« まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(3)
「ΕΙΜΙ」の現在形
| トップページ | 活用する外来語 »

まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(4) 「ΕΣΤΙ」

古典ギリシャ語(古代ギリシャ語)の動詞 εἰμί [eːmí エ~ミ]の直説法・現在・3人称・単数の ἐστί(ν) [estí(n) エスティ(ン)]は、英語でいえば is にあたるものだけど、このアクセントについてはいろいろ問題がある。そのうちのいくつかについては前回の「まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(3) 「ΕΙΜΙ」の現在形」でとりあげた。ここではとくに ἔστι(ν) [ésti(n)]っていうふうに最初の音節にアクセントがあるばあいをみてみよう。

どういうばあいに ἔστι(ν) になるかっていうと、

 ・文のはじめとか詩の行のはじめにあるとき
 ・非人称で不定詞をともなって「可能である」という意味のとき
 ・εἰ, καὶ, μὴ, οὐκ, ὡς, ἀλλ’ (ἀλλά), τοῦτ’ (τοῦτο) のあとにあるとき

とりあえずはこれくらいがどの本にもかいてあることで、そのほかによくでてくることとしては、

 ・「存在する」という意味のとき

つまり「~である」って意味じゃなくて「~がある、いる」っていう意味のとき、ってことだけど、この条件がかいてある本もおおい。これに関連して ἔστιν ὅςἔστιν οἵἔστιν ὅτεἔστιν ὅπουἔστιν ὅπως っていうふうに関係詞がつづくいいまわしのとき、っていうのもある。これは、たとえば ἔστιν οἵ っていうのは英語に訳せば some ってことになるんだけど、もともと「~のひとがいる」ってことで、この ἔστιν は「存在する」って意味だからこのアクセントになる。

それから「意味が強調されてるとき」っていうのがかいてある本もあるけど、ほかの まえより語にしても強調があるとアクセントをとるのがあるから、それとおんなじようなもんだ。とくにこの動詞については「可能」とか「存在」の意味のときっていうのは意味が強調されてるようなもんだから、このばあいにふくまれるっていえるかもしれない。それから「文のはじめ」っていうのにしても、ことばを強調するときには文の最初におくことがよくあるから、やっぱりこれも強調の一種だっていえるだろう。ただしそれ以外の強調っていうのはちょっとひっかかる。

英語の be 動詞のことをかんがえてみると、強調するときはイタリックになってたりする。このばあいは著者がそういうふうにするわけで、ほかのだれかの解釈でイタリックにするわけじゃない。ところがギリシャ語の古典のばあい、強調したかたちのアクセントを著者自身がかきこんでるわけじゃなくて、いまの校訂者の判断だったりするわけだから、強調ってことでアクセントをかえちゃうのはどうなんだろ。

さて、これでいちおう ἔστι(ν) になる条件をひととおりあげたから、つぎにひとつずつ問題点をみていくことにする。っていっても最初のふたつ、つまり「文のはじめ」と「可能」っていう意味のときについてはとくに問題はない。「文のはじめ」っていうのにはコンマのあともふくまれる。ついでにいうと「可能である」っていう意味の動詞としては、おんなじように非人称で不定詞をとる ἔξεστι(ν) っていうのもある(これは ἐξ + ἐστί(ν))。

いろいろあるのはそのあとのふたつで、まずは「εἰ, καὶ, μὴ, οὐκ, ὡς, ἀλλ’, τοῦτ’ のあと」についてだけど、とくに問題なのは ἀλλάτοῦτο だ。ἔστι(ν) が母音ではじまってるから、母音連続をさけるためにそれぞれの最後の母音が省略されて ἀλλ’τοῦτ’ になることがよくある。本によってはこういうふうに母音が省略されたとき ἔστι(ν) になるってかいてあるのもあるんだけど、そうじゃなくて ἀλλ(ά)τοῦτ(ο) っていうようにあいまいなのとか、母音が省略されてない ἀλλάτοῦτο のあとっていうのをふくめてるのもある。

実例をみてみると、まず ἀλλ’ ἔστι(ν) はたくさんある。でも、なかにはアクセントがちがってるものもあって、たとえば Richard Jebb 校訂のソポクレースの『コローノスのオイディプース』28行に ἀλλ’ ἐστὶ っていうのがでてくる。これは、まえの単語の最後の母音が省略されたときの まえより語のアクセントで、たしかにまえの単語が ἀλλ’τοῦτ’ 以外のときには ἐστί(ν) もこういうアクセントになることになってる(まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(3) 「ΕΙΜΙ」の現在形」)。

ほかにもアリストテレースの『たましいについて』406b15に ἀλλ’ ἐστὶν がある。ただしこれはいくつかあるネットでみた本文のはなしで、Loeb Classical Library だと ἀλλ’ ἔστιν になってる。あと W. D. Ross 校訂のアリストテレースの『政治学』1278a、1286aにも ἀλλ’ ἐστὶν がでてくる。

メナンドロスの『気むずかし屋』400行にも ἀλλ’ ἐστὶν がある。これは、F. H. Sandbach の校訂本をもとにしたレクラム文庫の原文でも Loeb Classical Library のでもおんなじだ。

つぎに τοῦτ’ ἔστι(ν) については、新約聖書の『フィレモンへの手紙』12節に τοῦτ’ ἔστιν があって、いまの校訂本はこのとおりになってるんだけど、10世紀の写本には τοῦτεστι になってるのがある。この τοῦτ’ ἔστιν は「つまり、すなわち」っていう熟語みたいなものだから(τοῦτ’ ἔστιν が全部そうだとはかぎらないけど)、これをひとつの単語みたいにかいて -εστι の部分にはアクセントがない。実際にこういう発音があったのかもしれない。アクセントの規則には違反してるけど、後半に まえより語がくっついた不定関係代名詞 οὗτινοςοὗ + τινος)とかとおんなじことだともいえる。ただしこの熟語がひとつの単語としてかかれるばあいにはふつう τουτέστι になる。

で、校訂本で τοῦτ’ ἔστι(ν) っていうアクセントになってないのはけっこうおおい。まずは Richard Jebb 校訂のソポクレースの『コローノスのオイディプース』1176行に τοῦτ’ ἐστὶ がある。ἀλλ’ ἐστὶ にしてるのとおんなじやりかただ。

Oxford Classical Texts のプラトーン全集をみると、『パイドーン』58A10には τοῦτ’ ἔστι がある。ところが『プロータゴラース』をみると、325A3、329D1、357E2、358C2に τοῦτ’ ἐστὶν、345D6に τοῦτ’ ἐστὶ がでてくる。

Oxford Classical Texts のクセノポーン全集で『ギリシャ史』2.3.46と『馬術について』10.11には τοῦτ’ ἐστὶ がある。

W. D. Ross 校訂のアリストテレースの『政治学』1252b、1259bには τοῦτ’ ἐστὶν、1259a、1278b、1281aには τοῦτ’ ἐστὶ がでてくるし、おんなじ校訂者のアリストテレースの『弁論術』1360b、1375b、1378a、1403aには τοῦτ’ ἐστὶν、1375a、1382aには τοῦτ’ ἐστίν、1376aには τοῦτ’ ἐστὶ がある。ただし1402aだけ τοῦτ’ ἔστιν だ。Loeb Classical Library の『弁論術』もほとんどおんなじなんだけど、1402aのとこは τοῦτ’ ἐστίν になってる。あと R. Kassel の校訂本をもとにしたレクラム文庫の『詩学』1452b35には τοῦτ’ ἐστὶ がある。

それから Loeb Classical Library のメナンドロスの『幽霊』20行には τοῦτ’ ἐστὶ、『サモスの女』669行には τοῦτ’ ἐστίν がでてくる。F. H. Sandbach の校訂本をもとにしたレクラム文庫の『サモスの女』669行もこれとおんなじだ。

つぎに ἀλλάτοῦτο のばあいだけど、母音の省略があるとき ἔστι(ν) になるってかいてある本にしたがえば、母音が省略されてなけりゃほかの まえより語とおんなじ規則があてはまるわけで、そうだとすると ἀλλά ἐστι(ν)τοῦτό ἐστι(ν) になるはずだ。実際に F. Spiro 校訂のパウサニアースの『ギリシャ案内記』1.34.2には ἀλλά ἐστιν があるし、Oxford Classical Texts のプラトーンの『ゴルギアース』483C4、503A5には τοῦτό ἐστιν がでてくる。

ほかにも W. D. Ross 校訂のアリストテレースの『弁論術』1362a、1374bには τοῦτό ἐστιν、1366aには τοῦτό ἐστι がある。ただし1374bのとこは Loeb Classical Library の『弁論術』だと τοῦτο ἐστίν になってて、これだと まえより語のアクセントじゃなくなってる。

それじゃあ ἀλλάτοῦτο のあとで ἔστι(ν) になってるのはないのかっていうと、それがちゃんとある。

Oxford Classical Texts のプラトーンの『クラテュロス』406B8とかアリストテレースの『形而上学』1087a14には ἀλλὰ ἔστι がでてくるし、Ph.-E. Legrand の校訂本をもとにしたレクラム文庫のヘーロドトスの『歴史 第2巻』2.156.4とか、Oxford Classical Texts のプラトーンの『法律』829A6には τοῦτο ἔστι がある。それから F. Spiro 校訂のパウサニアースの『ギリシャ案内記』8.25.3にも τοῦτο ἔστι がでてくる。

Oxford Classical Texts のプローティーノスの『エンネアデス』I.1.6.4には τοῦτο, ἔστι ってとこがあるんだけど、おんなじ校訂者のこれよりまえの校訂本だとここは τοῦτό ἐστι, だった。句読点の位置をかえたことでアクセントもかわったわけだ。このふたつの単語がコンマでくぎられてないと まえより語のアクセントの規則どおりになるけど(つまり ἔστι にはならないほうのやりかた)、コンマがはいったから文のはじめってことで ἔστι になった。

のこりの5つのうち οὐκ については「まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(3) 「ΕΙΜΙ」の現在形」にかいたから、あとの4つについてだけど、まず εἰ ἔστι(ν) になってないものとしては、ギリシャ教父とかのギリシャ正教関係のもので εἴ ἐστι(ν) とか εἰ ἐστι(ν) っていうのをネットでみかけることがある。これもやっぱりこういう伝統でもあるのかな。

καὶ ἔστι(ν) になってない例として目だつのは J. L. Heiberg 校訂のエウクレイデースの『原論』で、καί ἐστι(ν) がかぞえきれないほどでてくる。

μὴ ἔστι(ν) になってない例としては、これも上とおんなじエウクレイデースの『原論』に μή ἐστι(ν) っていうのがいくつかでてくる。それから Loeb Classical Library のアリストテレースの『小品集』にある『人相学』807α6、807α27にも μή ἐστι があるし、Diels/Kranz の『ソークラテース以前の哲学者断片集』のゴルギアースのとこ(82 B 3, 74)にも μή ἐστιν がある。

ほかに Loeb Classical Library のヘーロドトスの『歴史』8.61.1には μὴ ἐστὶ っていうのがでてくるし、Alfred Rahlfs 校訂の “Septuaginta” (セプトゥアギンタ、七十人訳)にふくまれる旧約聖書続編の『シラ書〔集会の書〕』19.8には μή ἐστίν σοι っていうのがある。

ὡς ἔστι(ν) になってない例としては、ギリシャ教父のもので ὥς ἐστι っていうのと、なにかの写本の断片のテキストで ὥς ἐστιν っていうのをネットでみかけた。それから、こういうのとはべつものだけど、ホメーロスの『イーリアス』第3巻60行 αἰεί τοι κραδίη πέλεκυς ὥς ἐστιν ἀτειρὴςὥς ἐστιν がある。ただしこの ὥς (~のように)はまえの πέλεκυς (もろ刃のオノ)にかかってて、名詞のあとにくるときには鋭アクセントをとる。だからただの ὥς ἐστιν っていうつながりとはちょっとちがう。

こうしてみると「εἰ, καὶ, μὴ, οὐκ, ὡς, ἀλλ’ (ἀλλά), τοῦτ’ (τοῦτο) のあと」っていう条件もなかなか一筋縄にはいかない。「この慣用は複雑かつ恣意[しい]的であり,またあいまいなばあいもある」っていわれてるだけあって、どうもこの条件でかならず ἔστι(ν) になるとはいえないみたいだ。もちろん文章によっては意味がつながってないこともあるだろうから、そのばあいはちがうってことなのかもしれないけど、文法書なんかにかいてある説明だと、どんなばあいでもこういう単語のあとにくれば ἔστι(ν) になるっていうふうによめる。それとも、ほんとはそうなるはずなんだけど、そのことに気がついてないとか、無視してるとか、ちがう方針だとか、そういう校訂者がいるってことなのかな。

さてつぎに「存在する」の意味のとき ἔστι(ν) になる、っていうのをみてみよう。

このやりかたについては LSJ って略されたりするリデル・スコットつまり Liddell & Scott (rev. by Jones & McKenzie) “Greek-English Lexicon (Ninth Edition)” (Oxford University Press)にはっきりと “later Gramm. wrote ἔστι as Subst. Verb” ってかいてある。つまり存在をあらわすばあいに ἔστι っていうアクセントにするのは、あとからできた習慣ってことだ。だからだろうけど本によってはこの条件をかいてないものもある。

そういうわけで、この辞書の用例だと「存在する、~がある、いる」の意味のときも ἔστι(ν) にはなってない。たとえばエウリーピデースの『ヒッポリュトス』1162行の οὐκέτ’ ἐστί (かれはもういきていない)とか、おなじくエウリーピデースの『トロイアーの女たち』1292行の οὐδ’ ἔτ’ ἐστὶ Τροία (もうトロイアーはない)とかがそうなんだけど、ほかにもアリストパネースの『女だけの祭』193行の τί ἐστιν; (なんですか、どうかしましたか)なんていうのもある。この ἐστιν は「おこる、生じる」の意味で、たんなるつなぎことば(copula)じゃなくて「存在」をあらわすばあいの一種だ。それから関係詞がつづくいいまわしでも ἔστιν じゃなくて ἐστὶν ἃ...ἐστὶν οἵἐστὶν ἐν οἷςἐστὶν ἔνθα っていうふうになってる。もちろんこのいいまわしが文のはじめにきたらアクセントは ἔστιν οἵ になるし、まえに οὐκ がきたら οὐκ ἔστιν οἵ になる。

おもしろいことに、この辞書の中型版と小型版のほうはアクセントがちがってる。中型版(Liddell & Scott “An Intermediate Greek-English Lexicon” )だと上とおんなじ用例が οὐκέτ’ ἔστιοὐδ’ ἔτ’ ἔστι Τροία になってて、関係詞がつづくいいまわしもなぜか ἐστὶν ἅ だけはこうだけど、ほかは ἔστιν οἵ とかになってる。小型版(Liddell & Scott “Abridged Greek-English Lexicon” )のほうは用例として οὐκέτ’ ἔστι があって、そのほかに ἔστιν οἵ とかがのってる。中型版と小型版が大型版のふるい版をもとにしてて、大型版とちがってあたらしくなってないからだろう。

LSJ の用例にあったアリストパネースの『女だけの祭』193行については Loeb Classical Library のふるい版とあたらしい版でもアクセントのちがいがある。ふるい B. B. Rogers の版だと τί ἔστιν; なんだけど、あたらしい J. Henderson の版だと τί ἐστιν; にかわってる。あたらしいほうは「存在」の意味のときに ἔστιν にするってやりかたをしてないわけだ。

[レクラム文庫、新約聖書、七十人訳(Rahlfs)、Diels/Kranz „Vorsokratiker“、プラトーン(OCT)、アリストテレース『形而上学』(OCT)、アリストテレース『たましいについて』『弁論術』『小品集』(Loeb)、アリストパネース(Loeb)、メナンドロス(Loeb)以外の校訂本はネットでみた。写本は実物じゃなくて本にのってる写真をみた]

まえより語:前より辞、前接語、前接辞、後倚辞。 ソポクレース:ソフォクレース、ソポクレス、ソフォクレス。 コローノス:コロノス。 オイディプース:オイディプス、エディプス。 アリストテレース:アリストテレス。 プラトーン:プラトン。 パイドーン:ファイドーン、パイドン、ファイドン。 プロータゴラース:プロタゴラス。 クセノポーン:クセノフォーン、クセノポン、クセノフォン。 パウサニアース:パウサニアス。 ゴルギアース:ゴルギアス。 ヘーロドトス:ヘロドトス。 プローティーノス:プロティノス。 エンネアデス:エネアデス。 エウクレイデース:エウクレイデス、ユークリッド。 ソークラテース:ソクラテス。 ゴルギアース:ゴルギアス。 ホメーロス:ホメロス、ホーマー。 イーリアス:イリアス、イリアッド。 エウリーピデース:エウリピデス。 トロイアー:トロイア、トロイ。 アリストパネース:アリストファネース、アリストパネス、アリストファネス。

関連記事
 ・まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(1) まえの単語がアクセントをうけとるばあい
 ・まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(2) まえより語がつづくとき
 ・まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(3) 「ΕΙΜΙ」の現在形
 ・古典ギリシャ語のアクセントの規則
 ・「まえより語(enclitic)」「あとより語(proclitic)」
 ・ギリシャ語の動詞の「後退的」アクセントと「後倚辞」「前倚辞」

2008.05.24 kakikomi; 2011.08.17 kakinaosi

|

« まえより語(enclitic)のアクセントの問題点(3)
「ΕΙΜΙ」の現在形
| トップページ | 活用する外来語 »