« エコの語源 | トップページ | いろはうた(5) 無常和讃といろは和讃 »

いろはうた(4) 弘法大師和讃と宗歌

いろはうた(1) とりあえずどういう意味か」にちょっとかいたけど、いろはうたは弘法こうぼう大師だいし空海(774-835)がつくったっていわれてきた。これは学問的にはみとめられてないけど、空海がはじめた真言宗しんごんしゅうの信仰としては、やっぱりそういうことになってて、「弘法大師和讃わさん」にもそのことがよみこまれてる。和讃は いろはうたとおんなじ七五調の形式だから、いろはうたをそのまんまとりこめる。

つぎに、『仏前勤行次第』(高野山真言宗教学部、1983)にのってる「弘法大師和讃」から、いろはうたのことがでてくるとこをみてみよう。

わが日本ひのもと人民ひとぐさ
文化ぶんかはなさかせんと
金口こんく真説しんせつ四句しく
国字こくじつく短歌みじかうた
いろはにほへどちりぬるを
わがよたれぞつねならむ
うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみじゑひもせず
まなびめにし稚子おさなご
ならうにやすふであと
されども総持そうじ文字もじなれば
ればるほど意味いみふか
わずか四十七しじゅうしちにて
百事ひゃくじつうずる便利べんりをも
おもえば万国ばんこくあめした
御恩ごおんけざるひともなし

文語文だけど、「仮名遣いは現代仮名遣いに統一すべく努めた」って本の最後にかいてあるとおりで、旧かなづかいじゃない。ただし、いろはうたは「現代仮名遣い」にはなってない。文章そのものは特別むずかしくはないとおもうけど、仏教用語がでてくるから、それをちょっと説明すると、まず、「金口」っていうのは仏の口のことで、シャカの説法のことをいってる。「偈」は詩のことで、「金口の真説四句の偈」っていうのは、「いろはうた(2) 無常偈」にかいた「無常偈」のことだ。これを「国字に作る短歌」つまり日本の文字で歌にしたのがいろはうただっていってるわけだ。でも、いろはうたって「みじかうた」なのかなあ。五七五七七じゃないのに。

「総持」はダラニ(धारणी dhāraī [ダーラニー])の翻訳語で、ようするに呪文みたいなものだ。ながいのがダラニで、みじかいのが真言(मन्त्र mantra [マントラ])っていわれてるみたいだけど、サンスクリット語(梵語)の「ダーラニー」はもともと「もつ、たもつ、ふくむ」っていう意味の動詞からうまれたことばで、おしえをこころにとどめてわすれさせないとか修行者をまもる力がある一種の呪文のことをいってる。おしえをこころにとどめるってことでいうと、もともとシャカのころから、呪文じゃないけど、おしえを要約した詩をとなえるってことをしてたし、無常偈はまさしくそういうもので、いろはうたが無常偈の翻訳ってことなら、たしかに「総持」って感じだろう。それに、梵語のダラニに対して和歌が日本語のダラニだっていわれてきたことも関係なくはないかもしれない。

ちなみに、「いろはうた(1) とりあえずどういう意味か」でもふれたみたいに、いろはうたの4行めを「ゆめみし」なんてよんだりするようなはなしがあるけど、ここにでてくるいろはうたは「ゆめみじ」っていうふうに「じ」になってるし、『仏前勤行次第』の最後にのってる「宗歌 いろは歌」でもやっぱり「じ」だ。

で、その「宗歌 いろは歌」だけど、開祖がつくったってことになってるだけあって、いろはうたは高野山真言宗の宗歌になってて、御詠歌ごえいかみたいな哀愁をおびた短調のメロディーがついてる。御詠歌は短歌に節をつけたもので、七五調とか五七調に節をつけたのは和讃だから、「宗歌 いろは歌」も和讃ってことになるのかもしれないけど、ひろい意味では和讃もふくめて御詠歌っていうことがあるらしい。下の MIDI のロゴをクリックすると、MIDI ファイルでつくったメロディーがきける。
MIDI

歴史的な事実としては、いまの研究でいわれてるとおり、いろはうたは空海がつくったものじゃないだろう。でも、そうだとすると、真言宗のたちばとしては、このあたりのことはどうかんがえてるんだろうなあって、ひとごとながら、ちょっとかんがえないでもない。で、勝手にいろいろ空想してみると、空海がつくったっていえるような可能性もなくはないとおもう。っていっても、この世にいきてるときの空海がつくったっていうんじゃないんだけど。

ひとつには、いまのオモテむきの常識(っていうか迷信)にさからわない方向でかんがえるなら、空海の精神をうけついでるひとがつくったっていうのがあるかもしれない。いろはうたは真言宗の僧侶がつくったんじゃないかって説があるから、そうだとすると、真言宗の僧侶なんだからとうぜん空海の精神をうけついでるわけで、そういう意味じゃ空海の精神がつくらせたことになる。それが伝説として弘法大師がつくったって表現されたのかもしれないし、つくったひとが自分の作を大師がつくったことにしたのかもしれない。日本各地にのこってる弘法井戸とかの伝説にしても、真言宗の関係者の活動がもとになってるのかもしれないから、そうだとすれば、それとにたようなことだ。ただこれだと、やっぱり実際に空海がつくったっていうのとはちがうことになる。

もうひとつは、つくったのが真言宗のひとじゃなくてもいいんだけど、空海からインスピレーションをあたえられて、いろはうたをつくったってことがかんがえられるとおもう。ただし、インスピレーションをあたえられたっていうのは、むかしの空海の活動をしって、そのことから創作の刺激をうけたとかそういうことをいいたいわけじゃない。ここでいうインスピレーションっていうのは、おもいつきとかそういうことじゃなくて、もともとの意味のインスピレーション、つまり霊感だ。

だいたい、なにかをおもいつくってことにしても、それがどこからきたのかは本人にもわからない。無意識のうちに目にはいったことからおもいつくこともあれば、潜在意識からうかびあがってくるものもあるだろう。さらに、なにかの存在からインスピレーションをふきこまれることもある。最近のことばでいえば、チャネリングだ。つまり、空海から霊感をふきこまれたひとが、いろはうたをかいた。べつのいいかたをすれば、あの世の空海がこの世のだれかをとおして、いろはうたをつくった。そうかんがえれば、この世にいきてたときの空海がつくったわけじゃないってことが事実でも、そのことと、いろはうたをつくったのは空海だってことは矛盾しない。

もちろん、これは可能性のはなしにすぎないし、歴史の研究からはたしかめようがないことだ。かりになんかの史料が発見されて、いろはうたの作者がはっきりしたとしても、それだけじゃいまいったことについてはけっきょくなんともいえない。その作者に弘法大師からおつげがあったなんてはなしがのこってたとしたらべつだけど。だいたい、チャネリングみたいなことについては、そういうことがわかるひとが直接事実を確認する以外ない。でも、いろはうたについて、そういうことがいわれてるかどうかはしらないけど。

そういえば、こんなことをいうと、仏教は霊魂をみとめてない、とかいう声がどっかからきこえてきそうだ。でも、いまのはなしは空想だけど、あくまで事実の問題としてかんがえてて、思想の問題のつもりはないから、仏教思想が霊魂をみとめてるかどうかなんてことは関係ない。仏教思想としてどういうことがいわれてるかで事実がかわるわけじゃない(仏教は霊魂を否定してるのか」)。

シャカ:釈迦。 ダラニ:陀羅尼。

関連記事
 ・いろはうた(1) とりあえずどういう意味か
 ・いろはうた(2) 無常偈
 ・いろはうた(3) 《浪花いろは節》
 ・いろはうた(5) 無常和讃といろは和讃
 ・仏教は霊魂を否定してるのか

2009.11.16 kakikomi; 2011.01.06 kakinaosi

|

« エコの語源 | トップページ | いろはうた(5) 無常和讃といろは和讃 »