いろはうた(5) 無常和讃といろは和讃
高野山金剛流でうたわれてる和讃には、いろはうたをよみこんだものがある。「無常和讃」と「いろは和讃」っていうのがそうなんだけど、もともと いろはうたが「無常偈」を翻案したものだっていわれてるから(→「いろはうた(2) 無常偈」)、いろはうたはそのまんまでも「無常和讃」みたいなもんだ。
まずは、『高野山金剛流御詠歌教典』(第十八版、高野山金剛講総本部)にのってる「無常和讃」をみてみよう(かなづかいは原文のまま)。
霞にまごう桜花[
錦[ 織[ りなすもみじ葉[ も
夜半[ の嵐[ にさそわれて
いろはにほえどちりぬるを
流[ れ静[ かに行[ く水[ と
人[ の命[ の定[ めなく
呼[ べど帰[ らぬ鹿島[ だち
わがよたれぞつねならむ
黒白[ も分[ かぬ冥府[ の路[
独[ りの旅[ と思[ いしに
大師[ の御手[ に導[ かれ
ういのおくやまきょうこえて
嬉[ しやこゝは密厳[ の
浄土[ なりけりあなとうと
諸仏[ 菩薩[ に守[ られて
あさきゆめみじえいもせず
4行ひと組で、いろはうたの1行ずつの内容、ってことは「無常偈」の1行ずつの内容をうたってる。
まず最初の4行をみると、もともと「いろはにほへどちりぬるを」には「なにが」っていう要素がないんだけど、ここにはそれがあって、「桜花」と「もみじ葉」がそうだ。霞みたいに一面にさきほこってるサクラも、錦の織物みたいなモミジも、夜中の嵐のために、色あざやかであっても結局はちってしまう。
つぎの4行のうちの3行めの「鹿島だち」は「旅だち」のことで、旅だちっていうのは、しぬことだ。しずかにながれてく水のように、ひとの いのちは いつどうなるかわからなくて、しんでしまえば、いくらよんでも、かえってこない。この世でいつまでも かわらないで いきてるひとなんていない。
そのつぎの4行の最初「あやめ」は「黒白」って漢字をあててるけど、ことばそのものに即して漢字をあてれば「文目」で、目にみえる模様のことだ。くらくて、もののかたちもわかんないことを、「あやめも わかぬ」っていうわけだけど、そういうまっくらなあの世の道をひとりであるいてくものだとおもってたら、弘法大師に手をひかれて、山奥みたいな まよいの世界をこえてく。弘法大師っていえば、お遍路さんの「同行二人[どうぎょうににん]」なんていうのがあるから、べつに しんだあとじゃなくても、いきてるうちから弘法大師といっしょにあるいてるっていう信仰があるわけだけど、ここでは、あの世でもみちびいてくれるっていってるわけだ。
最後の4行の「密厳の浄土」っていうのは、真言密教の本尊、大日如来[だいにち にょらい]の浄土で(たいてい「密厳浄土」っていって「の」はないけど)、「あな」は「ああ」っていう感嘆詞、「とうと」は「とうとし(たふとし)」の語幹。大師にみちびかれて、彼岸[ひがん]の浄土にたどりついて、うれしいことに、ここは大日如来の仏国土だ、ああ、ありがたい。たくさんの如来とボサツにまもられて、あさい夢をみることも、よっぱらうこともない。
つぎは「いろは和讃」のほうをみてみよう。ほかの宗派でも「いろは和讃」っていうのがあって、たいていは いろはを おり句にした和讃になってる。つまり、最初の1行が「い」ではじまる文章で、つぎの行が「ろ」ではじまって、そのつぎが「は」ではじまるっていうふうにつづいてく。でもこういうものは、いろはうたの意味とは関係ない内容だから、ここではとりあげない。高野山金剛流の「いろは和讃」は、「無常和讃」とおんなじように、いろはうたそのものをよみこんだ和讃になってる。『高野山金剛流御詠歌教典 続編』(第十版、高野山金剛講総本部)から引用する(かなづかいは原文のまま)。
色[ は匂[ へど散[ りぬるを
散[ らぬ言葉[ の花[ がさく
我[ が世[ 誰[ ぞ常[ ならむ
時[ の明[ け暮[ れ矢[ の如[ し
有為[ の奥山[ 今日[ 越[ えて
我等[ は大師[ のみ子[ となる
浅[ き夢[ 見[ じ酔[ もせず
我[ れ人[ 共[ に悟[ らなん
この文章はとくに説明は必要ないとおもう。おんなじ いろはうたをよみこんだ和讃でも、ちょっと方向性がちがう。
ちなみに、いままでなん度もふれたみたいに、いろはうたの4行めを「ゆめみし」なんていうふうによんだりするようなはなしがあるみたいけど、ここでとりあげた和讃でもふたつとも「ゆめみじ」っていうふうに「じ」になってるし、「し」っていうのはやっぱりおかしいとおもう。
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2009.11.19 kakikomi
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