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いろはうた(1) とりあえずどういう意味か

1行め「いろは…」の解釈][2行め「わかよ…」の解釈][3行め「うゐの…」の解釈][4行め「あさき…」の解釈][現代語訳(翻訳)][4行めの「みじ」について][いろはうたと空海][「とかなくてしす」の暗号

「いろは歌」っていうのは、かな文字47字を全部1回だけつかった七五調の今様いまようの形式になってて、七五調にあわせたかたちでかけば、こうなる。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

ただし、七五調としては「わかよたれそ」のとこが ひと文字たりない。

文章としてよむには濁点をつけたほうがわかりやすいし、単語のきれ目もわかったほうがいいだろうから、濁点をつけて単語でわかちがきすると(古文のわかちがき」)、

いろ は にほへど ちりぬる を
わ が よ たれ ぞ つね ならむ
うゐ の おくやま けふ こえて
あさき ゆめ みじ ゑひ も せず

ってことになるけど、ついでにローマ字でもかいてみると、

Iro fa nifofedo tirinuru wo,
Wa ga yo tare zo tune naramu.
Uwi no okuyama kefu koete,
Asaki yume mizi, wefi mo sezu.

になる。古文だから「を」は wo にしたし、ハ行には f をつかった。ただし、この f の発音は英語とかの[f]じゃなくて、いまの日本語の「フ」の子音によくでてきて(「フ」の子音はほかの音のばあいもある)、外来語の「ファ」とかにもつかわれる音で、発音記号だと[ɸ]であらわされる。

さらについでに、いまのよみかたでローマ字にしてみよう。まずは訓令式。

Iro wa nioedo tirinuru o,
Wa ga yo tare zo tune naran.
Ui no okuyama kyô koete,
Asaki yume mizi, ei mo sezu.

つぎはヘボン式。

Iro wa nioedo chirinuru o,
Wa ga yo tare zo tsune naran.
Ui no okuyama kyō koete,
Asaki yume miji, ei mo sezu.

さらに、このサイトでつかってるやりかたでもあげておこう(服部四郎の新日本式をもとにしたもの)。

Iro wa nioedo cirinuru o,
Wa ga yo tare zo cune narañ.
Ui no okuyama kyoo koete,
Asaki yume mizi, ei mo sezu.

つまり、いまの発音だと いろはうたは こうよむ。

イロ ワ ニオエド チリヌル オ
ワ ガ ヨ タレ ゾ ツネ ナラン
ウイ ノ オクヤマ キョー コエテ
アサキ ユメ ミジ エイ モ セズ

で、たいていは いろはうたに漢字をあてて、それで意味までわかったことにしちゃってる場合が多い。でも実際には解釈がいろいろあるから、漢字をあてただけじゃ、話は終わらないはずだ。漢字さえ見れば、それで意味がわかったみたいな感じがしちゃうっていうのはよくあることだから、ここにもそんなことがあらわれてるんじゃないかともおもうんだけど、それだけじゃなくて、はっきりした解釈をさけるために、漢字をあてただけですませてるのかもしれない。

ここでは、あえてそういうことはしないで単語の意味をみていこうとおもう。もちろん、現代語とおんなじ意味のものはいちいち説明しない。

1行め「いろはにほへとちりぬるを」の解釈

まずは「にほへど[ニオエド]」。これは動詞「にほふ[ニオウ]」の逆接条件のかたちで、「…けれども、…のに」って意味の逆接の確定条件と、「…ても」の意味の逆接の恒常条件のばあいがあるけど、ここは恒常のほうだろう。「そういうふうにしたところで、けっきょくは いつもつぎのようなことになっちゃう」ってことだ。「にほふ」の意味は現代語とちがってて、ここじゃもともとの意味でつかわれてる。「におう」っていえば、鼻で感じるもののことだけど、最初は目でみることについていわれてて、「色がきわだつ、あざやかに色づく」ってことで、とくに赤とかのあざやかな色のことをいってた。「にほふ」の「に」は赤土の意味の「に(丹)」で(赤の顔料とか赤い色のことでもある)、「ほ」は「稲穂」の「穂」とかとおんなじで「目だつとこ、ぬきんでてあらわれてるとこ」、それから「ふ」は動詞をつくる語尾で、「赤い色が目だつようになる、色が赤く うきでる」って意味だったらしい。

「ちりぬる」は、動詞「ちる」の完了のかたち「ちりぬ」の連体形。つぎに「を」があるから連体形になってるんだけど、その「を」は間投助詞(または終助詞)の「を」だろう。感動・詠嘆をあらわしてる。間投助詞の「を」はおもに上代のことばだけど、平安時代にもつかわれてた。「を」はこういうふうにもともとは間投助詞で、それが接続助詞とか現代語の「を」みたいな格助詞にもなった。ここは接続助詞ともかんがえられるかもしれない。

この1行めは、「花は色あざやかにさいても、結局は散ってしまうものだ」って訳せるだろう。「を」を接続助詞ってかんがえるなら、「散ってしまうのだから」とかになるのかもしれないけど、それだとつぎの行とあんまりうまくつながらないとおもう。それとか、内容的には「散ってしまうように」ってやりたくなるけど、「を」にそういう意味はない。「を」を無視して、ただ「散ってしまう」でやめてる訳もあるけど、それだってわるくないかもしれない。

2行め「わかよたれそつねならむ」の解釈

「わ が よ」は「わたしの世」だけど、「わたしが生きているこの世」ってことだろう。「たれ」は「だれ」。近世になって現代語とおんなじ「だれ」になった。「ぞ」は現代語にもあるけど、強調の意味で、これをうける用言は連体形になる。いわゆる係り結びだ。この「わ が よ たれ ぞ」はちょっと問題があるみたいで、「わ が よ」っていうのがそもそもヘンだって話もあるけど、それよりも「ぞ」がおかしい。この文章だったら「たれ か」がふつうのいいかただ。かなを1回だけ全部つかうってことで、ところどころ無理がある。

「ならむ」は、動詞「なり」の推量とか意志とかをあらわすかたち「ならむ」の連体形。っていっても、終止形とおんなじだけど。連体形になってるのは、そのまえに「ぞ」があって係り結びになってるからだっていうのは、上にかいたとおり。ここの意味は意志じゃなくて推量のほうで、「だろう」ってことだ。「ならむ」は発音が「ナラム ナラン ナラウ ナロー」ってかわってって、現代語の「なろう[ナロー]」になったんだけど、これは現代語としては意志の意味がふつうになってる。かきことばとか、ふるい感じのいいかたなら「なろう」を推量の意味でつかうこともあるけど、たいていは助動詞をつかって「なる だろう」っていってる。

2行めは全体としては反語で、古文の定番の訳しかたをすれば、「わたしが生きているこの世で、だれがいつまでも変わらないだろうか。いや、そんな人はだれもいない」って感じになるだろう。「たれ ぞ」だから「だれが」って訳したけど、この訳だとちょっとぎこちない感じがするかもしれない。でもそれは原文そのものがそんな感じだからだ、…ってことにしておくことにして、これが「たれ か」だったら、「だれか、いつまでも変わらない人がいるだろうか。いや、いない」とでもなって、こっちのほうが訳としてもなめらかになるとおもう。

3行め「うゐのおくやまけふこえて」の解釈

「うゐ[ウイ]」は、いろはうたにでてくる ただひとつの漢語で、漢字でかけば「有為」だ。これは仏教用語で、サンスクリット語の संस्कृत saskta [サンスクリタ]の翻訳語なんだけど、「有為」って訳されたこのことばの意味は「因(原因)と縁(条件)によって生じたもの」ってことだ。ちなみに、संस्कृत [サンスクリタ]には「洗練された言語、純正な言語、完成された言語」って意味もあって、俗語に対する雅語のことなんだけど、これがそのまんま言語の名前になってサンスクリット(Sanskrit)語っていわれてる。

「有為」は要するにこの世とかこの世の現象のことをいってて、それは因と縁がむすびついてできあがってるだけのものだから、一時的なものにすぎない。そんなたよりにならないこの世のことを、たどる道もなくて、こえにくい山奥にたとえたのが「うゐ の おくやま」っていういいまわしだ。「やまおく」ってことばは近世以後にできた。

「けふ[キョー]」は今日の「きょう」。「けふ」の「け」は「けさ(今朝)」の「け」とおんなじで、「ふ」のほうは「きのふ[キノー](昨日)」の「ふ」とおんなじだっていわれてる。この行を訳せば、「山奥のようなこの世を、きょう こえていって」で、この世をこえるっていうのは、さとりをひらくってことだろう。

ところが、この行にはちがう解釈があるみたいで、ここを、さとりをひらくっていうんじゃなくて、この世を生きてくって意味にとるらしい。「人生の山道をきょうもこえていく」って感じの解釈なんだけど、奥山を「こえて」っていうのは、この世をただ生きてくだけのことなのかな。「こえて」はこの世を超越することだとおもうんだけど。それに、そうじゃないと「けふ」っていうのがおかしいとおもう。この手の解釈はたいてい「きょうも」って訳してる。「も」がつくのは、この世を生きてくのが「きょう」だけのことじゃなくて毎日だからだろう。でも、原文は「けふ」だけで「も」なんてものはないんだから、「きょう」っていう1回かぎりのことをいってるんじゃないのかな。そういう意味じゃ、「きょう」のあとに補うことばとしては、「も」じゃなくて「こそ」のほうがふさわしいような気がする。「きょうこそ、この世をこえて」ってことで。

4行め「あさきゆめみしゑひもせす」の解釈

「あさき」は、形容詞「あさし」の連体形。「みじ」は、動詞の「みる」のうちけしの推量とか意志をあらわすかたち「みじ」の終止形で、「見ないだろう、見ないつもりだ」。「ゑひ[エイ]」は、「酔う」って意味の動詞「ゑふ[エウ/ヨー]」の連用形。「けふ」の発音が「ケフ ケウ キョー」になったことでもわかるけど、母音の「エウ」は「ヨー」にかわったから、「ゑふ」も「ウェフ ウェウ イェウ ヨー」になって、現代語の「よう」になった。ただし現代語の動詞「よう」は「ヨー」じゃなくて「ヨウ」だけど。それと、古文の「ゑふ」の現代式のよみは「エウ」のほかに「ヨー」がある。「おこなふ」を「オコナウ」じゃなくて「オコノー」ってよむことがあるのとおんなじことだ。「せず」は、現代語の「する」にあたる動詞「す」の打ち消ししのかたちで終止形。

そうすると4行めは、「浅はかな夢を見ないだろう。酔いもしない」ってことになる。訳としてはこれだと ぎこちないけど、原文がそもそもちょっと無理がある感じなんじゃないかな。ただし、「見ないだろう」っていう推量の意味は、一般的な話として解釈したばあいで、主体が1人称つまり「わたし」なら「みじ」の意味は推量より意志のほうがおおいから、「見ないつもりだ、見ないようにしよう」ってことになる。「浅はかな夢を見る」っていうのと「酔う」っていうのは、この世に生きてる状態のことだ。

現代語訳(翻訳)

以上をまとめると、現代語訳としてはとりあえずこんな感じになるとおもう。

花は色あざやかに咲いても結局は散ってしまうものだ。
わたしが生きているこの世でいつまでも変わらない人がだれかいるだろうか(そんな人はいない)。
(このように) はかなくて、たどる道もない山奥のようなこの世をきょう(こそ)こえていって、
(そうすれば)浅はかな夢を見ることは(もはや)ないだろうし、酔うこともない。

これは一般的な話として解釈したばあいで、後半の主体を「わたし」ってかんがえれば、最後の行は、

浅い夢は(もう)見ないつもりだし、酔うこともない。

って訳せるだろう。ただし、一般的な話に自分をふくめることもできるし、主体が1人称でも推量の場合がないわけでもない。

4行めの「みじ」について

ところで、4行めの「みし」を「みじ」じゃなくて「みし」のまんまでよむ解釈があるのを最近知った。でも、それじゃイマイチ意味がつながりにくいとおもう。国語辞典と古語辞典を手あたりしだい調べてみたけど、全部「見じ」になってたし。

「みし」は「みる」の回想(過去)のかたち「みき」の連体形だ。鎌倉時代あたりから、この連体形で文章をおえることがおおくなるけど、平安時代にもそういう例はあるみたいで、文法的には「みし」でもとくに問題はないみたいだ。それでも、「この世を超越して、浅はかな夢を見た」じゃ、つながりがおかしいだろう。さとりをひらいたあとで、なんでこの世の状態に もどっちゃうんだ? さとったあと、むかしの自分を回想してるってことだとしても、文章のつながりがおかしいだろう。「うゐ の おくやま けふ こえて」を「この世をきょうも生きていって」って解釈するんなら、おかしくはないのかもしれないけど、3行めの解釈としてそれはヘンだとおもうから、「みし」っていうのも疑問におもう。

ただし、「この世を超越して」っていうのにつながる解釈ができないこともないかもしれない。「みし」のあとに体言が省略されてるってかんがえて、その体言が「ゑひ も せず」の主格だって解釈するんなら、なんとかなったりして。そうすると、「この世を超越して、(かつて)浅はかな夢を見たわたしは、(もう)酔ったりもしない」って感じになるとおもうけど、これってどうかなあ。「も」がちょっとひっかかる。「浅はかな夢を見ない」っていうのがあって、「酔ったりしない」になるとおもうんだけど、「浅はかな夢を見た」じゃ「も」がおかしくないかな。

「みし」を支持するひとのなかには、いろはうたの後半がこの世を超越することをうたってるっていうのがどうも気にいらない人がいるみたいだ。でも、さとりなんてものを信用しない現代人の感覚で古典をよんでもしょうがないとおもうんだけど。それに、ことばそのものの解釈からしても「みし」は疑問におもうし。

そういえば、『あさきゆめみし』っていう源氏物語のマンガがあるんだっけ。このタイトルのせいで、いろはうたのほうも「みし」だっておもってる人がいるのかもしれない。マンガの作者は、いろはうたが「みし」だっておもってて、こういうタイトルにしたのかな。それとも、源氏物語は、そこらの文学とおんなじで、仏教でいえば迷いの世界をえがいてるわけだから、さとりをひらいた「あさきゆめみじ」じゃなくて、迷いのなかにある「あさきゆめみし」の世界ってことで、こういうタイトルにしたのかな。

いろはうたと空海

いろはうたは真言宗しんごんしゅうの開祖、弘法こうぼう大師だいし空海(774-835)がつくったってはなしがある。いまじゃこれは学問的にはみとめられてない。その理由として、今様の形式は空海のころにはまだなかったってことと、空海のころにはあったはずのア行の「え(e)」とヤ行の「え(ye)」の区別が いろはうたには ないってことがあげられる。それでも、真言宗の僧侶の作だろうって説はある(いろはうた(4) 弘法大師和讃と宗歌」)。

「とかなくてしす」の暗号

いろはうたがでてくる一番ふるい文献は『金光明こんこうみょう最勝王経さいしょうおうぎょうおん』で、これは万葉仮名つまり漢字でいろはがかいてある。ただし七五調を無視して7文字ずつにくぎってる(最後だけ5文字になっちゃうけど)。原文はタテ書きで、大きく書いてある漢字ひとつひとつの下に、小さく別の万葉仮名も書いてあったりするんだけど、とりあえず全部ひらがなで7文字ずつくぎるとこうなる。

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

こういうふうに意味を無視して7文字でくぎるっていうやりかたは、真言宗にも伝わってて、お経をよんだり仏教歌謡をうたったりする練習に7文字くぎりのいろはうたが使われてきた。それに、このくぎりかたは一般にもおこなわれてて、いまでも7文字くぎりでとなえる人がいる。

で、こういうふうにくぎって、それぞれの行の最後の文字をつなげると「とかなくてしす」になる。つまり「とが なくて しす」だ。「悪いことをしてないのに死ぬ」「罪がないのに殺される」ってことだけど、いろはうたに こういう暗号をよみこんで、いろいろ論じてる人もいる。ただし、この「とかなくてしす」はむかしから知られてたらしくて、忠臣蔵の話にも結びつけられてた。

歌舞伎にもなってるじょう瑠璃るりの『仮名手本忠臣蔵』っていう作品の題名にある「仮名かなほん」っていうのは、もともと かなの習字の手本のことなんだけど、いろはうたが習字の手本としてつかわれたことから、いろはうた そのもののこともさすようになった。ここでも「仮名手本」はいろはうたのことで、いろは四十七字を赤穂浪士の四十七士にかけてる。それに「手本」は武士の手本、武士のかがみってことでもある。さらに、四十七士が「とが なくて しす」ってこともふくまれてるっていわれてる。

わかちがき:分かち書き、分ち書き。

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2008.10.06 kakikomi; 2018.11.09 kakinaosi

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