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学術用語のよみかた

ジェフリー・K・プラム/ウィリアム・A・ラデュサー(土田滋・福井玲・中川裕訳)『世界音声記号辞典』(三省堂)っていう本の「訳者によるあとがき」にこんなことがかいてある。

訳者のひとり土田は服部四郎先生から直接に音声学の手ほどきを受けた。福井と中川はいわば服部先生の孫弟子にあたる。服部先生は学問上の術語がともすると耳で聞いて分からなかったり誤解が生ずることが多いのにふだんからご不満で、なるべく文字に頼らないでも分かるような術語や用語を使うべきであるというお考えだった。服部先生に直接教えを受けた人たちの中に、今でも「硬口蓋」を「こうこうがい」ではなく「かたこうがい」、「軟口蓋」も「なんこうがい」ではなく「やわこうがい」、「歯茎音」を「しけいおん」ではなく「はぐきおん」などと発音する人が多いのは、そのせいである。

学術用語にかぎらないけど、翻訳語をつくるとき、ただ漢字をくみあわせるだけで、よみのことは、つまり発音のことは全然かんがえにいれてないことがほとんどだろう。IT関係の翻訳語をどっかで募集したときも、応募してきた翻訳語はそんなのばっかりで、もともとおんなじよみがあるようなのがいっぱいあった。

かきことばなんだから それでいい、とかいってるひともいるみたいだけど、かきことばのなかでつくられた用語だって、口にだして発音することがないなんてことはないし、専門家どうしのはなしあいだったらとうぜん学術用語がでてくる。そのばあい、専門知識があるひとどうしでも意味がわからなかったり誤解されたりすることがある(専門用語と専門家の文章」)。

で、服部四郎だけど、このひとの『音声学』(岩波書店)っていう本をみると、いろいろと術語のよみをく工夫してあって、さらにローマ字文のための提案もある。すこし例をあげてみよう。

短母音 みじかぼいん
長母音 ながぼいん
長子音 ながしいん
重子音 かさねしいん
口母音 くちぼいん
鼻母音 はなぼいん/びぼいん
広母音 ひろぼいん
半広母音 はんひろぼいん
狭母音 せまぼいん
半狭母音 はんせまぼいん
張唇母音 ひろげくちぼいん
円唇母音 まるくちぼいん
前舌母音 まえじたぼいん
中舌母音 なかじたぼいん
奥舌母音 おくじたぼいん
歯裏音 はのうらおん
歯茎音 はぐきおん
硬口蓋 かたこうがい
軟口蓋 やわこうがい

喉頭 nodobotoke
咽頭 intô, nodoguci
舌根 sita-no-ne
食道 i-no-kuda
口蓋垂 nodohiko
歯音 maeba-on
唇歯音 maeba-kucibiru-on

たとえば「張唇前舌狭母音」(これは[i]のこと)を音よみしたら「ちょうしん ぜんぜつ きょうぼいん」ってことになるけど、この本だと「ひろげくち まえじた せまぼいん」ってよませてる。ことばとして「ちょうしん ぜんぜつ きょうぼいん」より「ひろげくち まえじた せまぼいん」のほうがはるかにいい。ただし、漢字のよみとしてはちょっとムリがあるかな。「張」に「ひろげ」、「唇」に「くち」っていう訓よみをあてるのは いまの習慣にはないだろうし、「ひろげくち」に漢字をあてるんなら「広げ口」だろう。だから、こういうふうにことばをかえるのは賛成だけど、この漢字表記をのこさなきゃいけないとはおもわない。

ただ、この本は、それまでの用語の漢字の字づらはのこしたまんま なんとか工夫しようとしてるみたいだから、こういうことになるわけで、それはほかの用語にもあらわれてる。本文じゃ「歯音」は「しおん」、「唇歯音」は「しんしおん」ってよませてて、ローマ字文の提案として「まえばおん」「まえば くちびるおん」っていうのをあげてるんだけど、ほんとはことばとしてはこっちにしたかったんだろう。でも、漢字の字づらをのこすために本文は「しおん」「しんしおん」になっちゃったんだろう。

実際にはことばをかえたいんだけど、抵抗があんまりないようにってかんがえたのか、漢字そのものはのこしてるから、訓よみするだけじゃどうしょもないようなものは、もともとのことばがのこることになった。そのために、かえたいことばはローマ字文の提案ってかたちで脚注にのせてるんだとおもう。

ところで、『世界音声記号辞典』の「訳者によるあとがき」にはこんなこともでてくる。

front/central に対する back は、もうひとつ別の問題を提供してくれる。ふつうは「後舌」という訳で言語学者に知られていると思う。しかし front 「前」にたいしては「奥」という和語が存在し、「奥舌」とする方が日本語としては優れていると考え、本書ではあえて「奥舌」で通すことにした。しかし「奥舌」としても、これを何と発音すべきかという問題が残る。

服部先生も back vowel は「後舌母音」を採用され、読み方は「こうぜつぼいん」ではなく「あとじたぼいん」であった。本書ではあえて「後舌」を「奥舌」と変更したが、そのようなわけで、読み方は「おくじた」としたいのである。

これによると、服部四郎は back vowel の翻訳語を「後舌母音」にしてたっていうんだけど、服部四郎の『音声学』だと、上にあげたとおり「奥舌母音」になってる。『世界音声記号辞典』の翻訳者が服部四郎から音声学をならったときには「後舌母音」をつかってたけど、そのあと「奥舌母音」にかえたってことなのかな。それにしても、『音声学』のこの版は1984年にでてて、『世界音声記号辞典』の翻訳は2003年にでてるんだけど。

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2009.04.17 kakikomi

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