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ギリシャ語聖書の「万」

新約聖書の『ヨハネの黙示録』に14万4000っていう数がでてくる。第7章第4節から第8節には、

 わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
 ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、
 ルベン族の中から一万二千人、
 ガド族の中から一万二千人、
 アシェル族の中から一万二千人、 
 ナフタリ族の中から一万二千人、
 マナセ族の中から一万二千人、
 シメオン族の中から一万二千人、
 レビ族の中から一万二千人、
 イサカル族の中から一万二千人、
 ゼブルン族の中から一万二千人、
 ヨセフ族の中から一万二千人、
 ベニヤミン族の中から一万二千人が
 刻印を押された。

それから、第14章第1節には、

 また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。

第14章第3節には、

彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。

引用はどれも新共同訳からで、このさきの引用もそうする。第7章からわかるように、この数は、12×1万2000なんだけど、さらにいえば、12×12×1000ともいえる。イスラエルの12部族の12の2乗に1000をかけた数だ。これで「無数」を意味してるって説明されてる。

この14万4000についてはほかにもいろんな解釈があるんだけど、キリスト教とはべつのたちばからの解釈として、ヨーガでいうナーディー(霊的な からだ にある脈管)が14万4000あるから、それが全部活動してる完全な状態の人間ことをいってる、なんていうのもあったり、チャクラとむすびつける説もある。チャクラの花びらの数は、ムーラーダーラ・チャクラが4つ、スワーディシュターナ・チャクラが6つ、マニプーラ・チャクラが10、アナーハタ・チャクラが12、ビシュッダ・チャクラが16、アージュニャー・チャクラがふたつなんだけど、アージュニャー・チャクラの花びらはおおきくみればふたつでも、こまかくみると96ある。この数を全部をたすと、4+6+10+12+16+96=144 で、これにサハスラーラ・チャクラの花びらの数1000をかけると14万4000になる。最後だけかけるのがちょっと都合がいい気がするけど、サハスラーラ・チャクラはほかのチャクラとはちょっと次元がちがう感じだから、べつあつかいでもおかしくないのかもしれない。とにかくこれで、この数はチャクラが全部めざめてる完全な人間をあらわしてるって解釈だ。それとか、アセンションしたマスターが14万4000人いる、なんていうのもある。

ところで本題はこれからなんだけど、この14万4000と1万2000はギリシャ語の原文だと ἑκατὸν τεσσαράκοντα τέσσαρες χιλιάδες [hekatón tessarákonta téssares kʰiːliádes ヘカトン テッサラコンタ テッサレス キーリアデス]と δώδεκα χιλιάδες [dɔ̌ːdeka kʰiːliádes ドーデカ キーリアデス]で、近代西洋語とおんなじように「144千」「12千」っていういいかただ。むかしのギリシャ語には日本語みたいに万にあたることばがあるのに(古典ギリシャ語と日本語のにてるところ」「古典ギリシャ語の数詞」)、なんでそれをつかわないで千をつかったいいかたになってるんだろ。

新約聖書には七十人訳(セプトゥアギンタ、ギリシャ語訳旧約聖書)からの引用がおおいし、そもそも、新約聖書の文章は七十人訳の影響をうけてる。そのことからすると、これも七十人訳の影響なのかもしれない。そうおもって七十人訳で万がどうなってるのかしらべてみた。

七十人訳には、旧約聖書続編の部分をのぞくと、訳すと万になる数がでてくるとこは全部で260ぐらいある。でも新共同訳でその万がでてくるとこをしらべて、そこの七十人訳の本文をあたってみると、万にあたることばをつかってるとこは28しかない。それも万にあたることばがでてくるのはただ「万」とか「幾万」とかいうばあいがおおい。

七十人訳は翻訳だから、ギリシャ語のよくあるいいかたとちがってるとこはヘブライ語の原文の直訳だったりするわけで、このばあいもそうなんじゃないかとおもったけど、むかしのヘブライ語にもギリシャ語とおんなじように万っていう数詞はある。ってことはヘブライ語の直訳とはちがうのかな。

で、今度はヘブライ語の旧約聖書をしらべてみると、万にあたることばはすこししかつかわれてなくて、ほとんどは千をつかって万をあらわしてる。七十人訳で万をつかってる28か所のうち5つはヘブライ語の原文だと千をつかってて、のこりの23か所は原文でも万だった。七十人訳のもとになったヘブライ語の本文はいまのマソラ本文とはちがってたらしいから、この5か所についてはそのことが関係あるのかもしれないけど、とにかく七十人訳で万をあらわすのに千にあたることばをつかってるとこは、ヘブライ語の原文でも千をつかってて、そのことから七十人訳のこのいいかたはヘブライ語の直訳だってことがわかる。

それから七十人訳と新約聖書のギリシャ語で千をつかって万をあらわしてるばあい、数詞の χίλιοι [kʰǐːlioi キーリオイ]はつかってなくて、名詞の χιλιάς [kʰiːliás キーリアス]がつかわれてる。数詞には「10千」(=1万)とか「100千」(=10万)っていういいかたはもともとないのに対して、名詞の「千」だったら、ほかの名詞に10とか100とかをふつうにつけられるみたいに、10でも100でも1000でも自由につけられるからだろう。じっさい100万を χίλιαι χιλιάδες [kʰǐːliai kʰiːliádes キーリアイ キーリアデス](1000千)っていってるのもでてくる。これもヘブライ語の直訳で、χίλιαι [キーリアイ]は数詞の「千」、χιλιάδες [キーリアデス]は名詞の「千」だ(どっちも女性・複数・主格)。

ところで七十人訳のうち旧約聖書続編には原文がヘブライ語じゃないものがある。大部分はヘブライ語かアラム語が原文だったらしいんだけど、『マカバイ記二』と『知恵の書』はもとからギリシャ語だったっていうから、ヘブライ語から訳された『マカバイ記一』と、もともとギリシャ語の『マカバイ記二』をくらべてみることにしよう。

『マカバイ記一』には訳すと万になる数は15あって、そのうち万をつかってるのは3つだけだ。これに対して『マカバイ記二』には訳すと万になる数は全部で22あって(ただし、ひとつは万ってことばを省略してるけど、万をつかったいいかただってことははっきりしてる)、そのうち千をつかってるのはひとつしかない。ほかはぜんぶ万をつかってる。もともとギリシャ語かどうかで、こんなにはっきりしたちがいがあるわけだ。

『マカバイ記二』で千をつかってるのは第15章第22節で、そこには、「主よ、あなたはユダヤの王ヒゼキヤのとき、あなたの御使いを送って、センナケリブの陣営で十八万五千人を殲滅されました」っていう文章がある。この数字はギリシャ語で ἑκατὸν ὀγδοήκοντα πέντε χιλιάδας [hekatón ogdoɛ̌ːkonta pénte kʰiːliádas ヘカトン オグドエーコンタ ペンテ キーリアダス](185千)なんだけど、この数は旧約聖書のほかのとこにもでてくる。それは『列王記下』第19章第35節と『イザヤ書』第37章第36節と『マカバイ記一』第7章第41節の3か所だ。『列王記下』と『イザヤ書』のこのへんはここでいわれてる「センナケリブの陣営」のはなしのとこで、七十人訳のギリシャ語をみると、その数はこことまったくおんなじいいかただ。それから『マカバイ記一』のその部分は『マカバイ記二』のこことおんなじように「センナケリブの陣営」のことについてふれてるとこだ。

伝説によると七十人訳はいっぺんに全部訳されたことになってるけど、いまじゃそうはかんがえられてない。かりに伝説のとおりだったとしても、『マカバイ記二』はヘブライ語から訳されたものじゃないから、そのときいっしょにかかれたものじゃなくて、もっとあとにできたものだろう。そうすると『マカバイ記二』のかき手はギリシャ語訳の『列王記下』か『イザヤ書』のこの部分を直接みて、そこにでてくる数をそのまんまつかったんじゃないのかな。だから、この1か所だけヘブライ語の直訳の千をつかったいいかたになってるんだろう。

で、はなしを新約聖書にもどすと、『ヨハネの黙示録』で最初にあげたとこ以外に日本語訳で万がでてくるのは2か所ある。ひとつは第5章第11節の「万の数万倍」で、もうひとつは第21章第16節の「一万二千スタディオン」なんだけど、「万の数万倍」のほうは万をつかってて、「一万二千スタディオン」のほうは「12千」っていいかただ。こういうただの「万」とか「幾万」は旧約聖書でも万をつかったいいかたがおおかったけど、ここでもそれとおんなじことになってるわけだ。でもって、ほかの数はみんな千をつかった万だ。『ヨハネの黙示録』は七十人訳とかユダヤの黙示文学の影響をつよくうけてるっていうから、数のいいかたにもそれがあらわれてるっていえるのかもしれない。

ちなみに『ヨハネの黙示録』には万にあたることばをつかってるとこがもうひとつある。それは第9章第16節の δύο μυριάδες μυριάδων [dýo myːriádes myːriádɔːn デュオ ミューリアデス ミューリアドーン](20000万)で、日本語訳は「二億」になってる。「2万個の万」っていういいかたなんだけど、億ってことだと、さすがに千かける千じゃたりないから、こういうことになったのかな。

つぎに『ヨハネの黙示録』以外で新約聖書の万がどうなってるのかしらべてみると、訳すと万になる数がでてくるのは8か所ある。それをひととおりみてみよう。

まずは『マタイによる福音書』第18章第24節。ここに「一万タラントン」っていうのがでてきて、これは数詞の「万」(μυρίων [myːɔːn ミューリオーン])をつかってる。ただし、この μυρίων [ミューリオーン]は「たくさん」って意味によめなくもないし(古典ギリシャ語と日本語のにてるところ」)、そう解釈してる翻訳もあることはある。でも、このばあいは「タラントン」っていうお金の単位がついてるんだから、「1万」のほうがいいとはおもうけど。

おんなじように「たくさん」ともとれる「万」をつかってるとこがほかにもある。『コリントの信徒への手紙一』の第4章第15節と第14章第19節だ。第4章第15節は「養育係があなたがたに一万人いたとしても」、第14章第19節は「異言で一万の言葉を語るより」ってとこで、どっちも数詞の「万」(μυρίους [myːríuːs ミューリウース])がつかわれてる。内容としては「たくさん」ってことをいってるわけで、正確に1万ってことじゃないだろうから、どっちに解釈しても結局はおんなじことだろう。口語訳にしても両方とも「一万」って訳してるけど、岩隈直『増補・改訂 新約ギリシヤ語辞典』(山本書店)とか織田昭『新約聖書ギリシャ語小辞典』(大阪聖書学院)は「無数」の意味の用例としてここをあげてる。

この3か所は万をつかってる例としてはちょっと問題があるわけだけど、はっきり万っていえるとこもある。『使徒言行録』第19章第19節の「銀貨五万枚」ってとこだ。これは「五万」(μυριάδας πέντε [myːriádas pénte ミューリアダス ペンテ])っていってて、この名詞の「万」には5がついてるから「たくさん」ってことにはならない。

それから『使徒言行録』第21章第20節には「幾万人」っていうのがでてきて(口語訳は「数万」)、ここにも名詞の「万」(μυριάς [myːriás ミューリアス])がつかわれてる。旧約聖書で万にあたることばをつかってるのは「幾万」とかいうばあいがおおいってことは上にかいたけど、これもそんな感じのものなんだろう。

のこりの3か所はどれも名詞の「千」をつかってることで、『ルカによる福音書』第14章第31節と『コリントの信徒への手紙一』第10章第8節にある。『ルカによる福音書』には「一万」(δέκα χιλιάσιν [déka kʰiːliásin デカ キーリアスィン]=10千)と「二万」(εἴκοσι χιλιάδωνěːkosi kʰiːliádɔːn エ~コスィ キーリアドーン]=20千)、『コリントの信徒への手紙一』には「二万三千」(εἴκοσι τρεῖς χιλιάδεςěːkosi trêːs kʰiːliádes エ~コスィ トレ~ス キーリアデス]=23千)っていう数がでてくる。

『ルカによる福音書』と『使徒言行録』はおんなじ人物つまりルカがかいたものなんだけど、上でみたように『ルカによる福音書』第14章第31節のほうは万をあらわすのに名詞の「千」をつかってて、『使徒言行録』第19章第19節のほうは名詞の「万」をつかってる。このちがいはなんなんだろう。

『ルカによる福音書』第14章第31節はキリストの説教のことばで、ルカは福音書をかくのにアラム語の資料もつかったってかんがえられてる。ってことは、このキリストのことばに「千」をつかったいいかたがでてくるのはアラム語の直訳なのかもしれない。七十人訳にもたくさんそういういいかたがでてくるわけだから、そのいいまわしをつかうのにとくに抵抗っていうか問題は感じなかったんだろう。ただしこれは当時のアラム語も旧約聖書の原文みたいにこういういいかたをしてたってかんがえたばあいのことで、実際には福音書のもとになったアラム語の資料なんてものは発見されてないから、ほんとのとこはどうだかわかんない。それでも、この数のいいかたはキリストのことばのなかにでてくるものだから、ルカ自身の文体とちがっててもおかしくはない。

『使徒言行録』の第13章以下はアラム語起源の資料からははなれてかいたものだっていわれてる。そのために『使徒言行録』第19章第19節のほうはギリシャ語本来の万をつかったいいかたになってるんだろう。

ちなみに新約聖書には万にあたることばをはっきり「たくさん」って意味でつかってるとこもあって、そこは新共同訳も「万」とは訳してない。『ルカによる福音書』第12章第1節の「数えきれないほどの群衆」と、『ヘブライ人への手紙』第12章第22節の「無数の天使たち」と、『ユダの手紙』第14節の「数知れない聖なる者たち」の3か所で、3つとも名詞の μυριάς [ミューリアス](の変化形)がつかわれてる。「たくさん」とも解釈できるのに新共同訳だと「一万」になってる3か所は数詞の「万」(「たくさん」って意味なら形容詞)だったけど、こっちは名詞なのがちょっとおもしろい。

スワーディシュターナ:スヴァーディシュターナ。 ビシュッダ:ヴィシュッダ。

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2008.04.25 kakikomi; 2010.09.13 kakinaosi

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