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9柱のムーサ

学芸の女神ムーサ(Μοῦσα [mûːsa]、複数: Μοῦσαι [mûːsai ムーサイ])はたいてい9柱[はしら]ってことになってるけど、もともと人数も役わりもきまってなかった。この人数がひろまったのはヘーシオドスが9柱にまとめてからのことだ。それぞれの担当についてはローマ時代もけっこうあとになってからわりあてられるようになったけど、厳密にきまったものでもなかった。それからゼウスとムネーモシュネー(Μνημοσύνη [mnɛːmosýnɛː ムネーモスュネー]「記憶」)のむすめってことになってるけど、両親についてもちがう神話がある。

とりあえずまずはヘーシオドスの『神統記』で名まえがでてくるとこをみてみよう(76-79行)。韻律は叙事詩だからヘクサメトロス(古代ギリシャの韻律:ヘクサメトロス」)。

ἐννέα θυγατέρες μεγάλου Διὸς ἐκγεγαυῖαι,
Κλειώ τ᾿ Εὐτέρπη τε Θάλειά τε Μελπομένη τε
Τερψιχόρη τ᾿ Ἐρατώ τε Πολύμνιά τ᾿ Οὐρανίη τε
Καλλιόπη θ᾿· ἣ δὲ προφερεστάτη ἐστὶν ἁπασέων.

[ennéa tʰyːɡatéres meɡáluː diós eɡɡeɡaŷijai
kleːɔ̌ːt eutérpɛːte tʰáleːáte melpoménɛːte
terpsikʰórɛːt eratɔ̌ːte polýmniát uːraníɛːte
kalliópɛːtʰɛ̌ː dé ppropʰerestáte estín hapaːɔːn]

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偉大なゼウスからうまれた9柱の娘たち、
クレイオーとエウテルペーとタレイアとメルポメネーと
テルプシコレーとエラトーとポリュムニアとウーラニアーと
カッリオペー。カッリオペーはこのなかで もっともひいでている。

ギリシャ語のムーサはラテン語にはいって Musa [ムーサ](複数: Musae [ムーサエ])になって、それからイタリア語の Musa [ムーザ/ムーサ](複数: Muse [ムーゼ/ムーセ])とかフランス語の Muse [ミューズ](複数: Muses [ミューズ])になった。さらにフランス語から英語にはいって Muse [ミューズ](複数: Muses [ミューゼズ])になったし、ドイツ語にはラテン語からはいって Muse [ムーゼ](複数: Musen [ムーゼン])になった。複数のかたちはみんなそれぞれのことばの複数形になってる。日本じゃ英語の「ミューズ」がけっこうつかわれてる。

つぎにそれぞれのムーサについてざっとみてみよう。担当の分野と もちものは ずいぶんあとの時代になってからのものだし、完全にきまってるわけでもないから、あくまでも一例ってことになるけど、とりあえず代表的なものをあげてみた。

クレイオー
 ギリシャ語: Κλειώ [kleːɔ̌ː クレ~オー]
 ラテン語: Clio [クリーオー]
 イタリア語: Clio [クリーオ]
 フランス語: Clio [クリヨ]
 英語: Clio [クリーオウ/クライオウ]
 ドイツ語: Klio [クリーオ]
名まえの意味は「ほめたたえる女」ってことで、κλέω [kléɔː クレオー](ほめたたえる、ひろく世にしらせる)っていう動詞(叙事詩のかたちは κλείω [klěːɔː クレ~オー])からきてる。歴史を担当してて、まきものか まきものいれをもってたり、本箱のよこにすわってたりする。「ほめたたえて世にしらせる」ってとこが歴史なのかな。

エウテルペー
 ギリシャ語: Εὐτέρπη [eutérpɛː エウテルペー]
 ラテン語: Euterpe [エウテルペー]
 イタリア語: Euterpe [エウテルペ]
 フランス語: Euterpe [ウテルプ]
 英語: Euterpe [ユーターピー]
 ドイツ語: Euterpe [オイテルペ]
名まえの意味は「おおいによろこばせる女」ってことで、εὖ [êu エウ](よく、すばらしく)と τέρπω [térpɔː テルポー](たのしませる、よろこばせる)からきてて、εὐτερπής [euterpɛ̌ːs エウテルペース](こころをよろこばせる、魅惑的な)っていう形容詞とも関係がある。担当は叙情詩と音楽っていうのもあるし、おどりっていうのもあって、笛をもってる。叙情詩はいまみたいに目でよむ詩じゃなくて、うたうものだったから、要するに歌のこと。

タレイア
 ギリシャ語: Θάλεια [tʰáleːa タレ~ア]
 ラテン語: Thalia [タリーア]
 イタリア語: Talia [タリーア]
 フランス語: Thalie [タリ]
 英語: Thalia [サリア/セイリア]
 ドイツ語: Thalia [タリーア]
θάλεια [タレ~ア]ってことばは θάλλω [tʰállɔː タッロー](花ひらく、芽をふく、さかりである、ゆたかである)っていう動詞からきてて、「はなやかな、ゆたかな、あふれるような」「ごちそう、宴会」っていう意味だから、この名まえは「はなやかな女」ってことになるだろう。担当は喜劇で、牧歌もあてられることがある。喜劇用の仮面をもってたり、ヒツジかいの杖をもってたり、ツタの冠をかぶってたりする。

メルポメネー
 ギリシャ語: Μελπομένη [melpoménɛː メルポメネー]
 ラテン語: Melpomene [メルポメネー]
 イタリア語: Melpomene [メルポーメネ]
 フランス語: Melpomène [メルポメーヌ]
 英語: Melpomene [メルポマニー]
 ドイツ語: Melpomene [メルポーメネ]
名まえの意味は「うたいおどる女」ってことで、μέλπω [mélpɔː メルポー](うたいおどる、うたう、うたいおどって たたえる)っていう動詞からきてる。担当は悲劇で、悲劇用の仮面をもってたり、κόθορνος [kótʰornos コトルノス](ラテン語だと cothurnus [コトゥルヌス])っていう悲劇役者用のあみあげの長靴をはいてたり、ブドウの冠をかぶってたりする。

テルプシコレー/テルプシコラー
 ギリシャ語: Τερψιχόρη [terpsikʰórɛː テルプスィコレー]/Τερψιχόρα [terpsikʰóraː テルプスィコラー]
 ラテン語: Terpsichore [テルプスィコレー]
 イタリア語: Tersicore [テルスィーコレ]
 フランス語: Terpsichore [テルプスィコール]
 英語: Terpsichore [タープスィカリー]
 ドイツ語: Terpsichore [テルプスィーヒョレ]
『神統記』には Τερψιχόρη [テルプスィコレー]っていうイオーニアー方言のかたちで でてくるけど、古典ギリシャ語(古代ギリシャ語)の代表のアッティカ方言なら Τερψιχόρα [テルプスィコラー]になる。プラトーンの作品なんかにもこのアッティカ方言のかたちがでてくる。ところがその後なぜか Τερψιχόρη [テルプスィコレー]のほうがふつうになったみたいで、アポッロドーロスの『ビブリオテーケー(ギリシャ神話)』でも「テルプシコレー」になってるし、ラテン語にもこのかたちがはいって、近代西洋語にもこれがうけつがれた。名まえの意味は「おどりと合唱をたのしむ(よろこぶ)女」ってことで、τερψίχορος [terpsíkʰoros テルプスィコロス](歌舞をよろこぶ)っていう形容詞の女性形。この形容詞は τέρψις [térpsis テルプスィス](たのしみ、よろこび、享受)と χορός [kʰorós コロス](おどり、歌舞、合唱舞踊[隊]、コロス)の複合語。「おどりと合唱」っていっても これはひとつのもので、コロスっていうのは おどりながらうたうものだった。このギリシャ語のコロスがラテン語の chorus [コルス]になって、けっきょく英語の chorus になったんだけど、コーラスは歌だけなのに対して、コロスはおどりもおどる。名まえにコロスがはいってるぐらいだから担当はコロスで、よく合唱隊叙情詩と舞踊が担当だとかかいてあるけど、これはふたつのものじゃなくてコロスっていうひとつのものだ。コロスの文学としての部分つまり歌詞だけをとりだせば合唱隊叙情詩ってことになるけど、これももちろん目でよむ詩じゃなくて歌だった。メルポメネーのもちものとしてはタテ琴があるけど、それだけじゃなくてタテ琴をひくツメをもってることもある。

エラトー
 ギリシャ語: Ἐρατώ [eratɔ̌ː エラトー]
 ラテン語: Erato [エラトー]
 イタリア語: Erato [エラート]
 フランス語: Érato [エラト]
 英語: Erato [エラトウ]
 ドイツ語: Erato [エラート/エーラト]
名まえの意味は「愛らしい女」ってことで、ἐράω [eráɔː エラオー](愛する)っていう動詞からきてる ἐραστός [erastós エラストス](愛すべき、愛らしい)の叙事詩のかたち ἐρατός [eratós エラトス]と関係がある。担当は恋愛詩とか独吟叙情詩とかいわれてるけど、これは合唱隊叙情詩みたいにコロスがうたいおどるもんじゃなくて、ひとりでうたう歌のことだ。こういうものはとうぜん恋の歌がおおいだろうから、恋愛詩があてはめられたのは名まえの意味からよくわかる。

ポリュムニア/ポリュヒュムニア
 ギリシャ語: Πολύμνια [polýmnia ポリュムニア]
 ラテン語: Polymnia [ポリュムニア]/Polyhymnia [ポリュヒュムニア]
 イタリア語: Polimnia [ポリムニア]
 フランス語: Polymnie [ポリムニ]
 英語: Polymnia [ポリムニア]/Polyhymnia [ポリヒムニア]
 ドイツ語: Polymnia [ポリュムニア]/Polyhymnia [ポリュヒュムニア]
名まえの意味は「賛歌をたくさんもってる女」ってことで、Πολυ-ύμνια [poly-(h)ýmnia ポリュ・ユムニア(ヒュムニア)]がみじかくなったものだ。πολύς [polýs ポリュス](たくさんの)と ὕμνος [hýmnos ヒュムノス](賛歌)の複合語で、ラテン語にはみじかくなるまえのかたちもはいってる。[h]の音をあらわす有気記号がついてる単語が複合語のうしろの部分になると有気記号はなくなるんだけど、ラテン語にはいるときは Polyhymnia みたいに h がのこってることがけっこうある(このことから、つづりとしては有気記号はなくなってもばあいによっては[h]の音がのこってたともいわれてる)。名まえに「賛歌」がはいってるぐらいだから担当は(宗教的)賛歌とか聖歌っていわれてて、ものおもいにしずんだすがたであらわされる。

ウーラニアー
 ギリシャ語: Οὐρανία [uːraníaː ウーラニアー]
 ラテン語: Urania [ウーラニア]
 イタリア語: Urania [ウラーニア]
 フランス語: Uranie [ユラニ]
 英語: Urania [ユ(ア)レイニア]
 ドイツ語: Urania [ウラーニア]
『神統記』には Οὐρανίη [uːraníɛː ウーラニエー]っていうイオーニアー方言のかたちで でてくるけど、アッティカ方言だと Οὐρανία [ウーラニアー]になる。名まえの意味は「天の女」で、οὐρανός [uːranós ウーラノス](天)の形容詞 οὐράνιος [uːránios ウーラニオス](天の、天からの、天にすむ)の女性形。名まえのとおり担当は天文で、天球儀を棒でさししめしてるすがたであらわされる。

カッリオペー/カッリオペイア
 ギリシャ語: Καλλιόπη [kalliópɛː カッリオペー]/Καλλιόπεια [kalliópeːa カッリオペ~ア]
 ラテン語: Calliope [カッリオペー]/Calliopea [カッリオペーア]
 イタリア語: Calliope [カッリーオペ]
 フランス語: Calliope [キャリヨプ]
 英語: Calliope/Kalliope [カライアピー]
 ドイツ語: Kalliope [カリーオペ]
名まえの意味は「声のうつくしい女」「うつくしい声をもってる女」ってことで、καλλι- [kalli- カッリ](うつくしい)と ὄψ [óps オプス](声、語幹は ὀπ- [op])の複合語。「カッリオペー」のほかに「カッリオペイア」ってかたちもある。担当は叙事詩で、かき板とせん筆〔尖筆[せんぴつ]〕をもってる(文字を「かく」」)。まきものとかタテ琴をもってるばあいもある。『神統記』の文章をいちおう「カッリオペーはこのなかでもっともひいでている」って訳したけど、岩波文庫(廣川洋一訳)の訳は「みんなのなかで第一等の位にある」になってる。ここは「いちばん年上」って解釈されてたこともあった。

ところで、ヘーロドトスの『歴史』は、いまつたわってるかたちだと全部で9巻にわかれてて、それぞれにムーサの名まえがついてる。

第1巻 クレイオー
第2巻 エウテルペー
第3巻 タレイア
第4巻 メルポメネー
第5巻 テルプシコレー
第6巻 エラトー
第7巻 ポリュムニア
第8巻 ウーラニアー
第9巻 カッリオペー

でも、これはヘーロドトスがこういうふうにしたわけじゃなくて、アレクサンドリア時代の校訂者がおもいついたことだっていわれてる。それにしても、ムーサはどういうふうにわりあてたんだろ。第1巻のクレイオーは歴史の女神だから、最初にあるのはちょうどいい感じだけど、ムーサの順番をみてみると『神統記』にでてくるのとおんなじだから、その順序にあてはめただけなのかもしれない。だいたい、クレイオーが歴史担当っていうのはもっとあとの時代のはなしだから、歴史の女神が最初なのはたんなる偶然ってことになるのかな。 

巻の名まえにムーサをつかってる作品がほかにもある。ゲーテの叙事詩『ヘルマンとドロテーア』だ。岩波文庫の佐藤通次訳だと各巻の題名はこうなってる(ムーサの名まえ以外のドイツ語の原文もつける)。

第1歌 カリーオペの巻(運命と同情) Schicksal und Anteil
第2歌 テルプスィーヒョレの巻(ヘルマン) Hermann
第3歌 タリーアの巻(町びと) Die Bürger
第4歌 オイテルペの巻(母と子) Mutter und Sohn
第5歌 ポリュヒュムニアの巻(四海の友) Der Weltbürger
第6歌 クリーオの巻(時世) Das Zeitalter
第7歌 エラートの巻(ドロテーア) Dorothea
第8歌 メルポーメネの巻(ヘルマンとドロテーア) Hermann und Dorothea
第9歌 ウラーニアの巻(末の望) Aussicht

この翻訳だとムーサの名まえがドイツ語よみになってるけど、これってどうなんだろ。いくらドイツ語の作品だからって…。ほかのドイツ文学の訳でも「ゼウス」がドイツ語よみの「ツォイス」になってたり、「オルペウス」が「オルフォイス」になってたりするんだけど、「ツォイス」が「ゼウス」のことだなんてドイツ語をしらなきゃまったくわかんないだろう。

それはともかく、各巻のなかみとムーサのわりあてはどうなってるのかな。最初が叙事詩の女神になってるのは、叙事詩だから当然か。それから、第6歌の「時世」っていうのも歴史の女神にちょうどいいのかもしれない。第9歌の Aussicht [アウスズィヒト]っていうのは「みとおし、みこみ」ってことで、訳注には「Urania は星学の女神であるから、遠い行末まで眼を向ける。また真実の愛をつかさどる女神であるから、二人の縁の成就を祝うこの歌章にふさわしい」ってかいてある。

音楽のほうにもムーサの名まえをつかった作品がある。バロック時代のドイツの作曲家フィッシャー(Johann Caspar Ferdinand Fischer、1670ごろ-1746)の《音楽のパルナッソス山》(Musicalischer Parnassus)っていうチェンバロの組曲集で(Musicalischer はむかしのつづりで、いまなら Musikalischer)、9つの組曲にそれぞれムーサの名まえがついてる。

組曲 第1番 ハ長調 クレイオー
組曲 第2番 ト長調 カッリオペー
組曲 第3番 イ短調 メルポメネー
組曲 第4番 変ロ長調 タレイア
組曲 第5番 ホ短調 エラトー
組曲 第6番 ヘ長調 エウテルペー
組曲 第7番 ト短調 テルプシコレー
組曲 第8番 ニ長調 ポリュムニア
組曲 第9番 ニ短調 ウーラニアー

このなかで第9番の最後の「パッサカリア」がちょっと有名だったりするんだけど、それにしてもムーサのこの順序はなんなんだろ。

ヘーシオドス:ヘシオドス。 ムネーモシュネー:ムネモシュネ。 クレイオー:クレイオ。 エウテルペー:エウテルペ。 メルポメネー:メルポメネ。 テルプシコレー:テルプシコレ。 テルプシコラー:テルプシコラ。 エラトー:エラト。 ウーラニアー:ウラニア。 カッリオペー:カリオペー、カッリオペ、カリオペ。 カッリオペイア:カリオペイア。 イオーニアー:イオニア。 プラトーン:プラトン。 アポッロドーロス:アポロドーロス、アポッロドロス、アポロドロス。 ヘーロドトス:ヘロドトス。 オルペウス:オルフェウス。

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2008.02.19 kakikomi; 2015.09.24 kakinaosi

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