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Grassmann の法則

ギリシャ語とかサンスクリット語に関して「Grassmann の法則」っていわれてるものがある。ここでとりあげたいのはこの法則のなかみじゃなくて、Grassmann をどうよむかってことなんだけど、でもそのまえにやっぱりこの法則そのものについてもちょっとふれておくことにする。

シャルル・ギロー(有田潤訳)『ギリシア文法 [改訳新版]』(文庫クセジュ、白水社)はこういうふうに説明してる。

(帯気音異化の法則) 同一語が2つの帯気音を含み両者が離れているとき,第1帯気音は異化(dissimuler)されて無気子音になる.例―― φύω 「生む」の完了は *φέφυκαπέφυκα となる.

帯気音は有気音ともいって、ギリシャ語には θ [tʰ]、φ [pʰ]、χ [kʰ]の3つがあるんだけど、発音記号(IPA)だと こういうふうにちいさい「ʰ」であらわされる(ギリシャ語の文字と発音:Θ θ」「〃:Φ φ」「〃:Χ χ」)。で、『ギリシア文法』にあがってる例だと、単語のあたまの有気音 φ [pʰ]が無気音 π [p]にかわって πέφυκα [pépʰyːka ペピューカ]になってる。「*」は理論的に推定しただけで文献にはあらわれないかたちにつけられる。

ほかの例をあげると、τίθημι [títʰɛːmi ティテーミ](おく)はもともと語幹の子音をそのまんま まえにかさねた *θι-θημι [tʰí-tʰɛːmi]のはずなんだけど、最初の有気音が無気音になってこのかたちになった。

『現代言語学辞典』(成美堂)にある ちがう説明のしかたもあげておこう。

印欧語において,連続した二個の音節がともに帯気音(ASPIRATE)で始まることを許さないこと.この際,第一音節が無気音となる.

『言語学大辞典 第6巻 【術語編】』(三省堂)にはもうすこしくわしい説明がある。

1つの母音に分けられた1語の中の2つの子音に帯気音が現われ,それらが同一の語根に属するとき,その1つ,普通は第1のものがその帯気性を失う.ただし,まれにはこのことが,帯気音が異なる語根あるいは異なる接尾辞に,あるいは,一方が語根に他方が接尾辞に属するときに起こるし,また,子音群の間に1つ以上の母音が立つ場合にも起こる

引用した最初のふたつは、ひとつめの有気音が無気音になるって説明してて、πέφυκατίθημι もそうなってるけど、『言語学大辞典』には「普通は第1のものがその帯気性を失う」ってかいてある。つまり、ふたつめの有気音が無気音になるばあいもあるわけで、じっさいギリシャ語にもその例がある。παιδεύθητι [paiděutʰɛːti パイデウテーティ](「教育する」の受動態・命令法・アオリスト・2人称・単数)の語尾 -τι [ti]はもともと -θι [tʰi]なんだけど、この法則によって無気音になってる。

で、本題の Grassmann のよみかたなんだけど、英語で Grassmann's law っていわれてるこの法則のことはギローの『ギリシア文法』には「グラースマンの法則」ってかいてある(原文はフランス語で Loi de Grassmann)。『現代言語学辞典』でも『言語学大辞典』でも「グラースマンの法則」だ。『言語学大辞典 第6巻 【術語編】』のこの項目の説明は、

ドイツのインド学者で数学者としても知られたグラースマン(H. Grassmann)が発見した,印欧語の語根における帯気音(有気音)の異化作用に関する法則.

っていう文章ではじまってる。でも、ドイツ語の Grassmann っていう名まえはほんとに「グラースマン」っていうふうに母音がながいのかな。

『言語学大辞典』なんていう いかにも権威がありそうな おおきなジテンに「グラースマン」ってかいてあったり、ほかの言語学のジテンでも「グラースマン」だったりするから、こういうもんなんだろうっておもいたくなるけど、このつづりの発音としてはちょっとおかしい。ss のまえの母音はみじかいんだから「グラスマン」のはずだ。

ただし、英語とかフランス語だと Grassmann ってかいてるけど、本人は Graßmann ってつづってたらしい。このつづりだと「グラースマン」の可能性もある。でも、ことばのつくりからすると そうじゃないとおもう。

最近ドイツ語のつづりがすこしかわって、ß (エスツェット)のつかいかたも まえとはちがうふうになった(つづりをかえてきたドイツ語」)。だから、いまのつづりかたに したがえば「グラースマン」なら Graßmann で、「グラスマン」なら Grassmann になるんだけど、まえのつづりかたなら、どっちの発音でも Graßmann だ。

Graßmann っていう名まえは graß と mann にわけられる。graß (おそろしい)っていう単語はいまはほとんどつかわれないんだけど、これは「グラース」じゃなくて「グラス」だ。この意味の単語としては graß からうまれた gräßlich [グレスリッヒ]っていうのがつかわれてて、これも「グレースリッヒ」じゃなくて母音がみじかいから、もとになった graß の母音がみじかいってことがここからもわかる。母音がみじかいから、このふたつはいまのつづりなら grass、grässlich になる。で、graß/grass の発音からすると、Graßmann/Grassmann はやっぱり「グラスマン」だとおもう。

でもまあ、こんなこと かんがえなくても、ドゥーデンの発音辞典(Duden, Band 6: Das Aussprachewörterbuch)でもみてみりゃ はなしはかんたんだろう。ってことで Graßmann をみると、

ˈɡrasman

っていう発音がのってる。つまり「グラースマン」じゃなくて「グラスマン」なわけだ。

じゃあ、なんで「グラースマン」ってことになっちゃったのかっていうと、たぶん英語の発音のせいだろう。

『独和大辞典 第2版』(小学館)にはこの名まえはのってないんだけど、『新英和大辞典 第6版』(研究社)には Grassmann と Grassmann's law っていう項目がある。Grassmann のとこをみると、英語としての発音は「グラースマーン、グラースマン」で、ドイツ語としては「グラスマン」だってことがはっきりかいてあるし(もちろん辞書にのってるのは発音記号)、説明文にあるカタカナだって「グラスマン」だ。それから Grassmann's law のほうは、

グラスマンの法則《連続した二音節がともに帯気閉鎖音を含む時,一方(ふつう前)が帯気性を失うという一種の異化現象で,サンスクリット,古代ギリシャ語に見られる(…)》.

っていう説明で、こっちも「グラスマン」だ。

『ランダムハウス英和大辞典 第2版』(小学館)にもおんなじ項目があるんだけど、つづりがまちがってて、Grassman、Grassman's law になってる(n がたりない)。で、この辞書でも発音は英語としては「グラースマン」で、ドイツ語の発音は「グラスマン」だ。それなのに Grassman の説明文のカタカナは「グラースマン」で、Grassman's law も、

グラースマンの法則:サンスクリット語や古典ギリシア語で,子音が相次ぐ2個の音節に生じると異化が生じて,通例,最初の1つが帯気音ではなくなり,サンスクリット語では有声閉鎖音,古典ギリシア語では無声閉鎖音となるという法則.

っていうふうに「グラースマン」になってる。

カタカナがきのことはともかくとして、こうしてみると、英和辞典にも Grassmann のドイツ語の発音は[ˈɡrasman]だってはっきりかいてあるし、英語の発音は[ˈɡrɑːsmən, ˈɡrɑːsmɑːn]になるらしい(ほかの英語の辞書をみると[ˈɡræsmən]っていう発音ものってる)。だから、「グラースマン」っていうのは英語なまりだろう。

ドイツ語の名まえなのに言語学のジテンはなぜかこの英語なまりをつかってることになるけど、おもしろいことに、英語関係の本だと、『英語学事典』(大修館)も『新英語学辞典』(研究社)も「グラスマン」だ。おおきい英和辞典にドイツ語の発音がちゃんとかいてあるからかな。

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2009.10.02 kakikomi

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