ギリシャ語の動詞の「後退的」アクセントと「後倚辞」「前倚辞」
ギリシャ語の動詞のアクセントは活用すると位置がかわることがある。基本的な性質として、動詞のアクセントは、アクセントの法則がゆるすかぎり単語のあたまのほうにいこうとする。べつのいいかたをすれば、単語のおしまいからはなれていこうとする性質がある。
たとえば、規則動詞としてギリシャ語の本によくでてくる「教育する」を例にとると(発音のカタカナがきでアンダーラインのとこがアクセント)、辞書のみだし語になる能動態・直説法・現在・1人称・単数のかたちは「παιδεύω〔paideúô〕[パイデウオー]」なんだけど、能動態・命令法・現在・2人称・単数だと「παίδευε〔paídeue〕[パイデウエ]」になる。最後の音節の母音がながいときには、うしろから2番目の音節の母音に鋭アクセントがつくんだけど、最後の音節の母音がみじかいと、3音節以上ある動詞のばあいはそれよりまえにいって、うしろから3番目の音節の母音に鋭アクセントがつく。
こういうふうにアクセントが単語のまえのほうにいこうとする性質のことを英語で「recessive」っていうんだけど、これをそのまんま訳せば「後退的」ってことになる。まえにいくのに「後退的」っていうのは…。
アクセントの位置については、かならず単語のおしまいのほうからかんがえることになってる。ギリシャ語のアクセントは単語のうしろからかぞえて1番目・2番目・3番目の音節のどれかにある。3番目の音節をこえてアクセントがまえにいくことはない。それに、どの音節までいけるかは、最後の音節の母音のながさによって制限される。
アクセントについては、こんなふうに単語のうしろからかんがえなきゃいけないもんだから、それがもとになって、単語のおしまいからはなれてくことを「後退的」っていってるわけだ。
アクセントについてのこういう習慣は、ほかの用語にもあらわれてる。ギリシャ語の単語には、英語で「enclitic」っていう種類と、「proclitic」っていう種類のものがある。「enclitic」っていう用語のもとはギリシャ語の「ἐγκλιτικός〔enklitikos〕[エンクリティコス]」だけど、これは「かたむく、よりかかる」って意味の動詞と関係あることばだ。「proclitic」のほうは、ギリシャ語でいえば「προκλιτικός〔proklitikos〕[プロクリティコス]」だけど、こっちのほうは「ἐγκλιτικός[エンクリティコス]」に対して近代の学者がつくった用語で、「まえにかたむく、まえによりかかる」って意味だ。
この用語の翻訳語として、「enclitic」には「後倚辞[こういじ]」、「proclitic」には「前倚辞[ぜんいじ]」っていうのがある。「enclitic」ってことばそのものには、「まえ」とか「うしろ」とかって意味はふくまれてないけど、「proclitic」の「pro-」が「まえ」だから「前倚辞」になって、それに対して「enclitic」のほうは「後倚辞」になったんだろう。でも、この「まえ」とか「うしろ」っていうのも、アクセントが関係してるから、はなしは逆になってる。
「後倚辞(enclitic)」っていうのは、発音の上で「まえ」にある単語とむすびつく。「まえ」にある単語によりかかって、それそのものはアクセントをうしなうことがおおい。「前倚辞(proclitic)」はその逆で、「うしろ」にある単語とむすびつく。この説明で、「まえ」と「うしろ」が逆になってるのがわかるだろう。
こういう用語に対して、「まえ」と「うしろ」の関係がわかりやすいようにしたべつの翻訳語もある。「enclitic」を「前接辞/前接語」、「proclitic」を「後接辞/後接語」っていってるんだけど、こっち用語のほうがはるかにいい。だいたい「倚」なんていう漢字をつかった熟語なんてそこらで目にすることはまずないから、こんな字をつかった用語なんてどうかとおもう。この意味の「倚」は「依」とおんなじだから、「前依辞」とかにするんならまだマシだけど。
ギリシャ語の本だと「後倚辞」「前倚辞」っていうのをけっこうみかけるけど、英語の本なら「前接辞/前接語」「後接辞/後接語」っていうのがふつうだとおもう。英語にもこのふたつはあることはあって、「前接辞」の例としては「cannot」の「not」とか「can't」の「't」ぐらいしかないような感じだけど、「後接辞」はけっこうある。冠詞とか前置詞なんかがそうだ。
じゃあ、「前接辞」「後接辞」っていうのと「前接語」「後接語」っていうのじゃ、どっちがいいかっていえば、「前接語」「後接語」かな。「enclitic」も「proclitic」も付属語だけど付属形式じゃないから「語」のほうがいいだろう。英語の「un-」とか「re-」みたいのを「接頭辞」(prefix)っていうけど、こういう付属形式に「辞」をつかうとすれば、こっちは「語」にしたらいいとおもう。
「前接語」「後接語」っていうのにならって「recessive」のほうもわかりやすくいいかえるとすれば、「後退的」の反対だから、「前進的」ってことになるだろう。
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