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『ラテン語小文典』
(附 ギリシア語要約およびラテン・ギリシア造語法)

いまじゃ古本じゃないと手にはいらないとおもうけど、『ラテン語小文典』(呉茂一[くれ しげいち]・泉木吉[いずみ きよし]著、岩波書店、1957)っていう本がある。タイトルの下には「附 ギリシア語要約およびラテン・ギリシア造語法」ってかいてあって、この本の特徴はここにある。

172ページのちいさめの本で、全体は三部にわかれてる。第一部はタイトルどおりのラテン語小文典で、練習問題と解答もいちおうついてるけど、ラテン語の文法を網羅してるわけじゃない。たとえば動詞なら、変化表はひととおりそろってるけど、本文で説明してるのは直説法現在と完了だけだ。第二部は「ラテン語の造語法」「ギリシア語について」「ギリシア系語詞を用いる造語法」。第三部は「変化表」「語彙」「索引」「練習問題解答」。

この本は、これでラテン語をちゃんと勉強しようっていうもんじゃなくて、学術用語とか西洋文化の背景としてラテン語の知識をある程度必要としてるひとにむけてかかれたもので、「はしがき」にはこうかいてある。

ごく簡単なラテン語の,いわば最小限の基礎知識を叙べ,これと同時にそれらのラテン語詞が,どのようにして近代の学術語乃至は新造語に用いられるか,の説明を,ここに試みようとする次第である.
 またこのような学術用語は,大部分ラテン起源であるが,その間しばしばギリシア系語詞乃至は語根に頼るものも些くない.同時に術語としてのギリシア語の価値(例えばその α β より)ことにその造語力には注目すべきものがある.それ故,本書においてはラテン文法の最小限,ラテン造語法の説明に加えて,ギリシア語法の(全くの)一端,およびギリシア造語法にもいささか触れることにした.

この本の特徴っていえる第二部の内容がどういうものなのか、「目次」をみてもらいたい。

I. ラテン語の造語法
 §1. 派生語,学術用語としての
 §2. 複合名詞,その造り方
 §3. その類別法則
   1. 第一語が名詞の場合;
   2. 第一語が形容詞の場合;
   3. 第一語が前置詞の場合;
   4. 第一語が名詞の格形よりなる場合
 §4. 接頭辞
   1. 前置詞より;
   2. 独立しえない前綴
 §5. 形成詞(接尾辞的)
 §6. 縮小辞 -lo-
 §7. 名詞より形容詞の形成
 §8. 形容詞より名詞の形成
   1. 形容詞の名詞化;
   2. 過去分詞より;
   3. その他の形成詞で
 §9. 動詞より名詞,形容詞の形成
   1. -iō,-tiō,-tūra;
   2. -tus,-sus;
   3. -tor,-trīx ‘…する人’;
   4. -men,-men-tum;
   5. 形容詞の形成

II. ギリシア語について
 §10. ラテン語中のギリシア語;
     近代語,学術語中のギリシア語;
     そのラテン語化,造語力の豊富
 §11. ギリシア語のアルファベット
 §12. ギリシア語の発音とアクセント
   1. 古典ギリシア語;
   2. その発音;
   3. 重母音の発音;
   4. 注意すべき子音;
   5. h 音;
   6. アクセント
 §13. ギリシア語名詞変化 (1)
   1. その種別;
   2. 第一変化;
   3. 第二変化
 §14. 同上.(2)
   4. 第三変化 (a-h まで)
 §15. ギリシア語形容詞
   1. 第一,第二変化型;
   2. 第三変化型
  附 ギリシア語動詞
 §16. ギリシア系語詞のラテン化
   1. 一般方式,書き換え;
   2. ラテン語への同化;
   3. 形容詞の場合

III. ギリシア系語詞を用いる造語法
 §17. ギリシア語の有用性
 §18. その複合名詞の形成法
 §19. その実際
   1. 第一語が名詞のとき;
   2. 形容詞のとき;
   3. 前置詞,その他接頭辞のとき
 §20. ギリシア語の接頭辞
   1. 前置詞より;
   2. その他の接頭辞
 §21. 名詞その他より形容詞の形成法
 §22. 名詞の形成
   1. 形容詞より;
   2. 動詞幹より
 §23. 混合方式構成

内容の一覧としてはこんな感じなんだけど、ラテン語にはいったギリシャ語の単語と、学術用語のなかのギリシャ語についてかいてあるとこを、ちょっとながいけど紹介しよう。

 ラテン語の中には,極めて多数のギリシア語が混入している.これは昔,ことにローマの開国以後その版図の拡大につれて,まず南イタリアやついでシチリア(Sicilia,ギリシア Sikelia)島にあった多数のギリシア植民市を附庸国とし,ちょうどアレクサンデル大帝後の,ギリシア文化拡散期にあった地中海(ことに東部)世界をつぎつぎと征服し,その文化を大幅に取り入れたからに他ならない.ホラーティウスがいうように,“征服されたギリシアが却って,征服者であるローマを虜にした” Graecia capta ferum victōrem cēpit (Ep. II. 1. 156)のである.高度の文化を誇り,絢爛たる文芸や美術に飾られたヘレニズム世界は,質朴なローマ人を一挙にしてとりこにしてしまった.文化と共に当然,ギリシアの語詞もローマに流入した.日本語中にある漢語,あるいは明治以後の西欧語,ことに英語を顧みれば,この間の消息はうかがうに容易であろう.これらは,まず第一次的なギリシア語の混入である.
 しかし我々が必要とする近代語,乃至は学術語中のギリシア系語詞は,それのみに止まらない.それはむしろ近代科学の発達に伴って,製作され発見され創造された,多種多様な物品,あるいは同様な理念,概念の nomenclature として,ギリシア語の造語力が豊富な資源たる価値を認められたのに基づくといえよう.このようにしてラテン語が(殊にラテン系諸国家では)日常化によってその科学性を鈍磨消耗されたのに対し,ギリシア語はその特殊性,新鮮な魅力,本来の声音の美,第一に上に述べた造語力の強靱さ自由さによって,今日まで厖大な学術語,時には日用語の根源となって来たのである.勿論学名その他の学術語としてラテン語も大いに使用されているが,他面,殊に何かの区別を必要とするときは,手軽にギリシア系語詞が使用される.例えば動植物の種属名,医学の病名等である.
 しかし,これらのギリシア系語詞も,西欧系諸国ではラテン語の文化的伝統が抜くべからざるものであるため,まずラテン語化されて,つまりギリシア系のラテン語彙として使用される.その字綴りも,(ドイツ語のように,またイタリア語のように,それぞれ特殊な orthographie 正字法を有するものは,それとしての変化を想定して)ラテン語化されたものが用いられる.
(「II. ギリシア語について」§10.)

 ギリシア語は,近代語は固より,ほとんどあらゆる古代語中でも最も造語力に富む言語といわれる(もっとも梵語,すなわちサンスクリトは,その文章法からして別であるが).それゆえ,ラテン語といえども,この造語力ではギリシア語に遠く及ばない.従って近代の多岐に発展した科学・学術用語としても,ギリシア語のこの性能は,非常に便利かつ有効に応用され,ひろく使われるに至った.動植物名や複雑な命名構成にも,いちばん頻繁に,ひろく使用されるのは,このギリシア系の名称で,ラテン語系がこれに次ぎ,またしばしば両者を混合した,いわゆる ‘重箱式’ な名称も見受けられる.
(「III. ギリシア系語詞を用いる造語法」§17.)

nomenclature っていうのは「(学名の)命名法、専門用語(の体系)」のことだけど、こういうふうに学術用語がギリシャ語・ラテン語からつくられてるっていっても、いつまでもそういう感じとはかぎらないわけで、じっさい最先端の分野なんかでギリシャ語・ラテン語じゃない用語がつかわれてたりする。量子力学のアップ・クォークとかダウン・クォークなんていうのがそうだ。アップとかダウンとか ふだんの英語がつかわれてるし、クォークもジェームズ・ジョイスが『フィネガンズ・ウェイク』でつくりだしたことばをつかってて、ギリシャ語でもラテン語でもない。

「両者を混合した,いわゆる ‘重箱式’ な名称」については、第二部の最後、§23. の「混合方式構成 hybrid construction (‘重箱読み’ 式)」って題したとこに説明がある。

往々にして,殊に便宜を主とする近・現代科学においては,analogical に,類推をもって,稀には誤謬から,ラテン語系とギリシア語系とを混交し,随意な都合のいい語詞を,随意の方法で造りあげることがある.いわば ‘重箱式’ な読み方,造り方である.

このあとにいくつか例をあげたあと、説明がこうつづいてる。

 arteria gastro-duodenalis 胃十二指腸動脈.gaster だけギリシア系.この類は身体部位名称にかなり多い.解剖学的な名称に呼び易い方を時に択ぶからである.一般にはラテン語だが,まれにギリシア系名称が入っている.hepar ‘肝臓’ gen. hepatos (hepatis) など.
 胃の gaster,gen. gastros (gastris) も,ラテン名の ‘胃’ ventriculus (venter は ‘腹’)より,この方が形が短く,特徴的でもあるため,好んで用いられる為である.これは明瞭性(伝達の要項の一)を主とした命名方針によるとされよう.ギリシア名は,しばしばこういう理由で使用されている.

ここにでてくる gen. は属格(ラテン語:genitivus [ゲニティーウス]、英語:genitive)の略で、そのあとの hepatos、gastros はギリシャ語としての属格のかたちなんだけど、カッコのなかの hepatis、gastris はラテン語として属格に変化させたかたちだ。学名は全体がラテン語だから、そのなかにギリシャ語系の単語がでてくるときはラテン語の語尾がついてラテン語の単語になる。

「重箱式」っていってるのは(「湯桶式」もふくめてのことだとおもうけど)、重箱よみ・湯桶よみのことばが漢語と やまとことばをくみあわせたものだからで、これがちょうどギリシャ語(=漢語)とラテン語(=やまとことば)をくみあわせたことばにあたるってことだ(「重箱読み」と「湯桶読み」」)。

学術用語っていうんじゃないけど、この「混合方式構成」のことばの例をひとつあげておこう。それは television で、このことばは tele と vision をくみあわせてできてる。tele はギリシャ語の τῆλε [tɛ̂ːle テーレ](とおく)、vision のもとはラテン語の visio [ウィースィオー](みること)だ。こういう現代の用語は現代ギリシャ語にもとりいれられてるんだけど、このことばはそのまんまのかたちじゃなくて、ラテン語起源の部分をギリシャ語になおして τηλεόραση [tilɛˈɔrasi ティレオーラスィ]になってる。vision をギリシャ語の όραση (古典語なら ὅρασις [hóraːsis ホラースィス])におきかえたわけだ。

ちなみに、学者の文章にありがちだけど、この本はギリシャのことを「ギリシア」ってかいてる。『書物としての新約聖書』(田川建三著、勁草書房)の「後書き」によれば、著者のひとり呉茂一は「ギリシア」ってかくだけじゃなくて、「ギリシア」って発音してたらしい(「ギリシア」という表記について」「『書物としての新約聖書』」「「ギリシャ」のかなづかい」)。

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2009.07.12 kakikomi

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