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番組はじめの名のり「わたしが…」

もう芸能界から引退したひとけど、そのひとは番組のはじめに自分の名まえをいうとき、「わたし上岡龍太郎です」っていうふうに「わたし」っていってた。最近だと「わたし中山秀征です」っていうのをきくけど、これは上岡龍太郎のまねなのかな。そういえば愛川欽也もいってるか。それにしても、こういうときに「わたし」っていうのはずうずうしい感じがするっていうか、やっぱりちょっと気もちわるい。それをさか手にとって特徴をだそうとしてるんだろうけどね。

「わたし○○です」っていうのがヘンな感じがするのは、これが○○ってひとが話題になってるばあいのいいかただからだろう。つまり、だれが○○さんなのか、ってことになったばあい、そのこたえが「わたし○○です」「わたしその○○というものです」になる。

おんなじ意味のまんまことばの順序を逆にすれば「○○わたしです」「○○というのわたしです」になって、助詞の「は」は主題をあらわすから、「わたし○○です」っていうのは○○さんが主題のばあいのいいかただっていうのがわかりやすくなる。この主題に対して「が」はあたらしい情報をあらわすもので、このばあいのあたらしい情報っていうのはそのひとは「わたし」だってことだ。

そうすると「わたし○○です」っていうのをきかされる側としては、もともと○○さんのことなんか話題にしてないのに、そういうふうにいわれてもねえ、なんてことになるかもしれないし、そもそも「わたし」っていういいかたそのものがおしつけがましい印象をあたえるともいえる。

それじゃあ「が」のかわりに「は」をつかったらどうなるかっていうと、「わたし○○です」だから、「わたし」が主題で「○○」があたらしい情報ってことになる。いまのテレビ・ドラマとか映画とか演劇で登場人物がまず名まえを名のるってことはないだろうけど、むかしの芝居なんかにはよくある。たとえば能の『熊野[ゆや]』は「これ平[たいら]の宗盛[むねもり]なり」っていうセリフではじまる。「わたし」って意味で「これ」っていってるわけだけど、こういうふうに「は」をつかってる。

ほかの例でいうと狂言には「これこのあたりに住まい致す者でござる」っていうセリフではじまるのがおおい。『夷毘沙門[えびすびしゃもん]』とか『栗焼[くりやき]』とか『成上り』とか、あげてったらきりがない。あと『佐渡狐』の「まかり出[い]でたる者、越後の国のお百姓でござる」みたいなパターンもある。それから歌舞伎十八番の『勧進帳』の最初のセリフ、「斯様[かよう]に候ふ[そうろう]者、加賀の国の住人、富樫[とがし]の左衛門にて候[そうろう]」なんていうのもあるし、とにかく名のりとしてはみんな「は」をつかってる。いうまでもないだろうけど「まかり出でたる者」「斯様に候ふ者」っていうのは自分のことだ。

まずだれかが舞台にでてくると、観客としては、あれだれなんだろう、ってことになるわけで、主題は舞台に登場したひと、つまり登場人物のほうからいえば「わたし」だ。それに対して「○○です」はその疑問に対するこたえ、あたらしい情報ってことになる。すでにはなしをしってるひとからみれば、あたらしい情報じゃないことになるけど、芝居としては はなしをしらないものとしてつくってあるわけだから、やっぱりあたらしい情報だ。

芝居じゃないものでも登場 人物 が「わたし」っていってる有名な作品がある。それは夏目漱石の『吾輩猫である』だけど、この小説はこの題名とおんなじ文章ではじまってる。かたり手のネコが最初に「わたしネコです」って名のってるわけだ。これが「吾輩猫である」だったらおかしいだろう。

ってことで「わたし○○です」よりは「わたし○○です」のほうが自然だっていえるとおもう。ただし芝居ならそれでいいけど、番組の司会者とかが「わたし」っていうのはやっぱりちょっとヘンかもしれない。じっさいよく耳にするのは「こんにちわ、○○です」とか、「みなさん、こんばんわ、司会の○○です」とかいうやつだろう(「こんにち」「こんばん」はこうかくのがいいとおもう)。

「わたし」がないこのいいかたは狂言にもある。『末広がり』とか『三本の柱』とかの「このあたりに隠れもない、大果報の者でござる」、『靭猿[うつぼざる]』とか『萩大名』とかの「遠国[おんごく]に隠れもない、大名です」なんていうのがそうだ。

ネコの例もあげると、シャープの「エコロジーライフ宣伝キャンペーン」のテレビCMで、かたり手のネコが、ただ「ネコです」って ふたことめに名のる(「です」の「す」の母音「ウ」を無声化しないではっきり「ウ」って発音してる)。

日本語のばあい、いわなくてもわかるんなら、いちいち「わたし」っていわないことがおおい。狂言の例なんかはそんなとこだろう。司会者とかCMのネコもそうだともいえるけど、こっちについてはべつの要素があるかもしれない。

司会者はたいてい有名人がやってるし、とくに毎週やってる番組とかなら、みてるひとは司会者がだれなのかしってるわけだ。それに芝居とちがって司会者がなんかの役をやってるわけでもないから、でてきた司会者がだれなのか みてるひとがわかってない設定になってるってこともない。CMのネコにしても、みればネコだってわかる(小説だったら、まずネコだっていってくれなきゃわかんないけど)。だからあいさつとして「○○です」っていうだけならいいけど、「わたし○○です」なんていったら、しっかり「わたし」が主題になっちゃうし、それに対してはあたらしい情報をつけくわえるはずなのに、「○○です」っていうわかってる情報をわざわざいってることになるから、ちょっと不自然な感じになるんだろう。

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2008.02.06 kakikomi; 2009.04.24 kakitasi

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コメント

 一筆啓上
 
 夏目家の飼猫が「吾輩」と名乗ったのは、ふだん飼主が、えらそうに
話しているのをカラカってみたのでしょう。
 実際に漱石が「吾輩」と自称していないところが、おかしみですね。
 
 「ワタシが上岡です」と云ったのは、もとは漫才トリオだったので、
「他の二人とは別者ですよ」の意味で、独自の自己表現でしょうね。
 小倉 智昭あたりの民放アナが追随するのは、いささか場ちがいです。
 
 NHKのアナウンサーは、ラジオ時代の名残りか、そもそも控えめで、
最後に「○○でした」とか「○○が、お伝えしました」と云いました。
 あるいは「NHK。」だけで、名乗らないケースが多かったようです。
 
 わたしの閑話旧題より。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20081111
 誤録&諸辞苑 ~ 云いたがえの研究 ~

投稿: 阿波 与太郎 | 2010.09.06 10:07

NHKのアナウンサーがひかえめだっていうのはちょっとおもしろいですね。

名のらないばあいもあるっていうのは、アナウンサーのばあいはそれでいいとおもうんですけどね。

投稿: yumiya | 2010.09.06 14:52

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