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「カナ書きには単語性がない」だとさ

白川静『漢字百話』(中公新書)にこんなことがかいてある。

文字はことばとしてよまれる。友人・friend・ともだちはみなことばである。友人の活字の横半分が欠けていても、また friend の r が送別会などの案内状に抜けて「fiend-鬼」となっていても、たいていの人は気にもせずに友人の意味によんでしまう。ことばとしてとらえるからである。しかし「ともち」「とだち」を気にせずにともだちとよむことはできない。カナ書きには単語性がないからである。漢字は語を形体で、印欧語は語を形態で示すが、カナ書きの語は形態ではない。単語的固定性をもたないのである。漢字を加えないかぎり、国語は『源氏物語』の古写本のような表記になるほかない。カナは本来、漢字訓読の補助的なものであったからである。

これについて、いくつかいいたいことがあるんだけど、そのまえにひとつ。この「形体」と「形態」なんていう、漢字をみなきゃわかんないようなことばのつかいわけはなんなんだろ。そもそもこの熟語はこういうふうにちゃんとつかいわけられてるもんなのかな。

で、本題だけど、これはそもそもちゃんとした比較になってない。「友人の活字の横半分が欠けていても」なんていうのもアヤシいもんだとおもうけど、それより「friend」と「ともだち」の比較だ。なんていっても「送別会などの案内状に」っていうのがミソだろう。ただ「fiend」ってかいてあったら「鬼、悪魔」の意味でよまれるにきまってる。「送別会などの案内状」だからこそ、前後関係から「friend」だってわかるわけで、「単語性」の問題とはいえないんじゃないかな。「ともち」「とだち」が「送別会などの案内状」にあったらやっぱりこれだって「ともだち」のまちがいだってわかるだろうし。

「ことばとしてとらえる」とか「単語性」とかの、いかにもいまの言語論がいってそうなヘリクツについても疑問におもう。要するにそんなのは、みなれてるかどうかってことだろう。「友人」とか「friend」はこのまんまの表記でふだんよくみてるから、みなれてることばなわけだけど、「ともだち」とかの「カナ書きの語」はちょっとちがう。こどもならともかく、おとなだったら、「友達」とか漢字でかいてあるのをいつもみてるはずだ。それをひらがなだけにしたらちょっとよみにくくなって、ひろいよみになりがちだから、「カナ書きの語は形態ではない。単語的固定性をもたないのである」なんてことになっちゃうんじゃないのかな。ふだんからひらがなでかいてる単語だったら、「単語的固定性をもたない」なんてことはなくて、ひと目で目にはいってくる。

これに関しては、カタカナとの比較もある。日本語をかな文字だけでかこうっていうかんがえかたにしても、ひらがなをつかうかカタカナをつかうか、やりかたがわかれる。カタカナがいいっていうひとたちは、カタカナはもともと漢字の一部だったから、カタカナでかいたことばはひとつにまとまってみえて「単語性」があるっていいたいみたいだ。でも、もともと漢字の一部だったからって、いまのカタカナは漢字とかひらがなとおんなじ全角の活字だし、それがまとまってひとつの文字みたいにみえるわけじゃないだろう。

ひらがながきよりカタカナがきのことばのほうがひと目でみやすいのがほんとだとしても、それは、ふだん漢字でかいてることばをひらがなでかくと、みなれてないから、ひと目でよめないし、ひらがなはおくりがなとか助詞みたいに漢字の付属部分としてつかわれてて、まとまった単語としてよまれることがすくないからだろう。それにくらべて、外来語とかのもともとカタカナがきのことばのほうは単語としてみなれてるから よみやすい。カタカナそのものの性質ってことじゃないとおもう。これがもし、外来語とか擬音語とかをひらがなでかいてて、いまひらがなにしてるとこが全部カタカナだったら、はなしは逆になってるはずだ。

それから、ここのはなしには、漢字とカナと英語のアルファベットしかでてきてないけど、たとえばインド系の文字だったらどうなんだろう、っておもう。これも、カナとおんなじように「単語性」がないなんてことになるのかな。で、かりにそうだとしても、べつにそんなこと問題じゃないだろう。こういう文字をつかってるひとたちは、べつによみにくいとはおもってないだろうから。それに、ひらがなよりカタカナっていってるひとは、世界中のいろんな文字のことをふまえた上でいってるのかな。

「単語性」なんてことをもちだすのは、べつの意味でもどうかとおもう。こういう、いまの主流の学説みたいなものにもとづいて、ものをかんがえるっていうのはどうなんだろ。学説なんてものは、たとえはいまは定説になってるとしても、しょせんはつぎの学説がでてくるまでの いのちだ。そんな一時の流行にもとづいてものをかんがえなきゃいけないもんなのかな。

「単語性」っていえば、漢字のことを表意文字じゃなくて「表語文字」だっていうことがある(これはとりあえずそのとおりだろう)。で、それとの関連で、英語みたいなアルファベットをつかってることばについても、文字があつまってひとつの単語をあらわしてるんだから、そのつづり全体で「表語文字」になってるとかいうヘリクツがある。これは「文字はことばとしてよまれる」っていういいぐさに通じることだけど、だからって、アルファベットが表音文字だってことにかわりはないし、漢字とおんなじわけじゃない。文字がいくつかあつまって単語になってるわけで(1文字の単語もあることはあるけど)、その全体を「表語文字」なんていうのは、わざとらしいヘリクツだ。

「漢字を加えないかぎり、国語は『源氏物語』の古写本のような表記になるほかない」っていうのもおかしい。ひらがなだろうとカタカナだろうと日本語をかな文字だけでかこうとするばあいには、わかちがきをする。「印欧語は語を形態で示す」とか「単語性」なんてことがいえるのも、わかちがきをしてるからだ。これが古代みたいに大文字だけでわかちがきもしないかきかただったら、このひとがここで「カナ書き」についていってるようなことになるんじゃないかな。かな文字だけでも、わかちがきをすれば単語としてのかたちになるし、それをよみなれてれば、ひろいよみじゃなくて「ことばとしてとらえる」ことになるから、いわれてるような「単語性」ってことにもなるはずだ。

それから、カナのことをいうのに、「カナは本来、漢字訓読の補助的なものであった」なんてむかしのことをいうのもどうなんだろ。このひとは漢字については、

漢字を借りもののように思うことが、根本の誤りである。古代オリエントに発する文字を、いまアルファベットとして用いるものが、それを借りものとは考えないように、漢字を音訓の方法で用いるのは、決して借りものの用法ではない。漢字は音訓の用法において国字である。

なんていってるくせに、カナについては、自分のいい分にとって都合がいいむかしのことだけをもちだしてる。「古代オリエントに発する文字を、いまアルファベットとして用いるもの」っていうは、英語とかのアルファベットのことをいってるんだろうけど、これはこのひともいってるように古代オリエントの文字そのものじゃなくて、それを起源としてかたちがかわってってできたものだ。それなら、このアルファベットにあたるものは、漢字から変化してできたカナのほうじゃないか。アルファベットの例をもちだしたからって、漢字が「借りもの」じゃないってはなしにはなってない。

この著者の専門は古代中国文学で、漢字の研究でも有名だったらしいけど、いくら漢字の専門家だっていっても、日本語の専門家ってわけじゃない。ここでとりあげたことからすると、いくら漢字そのものにくわしくても、それだけで日本語の表記についてちゃんとした見識があるわけじゃなさそうだ。ところが、国語審議会なんかでもそうだけど、ただ漢字の専門家ってだけで、日本語の表記についていろいろ口をはさむ やからがいるのはどうかとおもう。

わかちがき:分かち書き、分ち書き。

2008.03.12 kakikomi; 2009.03.21 kakitasi

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