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訓よみは翻訳

漢字の訓よみっていうのがそもそもなにかっていえば、要するに翻訳だ。音よみは中国の発音をそのまんまとりいれた外来語で、訓よみは漢字の意味を日本語に訳したものだ。ただし、訳した日本語がせまい意味のやまとことばとはかぎらない。「うま(馬)」「うめ(梅)」「かみ(紙)」「ふみ(文)」みたいにふるい時代の外来語だってかんがえられてるものもある。

外国語を翻訳するばあい、単語と単語は一対一に対応してるわけじゃないから、いろんなことばに訳せることがおおい。たとえば SPEAK だったら「はなす」「しゃべる」「いう」とかばあいによっていろいろある。これをそれこそ「SPEAKす」「SPEAKる」「SPEAKう」ってかいて「はなす」「しゃべる」「いう」ってよんでるのが訓よみだ。

翻訳だから、逆に、外国語のちがう単語がおんなじことばに訳されるばあいもある。SPEAK のほかに TALK とか TELL とか SAY も「はなす」とか「いう」って訳せる。となると「はなす」っていうのを「SPEAKす」のほかに「TALKす」とか「TELLす」とか「SAYす」ってかくこともできる。

こういうふうに訓よみは翻訳だから、むかしはひとつの漢字にいろんな訓よみがあったし、逆におんなじことばでもいろんな漢字をあてたりした。戦後になって訓よみを制限したからすこしマシになったけど、いまでも訓よみがいくつもある漢字はあるし、おんなじことばにちがう漢字をあてるばあいもある。

訓よみは一歩まちがえばなんでもありで、漢字をやまとことばじゃなくて外来語でよむことだってできないことじゃない。漢字にカタカナの外来語のふりがなをふってるのはけっこうみかけるだろう。こういうのの延長に、最近おおくなってきた、親の自己満足でつけたような おかしなこどもの名まえがある。

「麻里亜」ってかいて「まりあ」ってよませるんなら、この手の音よみのあて字はむかしっからあるし、漢字のよみを無視してるわけでもない(でも、このなまえなら漢字じゃなくて「まりあ」か「マリア」にすればいいとおもうけど)。ひどいのはこういうんじゃなくて、「海」ってかいて「まりん」ってよませたりするやつだ。「まりん」っていう外来語の名まえをつけるのはべつにわるいとはおもわない。でも、それにあてる漢字がひどい(そもそもムリに漢字をあてなきゃいい)。もともと訓よみってもんがあるから、こういう方向にいっちゃうんだよな。もっととんでもないのになると、「青空」ってかいて「まりん」ってよませる名まえがあるらしくて、これってただのまちがいなんじゃ…。それとか、「金星」ってかいて「まあず」ってよませる名まえもあるらしい。「マーズ(Mars)」は「火星」なんだけど。

ところで、漢字はもともと かりものだけど、いまは日本語の文字になってるってよくいわれる。でも、だからって問題がないわけじゃない。英語のアルファベットはもともとラテン語の文字だけど、いまは英語の文字でもある。でも、もともと英語用につくられたわけじゃないから、英語の発音をあらわすには文字がたりない。英語のつづりがおかしなことになってる理由のひとつにはそういうこともある。英語の文字にはちがいないけど、完全に英語にあってるわけじゃない。漢字と日本語にしてもおんなじことだ。

「音」の訓よみには「おと」と「ね」がある。「間」の訓よみには「あいだ」と「ま」がある。これは、簡単にいえば、むかしの中国のことばの「音」を訳せば「おと」にも「ね」にもなるってことで、日本語としてはちがう単語なのに、中国のことばにはない区別なもんだから、おんなじ字でかくことになっちゃうわけだ。「あいだ」と「ま」もちがう単語なのに、漢字をあてるとおんなじ文字になる。こういうふうに漢字が日本語のちがう単語をかきわけられないばあいがいろいろある。

逆に、おんなじ単語なのに、漢字の意味の区別、つまりの中国のことばの区別にしたがってかきわけるっていうバカバカしいこともおこなわれてる。「はじめ」っていうことばは日本語としてはひとつの単語なのに、「初め」「始め」「元」なんてかきわけがある。それとか、「もと」も、漢字の意味にしたがって「元」「本」「基」「下」「許」なんてかきわけてる。最初にだした英語の例でいえば、「はなす」ってかくときに、あるばあいは英語の SPEAK にあたる意味で、あるばあいは TALK の意味で、あるばあいは TELL の意味だ、とかかんがえて、いちいちかきわけてるのとおんなじことだ。そいでもって、こういう漢字のかきわけの説明をうりものにしてる国語辞典もあったりする。

ほかにもいろいろあってきりがないけど、たとえば「あと」は「後」とか「跡」とかかきわけて、漢字の意味にまどわされて、「後」と「跡」がちがう単語みたいにおもいがちだけど、どっちの「あと」もおんなじことばだ。こういうふうに、おんなじことばを漢字の意味でかきわけてるくせに、「うしろ」と「あと」っていう、日本語としてはちがう単語を「後」っていうおんなじ漢字でかいたりしてる(区別するために「後ろ」っていうかきかたもあるけど)。

「のぼる」には「上る」とか「登る」とか「昇る」とかがあるし、「こえる」にも「越える」とか「超える」とかがある。「あらわれる」にも「現れる」とか「表れる」とか「顕れる」とかがあるし、「あらわす」にも「現す」とか「表す」とか「顕す」とか「著す」とかがある。こんなふうに外国語の区別をつかってかきわけるのって、ほんとに意味があるのかな。

そういえば「あらわれる」「あらわす」には「現われる」みたいに「わ」をいれるおくりがなもあるけど、いま学校じゃ「わ」がないほうをおしえてるのかな。おくりがなっていうのはややっこしいもので、おんなじ本のなかに「現われる」と「現れる」がどっちもでてきたりすることもある。それも、おんなじ行にあるのをみたことがある。おくりがななんてものは、そもそもきめられないもんなんだから、こうなるのもムリはないけど、漢字をあててるかぎりこういう混乱はなくなんないだろう。

「はなす」は、漢字をあてれば意味によって「話す」だったり、「離す」「放す」だったりする。でもこれは日本語としてはおんなじ「はなす」っていう単語だ(国語辞典には、漢字のかきわけにしたがってちがう項目にしてるのもあるだろうけど)。なにかものを手からはなすみたいに、口からことばをはなすから、しゃべるって意味の「はなす」っていうつかいかたができた。これが漢字のせいで気がつきにくくなってる。

「私」は「わたし」とも「わたくし」ともよめる。文体のちがっていうか、キャラクターのちがいっていうか、そういうのがあらわれるとこだろう。おんなじ意味といえばそのとおりだけど、ことばとしてはべつもので、たんなる意味の区別とはちがうものがせっかくあらわせるのに、それを漢字じゃかきわけることができない。

う~ん、漢字って、なんてすばらしいんだろう!

それにしても、訓よみってものをなくせばここにかいたようなことはなくなるわけで、それには、いまのかきかたのきまりをとくにかえる必要はない。日本語には、かなづかいはあっても正書法はないんだから、ある単語を漢字でかくのか、ひらがなでかくのか、カタカナでかくのか きまってるわけじゃない。ある程度の習慣はあるけど、正書法とはちがう。だから、漢字の意味のちがいっていう外国語の意味の区別にしたがって日本語の単語をかきわけるなんてことはしなくてもいいんだし、漢字でかきわけられない単語に漢字をあてなきゃいけないってこともない。

訓よみ:訓読み。 音よみ:音読み。

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2008.03.19 kakikomi; 2010.12.23 kakinaosi

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