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いろはうた(2) 無常偈

「いろは歌」に関連してよくひきあいにだされるものとして、無常偈[むじょうげ]ってものがある。これはお経にでてくる偈、つまり詩なんだけど、いくつもある漢文訳のなかで日本では大乗の『大般涅槃経[だいはつねはんぎょう]』の聖行品[しょうぎょうぼん]にでてくるものが有名だ。

諸行無常 [しょぎょうむじょう]
是生滅法 [ぜしょうめっぽう]
生滅滅已 [しょうめつめつい]
寂滅為楽 [じゃくめついらく]

いろはうたは、この偈の意訳だとかいわれてるけど、ほんとにそうなのかははっきりしないらしい。とくに、いろはうたに暗号をよみとるようなたちばからすれば、無常偈とはなんの関係もないってことになるみたいだ。まあ、関係があっても、それはそれで暗号でもあるのかもしれないけど。

いろはうたは真言宗との関係がふかい感じだけど、新義真言宗の祖、興教大師[こうぎょう だいし]覚鑁[かくばん](1095-1143)の『密厳諸秘釈[みつごんしょひしゃく]』に「以呂波釈[いろはしゃく]」ってとこがあって、ここに いろはうたを無常偈とむすびつける説明がでてくる。たとえば、「色匂散トハ 諸行無常ナリ」なんていうふうにかいてある。

で、無常偈の意味だけど、そもそもこの漢文訳の訓読が本によってまちまちで、どれがいいのかよくわからない。そこで、漢文訳じゃなくて、原文のほうをみてみることにする。無常偈は小乗仏典にも大乗仏典にもでてくるから、原文としてはパーリ語のとサンスクリット語のがあって、どっちも、シュローカ(श्लोक śloka)っていうインドの代表的な詩の形式になってる。

まずはパーリ語版のほうをみてみよう。パーリ語はスリランカとか東南アジア諸国でそれぞれの文字でかかれてて、パーリ語専用の文字はないから、とりあえずローマ字にした。翻訳はふたつあげておく。

aniccā vata sakhārā uppādavayadhammino /
uppajjitvā nirujjhanti tesa vūpasamo sukho //

アニッチャー ヴァタ サンカーラー、ウッパーダヴァヤダンミノー。
ウッパッジットヮー ニルッジャンティ、テーサム ヴーパサモー スコー。

つくられたものはすべて無常である。生じては滅びる性質のものである。
それらは生起しては滅びる。それらの静まった安らぎこそ安楽である。
(中村元訳『ブッダ 悪魔との対話―― サンユッタ・ニカーヤⅡ』岩波文庫)

つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。
生じては滅びる。これら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。
(中村元訳『ブッダ最後の旅―― 大パリニッバーナ経』岩波文庫)

つぎは、サンスクリット語版。こっちも翻訳をふたつあげておいた(改行は原文にあわせて かえた)。

अनित्या बत संस्कारा उत्पादव्ययधर्मिणः ।
उत्पद्य हि निरुध्यन्ते तेषां व्युपशमः सुखम् ॥

anityā bata saskārā utpādavyayadharmia /
utpadya hi nirudhyante teā vyupaśama sukham //

アニッテャー バタ サンスカーラー(ハ)、ウトパーダッヴャヤダルミナハ。
ウトパッデャ ヒ ニルッデャンテー、テーシャム ヴュパシャマッ スカム。

諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。
それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。
(中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』岩波文庫)

ああ、もろもろの現象は無常である。生じたり滅したりする性質を持っている。
生じてはまた滅する。それらのものが静まれば安楽である。
(渡辺照宏『お経の話』岩波新書)

サンスクリット語が雅語で、パーリ語が俗語っていう関係なんだけど、よくにてるのがわかるとおもう。サンスクリット語を発音しやすいように変化させるとパーリ語になるって感じだ(ラテン語が発音しやすいように変化してイタリア語になったみたいなもんだろう)。文章は基本的にはどっちもかわりなくて、対応してる単語におきかえただけみたいなもんだ。ただし、2行めの最初のほうがちょっとちがってる。パーリ語のほうがふるくて、サンスクリット語にはあとから訳されたんだろうけど、そのとき、パーリ語の uppajjitvā っていう分詞をサンスクリット語の分詞 utpadya に訳して、1音節たりなくなったもんだから、韻律をうめるために hi をおぎなったんだろう。この hi っていう単語は、「なぜなら」とか「たしかに」っていう意味があるんだけど、たんに韻律をうめるためだけにもよくつかわれる。

ほかの単語はみんな音節の数もおんなじで、ただ発音がかわっただけの対応してるものにおきかえただけなのに、ここだけちがってるのは、文法的な理由がある。パーリ語の uppajjitvā とサンスクリット語の utpadya は当然おんなじ意味で、そもそもおんなじ動詞の絶対分詞だ(サンスクリット語の tp、dy はパーリ語だと pp、jj になる)。絶対分詞をつくる語尾は、パーリ語もサンスクリット語もほとんどおんなじで、-(i)tvā とか -ya とかがある。パーリ語の uppajjitvā は -itvā っていう語尾がついてるかたちだから、サンスクリット語にするときもおんなじ語尾のかたちがつかえればよかったんだけど、それが文法的にゆるされない。-itvā はサンスクリット語だと接頭辞がついてない動詞だけにつかわれる語尾で、ここの utpad- は ut- っていう接頭辞がついてるから、-ya っていう語尾にしないといけない。そのために utpadya って訳すことになった。

こまかいことだけど、サンスクリット語版の1行めの saskārā [サンスカーラー]は連声[れんじょう]するまえは saskārā [サンスカーラーハ]っていうかたちだ。つぎの単語が u- ではじまってるから最後の - がとれる。だから、1行めの前半の「諸行無常」のとこをとりだして、この文句だけつかうとしたら、- がつくかたちにしなきゃいけない。それから、シュローカの1行はまんなかにきれ目があって、実際にインド人がよんでるのをきくと、そのきれ目でマをおいて、そのまえにある単語の連声をもとにもどしてたりする。そのことをかんがえにいれて、発音のカタカナがきは「サンスカーラー(ハ)」にしといた。

で、意味をみてみると、無常偈っていわれるぐらいだから、無常をうたってるわけだけど、それでおわらないで、最後にはさとりをひらいた状態のことがでてくる。いろはうたがこれの意訳だっていうのがほんとなら、後半がこの世を超越したことをうたってるって解釈するのはまちがってないことになるだろう。もっとも、意訳とか翻案じゃなくて、ただ関連があるっていうだけなら、いろはうたが無常偈とおんなじ内容じゃなきゃいけないってこともないわけで、無常偈から いろはうたの意味はきめられない。それに、無常偈とはなんの関係もないってことならなおさらだ。ただ、それにしても、文章の意味からして、いろはうたの後半はやっぱり無常偈とおんなじように、さとりをひらいたとこをうたってるとおもう。

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2008.10.07 kakikomi; 2009.03.17 kakikae

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