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まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(2)
まえより語がつづくとき

まえより語は名まえのとおりそのまえにある単語によりかかって、たいていはそれじたいのアクセントはなくなる。でもこういう まえより語がいくつかつづくばあいもあって、そのときはいちばん最後の まえより語だけがアクセントをうしなって、それよりまえにある まえより語はうしろの まえより語からアクセントをもらってアクセント記号がつく。たとえばホメーロスの『イーリアス』(5.812)に、

   ἤ νύ σέ που

っていうのがでてくるんだけど、最初の 以外の3つが まえより語だ。 はもともとアクセントがあって、すぐうしろに まえより語がつづいてるから重アクセントにはならない。でもって3つの まえより語のうちいちばん最後の που だけアクセントがなくなってる。

これがいちおう文法家がつたえてる規則なんだけど、これに疑問をもつ学者もいる。ギリシャ語の発音として鋭アクセントが連続するのはおかしい感じがするからだろう。それによると、いまの『イーリアス』のとこもアクセントはひとつおきになって、

   ἤ νυ σέ που

ってことになる。実際こういうアクセントになってる写本もある。

アクセントがこうなってるほかの写本の例をあげておこう。新約聖書の『マタイによる福音書』の12世紀の写本に ἰσχυρότερός μου ἐστὶν (3.11)っていうのがある。これは規則どおりなら ἰσχυρότερός μού ἐστιν になる。それから『ヨハネによる福音書』の10世紀の写本には παραδιδούς με σοὶ (19.11)っていうのがある。規則どおりなら παραδιδούς μέ σοι だ。あと『ヘブライ人への手紙』の4世紀の写本(バチカン写本)には χειρῶν σου εἰσὶν (1.10)っていうのがあって、規則どおりなら χειρῶν σού εἰσιν になる。新約聖書のいまの校訂本だと、ここにでてきたのはみんな規則どおりのアクセントになってる。

初期の印刷本にもおんなじようなアクセントの例がある。ステファヌス版のプラトーン全集(ステファヌス版プラトーン全集」「プラトーンとアリストテレースの引用:ステファヌス版とベッカー版」)の『ティーマイオス』17B7に εἰ μή τι σοὶ っていうのがあって、これは Oxford Classical Texts だと規則どおりに εἰ μή τί σοι になってる。

現代の校訂本どうしでちがってる例もあげておこう。メナンドロスの『サモスの女』556行が Loeb Classical Library だと ἅνθρωπός τίς ἐστι になってて、これは規則どおりだけど、F. H. Sandbach の校訂本をもとにしたレクラム文庫の原文だと ἅνθρωπός τις ἐστί になってる。

まえより語がいくつかつづくばあいのアクセントの規則にはこういうふうにちょっと問題があるわけだけど、文法家がつたえてるこの規則をみとめる説だってもちろんある。それから、そもそも写本のアクセントはまちまちだし、アクセントについては古代のギリシャ人が直接かいたわけじゃないから、どこまで実際のアクセントの資料になるのかも問題だろう。

もしかしたら、写本のアクセントがまちまちだっていうのは実際にはどっちもあったってことなのかもしれない。日本語のアクセントだって、どっちでもいいばあいもあることはあるんだから。

[写本とステファヌス版は実物じゃなくて本にのってる写真をみた]

まえより語:前より辞、前接語、前接辞、後倚辞。 ホメーロス:ホメロス、ホーマー。 イーリアス:イリアス、イリアッド。 プラトーン:プラトン。 ティーマイオス:ティマイオス。

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 ・ギリシャ語の動詞の「後退的」アクセントと「後倚辞」「前倚辞」
 ・プラトーンとアリストテレースの引用:ステファヌス版とベッカー版

2008.05.20 kakikomi; 2009.04.24 kakinaosi

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