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まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(3)
「ΕΙΜΙ」の現在形

古典ギリシャ語(古代ギリシャ語)の εἰμί [eːmí エ~ミ]っていうのは英語の am だけど(ギリシャ語の動詞は不定詞じゃなくて直説法・現在・1人称・単数が辞書のみだし語になる)、このギリシャ語の be 動詞の現在形は2人称単数の εἶ [êː エ~]をのぞいてほかはみんな まえより語だ。εἶ は1音節で、ほかの変化形はみんな2音節だから、2音節の変化形が まえより語だっていってもいい。

まえより語だから まえより語のアクセントの規則にしたがうことになるわけだけど、εἰμί の現在形のアクセントについてはいろいろ問題があって、たとえばシャルル・ギロー(有田潤訳)『ギリシア文法 [改訳新版]』(文庫クセジュ、白水社)には「この慣用は複雑かつ恣意的で,またあいまいな場合もある」なんてかいてある。Michel Lejeune “Précis d'accentuation grecque” (Hachette)にも にたようなことがかいてあって、そこで説明してる規則にしても、唯一のただしい規則じゃなくて ひとつの ただしい規則だ、なんてかきそえてる。

εἰμί の現在形のなかでもとくに3人称単数の ἐστί(ν) [estí(n) エスティ(ン)]のアクセントには問題がおおい。ただそれについては次回の「まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(4) 「ΕΣΤΙ」」にまわすことにして、いまはこの動詞のまえに否定の οὐκ [uːk ウーク](英語の not)がくるばあいのアクセントについてみてみることにする。

まえより語のアクセントの規則からすると、この動詞のほうにはアクセントがなくなって οὐκ にアクセントがついて、οὔκ εἰμι とか οὔκ ἐστι(ν) になるはずだ。ところがどうもそうじゃないらしい。

これについては入門書にも文法書にもあんまりかいてない。外国のものでもそうだ。っていっても3人称単数が οὐκ ἔστι(ν) になるっていうのだけはどの本にもでてくる。でもこの3人称単数と まえより語じゃない2人称単数をのぞいた変化形について、οὐκ につづくときのアクセントの説明がある本はすくない。

そんななかでめずらしく田中利光『新ギリシャ語入門』(大修館書店)には「οὐκεἰμί からアクセントを奪わない(οὔκ εἰμι とはならない)もののようである」ってかいてある(なんかおもしろい口調だけど)。でも εἰμί の説明だけで、ほかの変化形のことはでてこない。

それに対してもっとはっきりこのことを説明してる本がある。それは Maurice Balme & Gilbert Lawall “Athenaze: An Introduction to Ancient Greek. Book I (Second Edition)” (Oxford University Press)で、これには、単数の2人称と3人称以外の変化形もアクセントはなくならないし、οὐκ にはアクセントがつかないってちゃんとかいてある。それに οὐκ つきの現在形の一覧表もある。これにならってここにもその一覧表をあげておくことにする(単数・1人称、2人称、3人称、複数・1人称、2人称、3人称の順)。

   οὐκ εἰμί [uːkeːmí ウーケ~ミ]
   οὐκ εἶ [uːkêː ウーケ~]
   οὐκ ἔστι(ν) [uːkésti(n) ウーケスティ(ン)]
   οὐκ ἐσμέν [uːkezmén ウーケズメン]
   οὐκ ἐστέ [uːkesté ウーケステ]
   οὐκ εἰσί(ν) [uːkeːsí(n) ウーケ~スィ(ン)]

これとちがって まえより語のアクセントの規則にしたがってアクセントをうしなうばあい(例として μέν [mén メン]につづくとき)もあげておこう。ただし2人称単数は まえより語じゃないから、これだけはほかとちがってる。

   μέν εἰμι [méneːmi メネ~ミ]
   μὲν εἶmén êː メネ~]
   μέν ἐστι(ν) [ménesti(n) メネスティ(ン)]
   μέν ἐσμεν [ménezmen メネズメン]
   μέν ἐστε [méneste メネステ]
   μέν εἰσι(ν) [méneːsi(n) メネ~スィ(ン)]

μέν のアクセントはつぎに まえより語じゃない単語がつづくときは重アクセントになるから、2人称単数の μὲν εἶ のばあいはそうなってる。ほかは まえより語がつづくから鋭アクセントのまんまだ。

εἰμί の2音節の変化形は οὐκ のあと以外でも、ほかの まえより語とおんなじ規則にしたがってアクセントをたもつばあいがある。ひとつは文の最初とか句読点のあとにでてくるときで、εἰμίἔστι(ν)ἐσμένἐστέεἰσί(ν) になる。それからまえの単語のうしろから2番めの音節の母音に鋭アクセントがあるときもアクセントがある。このばあい3人称単数は ἔστι(ν) じゃなくて ἐστί(ν) になる。さらに、まえの単語の最後の母音が省略されたときもアクセントをたもって、δ’ εἰμίταῦτ’ ἐστί(ν) っていうふうになる。このばあいも3人称単数のアクセントは ἐστί(ν) っていうふうに最後の音節にある。

εἰμί の まえより語の変化形にアクセントがあるばあい、ἔστι(ν) をのぞいてみんな最後の音節に鋭アクセントがあるわけだけど、これはとうぜんアクセントの規則にしたがって、つぎに まえより語じゃない単語がつづくばあいは重アクセントにかわる。

εἰμί のアクセントの規則としてはいちおうこれでいいはずだけど、「この慣用は複雑かつ恣意的であり,またあいまいなばあいもある」っていうだけあって、はなしはこれだけじゃおわんない。まちがいだっていっていいのかどうかわかんないけど、校訂本のなかには οὔκ εἰμι っていうふうに οὐκ のほうにアクセントをつけてるのが実際にある。

とくに目だつのは Alfred Rahlfs 校訂の “Septuaginta” (セプトゥアギンタ、七十人訳)だ。3人称単数が規則どおりの οὐκ ἔστι(ν) になってるほかは、2音節の変化形はみんな οὐκ のほうにアクセントがついてる。これはもうこういう方針だとでもいうしかないのかもしれない。いくつか例をあげると『ゼカリア書』13.5とか『ホセア書』1.9に οὔκ εἰμι、『創世記』42.31とか『士師記』12.5に οὔκ ἐσμεν、『コヘレトの言葉』(これは新共同訳のタイトルで、口語訳なら『伝道の書』)9.5、9.16とか『エレミヤ書』30.17、30.26に οὔκ εἰσιν がある。

ほかの本の例もみてみよう。

οὔκ εἰμι はリューシアースの『弁論集』の Umberto Albini の校訂本で第24弁論の13と14にそれぞれでてくる。レクラム文庫の „Lysias: Drei ausgewählte Reden“ の原文は Oxford Classical Texts の C. Hude の校訂本をもとにしてるんだけど、これをみるとどっちも οὐκ εἰμὶ だから、こっちのほうがただしいとはおもうんだけど。

οὔκ ἐστι(ν) は、ネットでみると、ギリシャ正教関係のものにいくつもみつかった。こういう伝統でもあるのかな。新約聖書の引用でも οὔκ ἐστι(ν) になってるんだけど、その部分を新約聖書のいまの校訂本でみてみたら規則どおりの οὐκ ἔστι(ν) だった。

Clyde Pharr (rev. John Wright) “Homeric Greek: A Book for Beginners” の556節には、ἐστί(ν)οὐκ のあとにくるとアクセントが最初の音節につく、つまり ἔστι になるってちゃんと説明があるんだけど、216節の練習4に Χρῡσηίς οὔκ ἐστι っていうのがでてくる。Χρῡσηίς のアクセントが重アクセントのはずだっていうのもあるけど、この οὔκ ἐστι はどうなんだろ。それに311節の練習3にも οὔκ ἐστιν っていうのがある。まちがいだってことならはなしはかんたんなんだけど、けっこう版をかさねてるし改訂もされてるわけで、それでもみのがされちゃったのかな。そうじゃなくて、これはこういうもんなのかな。

οὔκ ἐσμεν は、E. J. Goodspeed 校訂のユースティーノスの『第一弁明』13.1とか、H. Görgemanns と H. Karpp 校訂のオーリゲネースの『諸原理について』3.1.16にある。

οὔκ ἐστε は Oxford Classical Texts のプローティーノスの『エンネアデス』I.8の7.10にでてくる。

οὔκ εἰσι(ν) は Loeb Classical Library のプルータルコスの『倫理論集』1048dと1049eにある。1049eの注によると写本のアクセントもこうなってるらしい。1049eのほうはエウリーピデースの「断片」292の一部で、その後半は οὔκ εἰσιν θεοί (それは神がみではない)っていう文章なんだけど、これとまったくおんなじ文章が七十人訳の『エレミヤの手紙』にもなん度もでてきて、Rahlfs の校訂本だと上にかいたみたいにこことおんなじ οὔκ εἰσιν 」っていうアクセントだ。

M. R. Dilts 校訂のアイリアーノスの『ギリシャ奇談集』3.12と、A. Meineke 校訂のストラボーンの『地誌』9.3.1、12.3.27にも οὔκ εἰσι がでてくる。それから J. L. Heiberg 校訂のエウクレイデースの『原論』にもいくつもでてくる。こうしてみると οὔκ εἰσι(ν) はほかの変化形よりおおいのかもしれない。

[レクラム文庫、新約聖書、七十人訳(Rahlfs)、プルータルコス『倫理論集』(Loeb)、プローティーノス(OCT)以外の校訂本はネットでみた]

まえより語:前より辞、前接語、前接辞、後倚辞。 リューシアース:リュシアス。 ユースティーノス:ユスティノス。 オーリゲネース:オリゲネス。 プローティーノス:プロティノス。 エンネアデス:エネアデス。 プルータルコス:プルタルコス、プルターク。 倫理論集:モラリア。 エウリーピデース:エウリピデス。 アイリアーノス:アイリアノス。 ストラボーン:ストラボン。 エウクレイデース:エウクレイデス、ユークリッド。

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2008.05.21 kakikomi; 2010.12.27 kakitasi

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