ」だから、「スィ」「ツィ」がはいりこめる あきま はない。だから「スィ」とおんなじで、「ツィ」は外来語とかの音としてつかいにくいってことがわかる。

ツァ行 についてつけくわえると、ツァ行 は「ツァ・チ・ツ・ツェ・ツォ」って上にかいたけど、「ツェ」が外来語にしかつかわれないとすると、もともとのいまの日本語の ツァ行 は、標準語だけにかぎらないとすれば、「ツァ・チ・ツ・・ツォ」ってことになる。このばあい「ツェ」のとこに あきま があって、そこに外来語用の「ツェ」がはいりこめるから、「ツェ」は「スィ」「ツィ」よりはつかいやすいってことになるだろう。それから標準語ってことだと、ツァ行 は「・チ・ツ・」ってことになりそうだし、「ツァ」「ツォ」も「おとっつぁん」「ごっつぉう」みたいのだけしかないなら、いまの日本語にもともとあるのは「ツァ」「ツォ」じゃなくて「ッツァ」「ッツォ」なのかもしれない。「モーツァルト」は有名な名まえだけど、「モー・ツァ・ル・ト」じゃなくて「モー・ツ・ア・ル・ト」って発音をきくことがあるから、「ツァ」はどっちかっていえばいいにくいほうなんだろう。

はなしを《チゴイネルワイゼン》にもどすと、上にかいた日本語の発音のことをかんがえにいれて、ドイツ語の[ツィゴイナーヴァイゼン]をもとにするとすれば、この曲の題名は《チゴイナーワイゼン》ってことになるだろう。ただし、これはいまのドイツ語の標準発音にもとづいたばあいのことだ。この曲ができた19世紀の発音のことをかんがえるんなら、はなしはちょっとちがってくる。

Zigeunerweisen はいまの標準発音なら[ツィゴイナーヴァイゼン]だけど、19世紀の標準発音、つまり舞台発音だと[ツィゴイネルヴァイゼン]だった。当時もふだんの発音なら[ツィゴイナーヴァイゼン]って感じだっただろうけど、舞台発音はちがってた。だから当時の舞台発音にもとづいて(日本語の発音もかんがえにいれて)カタカナがきすると《チゴイネルワイゼン》ってことになる。これだと結局むかしからのかきかたとおんなじだ。

で、《チゴイネルワイゼン》か《チゴイナーワイゼン》かだけど、日本語としてはどっちでもかまわない。どっちのドイツ語の発音をとるかってことだ。ただこれも、とくにどっちじゃなきゃいけないってこともないとおもうから、結局どっちでもいいってことになるだろう。だから、まあ、むかしからつかわれてる《チゴイネルワイゼン》をかえる理由はとくにないんじゃないかな。

関連記事
 ・「ヴ」のつかいかた
 ・「オシム」は「オスィム」?
 ・ウーマン、ウール
 ・「シェークスピア」か「シェイクスピア」か
 ・日本語のローマ字つづり
 ・ローマ字のつづり
 ・外来語のローマ字つづり

2008.01.21 kakikomi; 2009.06.21 kakinaosi

|

« ほうき星 | トップページ | ブラバツキー夫人 »