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まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(1)
まえの単語がアクセントをうけとるばあい

ギリシャ語の単語には「まえより語(enclitic)」っていう種類のものがある。たいていはそれじたいのアクセントはなくなって、まえの単語と一体になって発音されるんだけど、それだけじゃなくて まえの単語にアクセントがふたつつくこともある。

これはもともとあったアクセントのほかに最後の音節の母音に鋭アクセントがつくってことなんだけど、それにはふたつのばあいがある。ひとつはまえの単語のうしろから3番めの音節の母音にアクセントがあるときで(このばあいはかならず鋭アクセント)、たとえば αἴλουρος (ネコ)に まえより語がつくと、

   αἴλουρός τιςǎiluːróstis アイルーロス・ティス]
   αἴλουρός τινοςǎiluːróstinos アイルーロス・ティノス]

っていうふうになる。もうひとつはまえの単語のうしろから2番めの音節の母音に曲アクセントがあるときで(このばあいはその母音はながい母音か二重母音)、たとえば ταῦρος (雄ウシ)に まえより語がつくと、

   ταῦρός τις [tâuróstis タウロス・ティス]
   ταῦρός τινος [tâuróstinos タウロス・ティノス]

っていうふうになる。ところでこのふたつめのばあい、つまり まえの単語のうしろから2番めの音節の母音に曲アクセントがあるばあいには例外があって、入門書なんかにはかいてないみたいだけど、くわしい文法書ならちゃんとそのこともかいてある。

それはまえの単語が でおわってるばあいで、その単語の最後の母音にはふたつめのアクセントはつかない。たとえば φοῖνιξ (不死鳥、フェニックス)に まえより語がつくと、

   φοῖνιξ τις [pʰôinikstis ポイニクス・ティス]
   φοῖνιξ τινός [pʰôiniks tinós ポイニクス ティノス]

になる。このとき2音節の まえより語がつくと、その まえより語のアクセントはなくならない。これは要するにまえの単語のうしろから2番めの音節の母音に鋭アクセントがついてるばあいとおんなじことだ。つまり ἵππος (ウマ)に まえより語がついた

   ἵππος τις [híppostis ヒッポス・ティス]
   ἵππος τινός [híppos tinós ヒッポス ティノス]

っていうのとおんなじことになる。とりあえずそういうことなんだけど、まえより語のアクセントについてはちょっとむずかしいことがあって、このばあいも多少問題がなくもない。

Raphael Kühner & Friedrich Blass „Ausführliche Grammatik der Griechischen Sprache“ (1890-1892)には、 でおわってる単語に2音節の まえより語がつくばあいは、まえの単語の最後の母音にアクセントはつかないってことで、例として κῆρυξ τινόςφοῖνιξ ἐστίνλαῖλαψ ἐστίν っていうのがのってるけど、1音節の まえより語のばあいは例外にはなんないってことで κῆρύξ τε っていう例がでてる。

それから有名な Herbert Weir Smyth “Greek Grammar” (1918、rev. 1956)には、まえより語が2音節のばあいアクセントはまえの単語につかないってことで κῆρυξ ἐστί っていう例をあげてて、さらに1音節のばあいも「おそらく(probably)」そうだってことで κῆρυξ τις っていう例をあげてる。probably っていうのは「十中八九」ってことだから、かなりたしかなことだっていってるわけだけど、それにしても まえより語が1音節のばあいのほうはなんかはっきりしない。

こういうのに対してアクセントを専門にあつかった Michel Lejeune “Précis d'accentuation grecque” (1945)には、まえより語が2音節でも1音節でもかわりはなくて、どっちも例外になることがはっきりかいてあるし、Andrew M. Devine & Laurence D. Stephens “The Prosody of Greek Speech” (1994)にもおんなじことがちゃんとかいてある。

ところでこういう本ばっかりじゃしょうがないから、実際の古典作品をみてみよう。ソポクレースの『オイディプース王』の Richard C. Jebb の校訂本(Cambridge、1887)にこういうとこがある(802行)。

   ἐνταῦθά μοι κῆρύξ τε κἀπὶ πωλικῆς

ここには、ここであつかってることがふたつでてきてる。まず ἐνταῦθά μοι は上にかいた ふたつめの規則のとおりで、ἐνταῦθα のあとに まえより語 μοι がつづいてるから、最後の母音に鋭アクセントがついてる。で、これはそれでいいんだけど、つぎが問題で、この κῆρύξ τε は Kühner & Blass „Ausführliche Grammatik der Griechischen Sprache“ にかいてあるとおりになってる。

ところがこの校訂者がかいたこの作品の注釈 Richard C. Jebb “Commentary on Sophocles: Oedipus Tyrannus” には、この行の注として “κῆρυξ τε not κῆρύξ τε” っていうのがある。つまり κῆρύξ τε っていうアクセントはまちがいで κῆρυξ τε がただしいって自分で訂正したんだろう。

それでもこれよりあとにでたトゥーキューディデースの『歴史』の H. S. Jones と J. E. Powell の校訂本(Oxford、1942)には κῆρύξ τε (1.29.4)っていうのがでてくる。これはなんなんだろ。この校訂本は Lejeune とかの本よりはふるいから、まだまちがいをひきずっちゃってるってことなのかな。

まえより語のアクセントについては、こういう例外だけじゃなくて規則的なものについてもいろいろある。それがよくわかるのは写本のアクセントで、写本のなかには規則どおりじゃないアクセントがついてるものがある。たとえばヘーロドトスの『歴史』の14世紀の写本に κοῖον τι (6.1.1)っていうのがでてくるんだけど、まえの単語にふたつめのアクセントがない。規則どおりなら κοῖόν τι になるはずで、A. D. Godley の校訂本(1920)だとそうなってる。

それとか新約聖書の『ルカによる福音書』の15世紀の写本にも ἐζητεῖτε με (2.49)っていうふうに、やっぱりふたつめのアクセントがないのがでてくる。これも規則どおりなら ἐζητεῖτέ με になるはずで、校訂本じゃそうなってる。規則どおりになってる写本もあるんだろう。

ちょっとかわったとこで、木島俊介『美しき時禱書の世界―― ヨーロッパ中世の四季』(中央公論社)にのってる、ウィーンのオーストリア国立図書館にある15世紀すえの時祷書の例もあげておこう。これにはアリストテレースの『ニーコマコス倫理学』の文章がかいてあって、そこには πρᾶξις τὲ (1094a)っていうのがでてくる。規則どおりなら πρᾶξίς τε で、J. Bywater の校訂本(Oxford、1894)でもそうなってる。

このほかにも写本にはいろいろあって、まえより語のアクセントがなくなるはずなのにアクセントがのこってるのとかもある。いまの時祷書の『ニーコマコス倫理学』にもその例があって、
ἀγαθοῦ τινὸς (1094a)っていうのがでてくる。規則どおりなら ἀγαθοῦ τινος で、校訂本でもそうなってる。

[新約聖書以外の校訂本と注釈はネットでみた。写本は実物じゃなくて本にのってる写真をみた]

まえより語:前より辞、前接語、前接辞、後倚辞。 ソポクレース:ソフォクレース、ソポクレス、ソフォクレス。 オイディプース:オイディプス、エディプス。 トゥーキューディデース:トゥーキュディデース、トゥキュディデス、ツキジデス。 ヘーロドトス:ヘロドトス。 アリストテレース:アリストテレス。 ニーコマコス:ニコマコス。

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2008.05.19 kakikomi; 2011.08.17 kakinaosi

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