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ギリシャ語の「ξ」「ψ」の発音

ギリシャ語の Ξ/ξΨ/ψ は二重子音をあらす文字で、ラテン文字(ローマ字)にうつせば ξ は ks か x、ψ は ps になる。

ふるい碑文だと、地方によって、ξψ のかわりに χσ (khs)、φσ (phs)がつかわれたり、κσ (ks)、πσ (ps)がつかわれたりしてた。

χσφσ っていうつづりからすると、ξψの発音は[kʰs][pʰs]だったってことになりそうだけど、κσπσ ってかいてる地方もあるわけだから、それからすると[ks][ps]になる。

こういうつづりのちがいは、地方によって発音がちがってたからだって説明されたりするし、そうかんがえれば はなしはかんたんだ。でも、χσφσκσπσ かは文字にするときの解釈のちがいによるもので、発音そのものはとくにちがってなかったともかんがえられるとおもう。

ひとつの可能性として、うしろに無声の持続音 /s/ がつづいてるから k と p は有気音 /kʰ/ /pʰ/ に感じられたってことがあるかもしれない。有気音のあとに ρ (r)がつづくと、気音の要素がその ρ にうつって ρ は無声音になるんだけど(ギリシャ語の文字と発音:Ρ ρ」「無声音になる流音」)、そういうふうに、有気音の気音の要素が、つぎにつづく無声の持続音として実現することがあるわけだから、逆に、無声の持続音がつづいてる閉鎖音が有気音として解釈されたとしてもおかしくないだろう

それにそもそも[kʰs][pʰs]っていう発音には疑問がある。古代の文法家がいってることとちがうし、グラスマンの法則(Grassmann の法則」)で説明される発音の変化とも矛盾する。

古代の文法家は、ξκσ で、ψπσ だってはっきりかいてるわけで、χσφσ だとはいってない。それに、単語の変化形で χφ のあとに σ がつづいて つづりが ξψ になるとき、χφ は有気音じゃなくなるっていってる。

たとえば「もつ」って意味の ἔχω (ekhō)っていう動詞の未来形は ἕξω (heksō)で、こういうふうに χ に未来形の語幹をつくる σ がつくと、有気音 χ が無気音 κ にかわって κσ (ks) になる。これを ξ ってかいてるわけだけど、この ξ の k が無気音だってことは、グラスマンの法則からもわかる。

現在形の ἔχω と未来形の ἕξω をくらべてみると、途中の子音がちがうだけじゃなくて、未来形には最初に h があるのがわかる。この動詞はもともとはあたまに h があって、現在形も *ἕχω (hekhō)のはずなんだけど、2番めの音節に有気音の χ があるから、気音がつづくのをさけるために、グラスマンの法則によって最初の h がなくなった。それなのに、未来形のほうには h がある。これは、気音がつづいてないからからこそ h がのこってるわけで、このことから ξ (ks) の k は有気音じゃないってことがわかる。

グラスマンの法則のほかの例もあげると、動詞の θάπτω (thaptō)「埋葬する」と名詞の τάφος (taphos)「葬式、墓、埋葬」で、最初の子音が、動詞のほうは有気音の θ (th)なのに、名詞のほうは無気音の τ (t)だ。θάπτω のほうは有気音がつづいてないからもともとの θ がのこってるんだけど、τάφος には有気音の φ (ph)があるから、有気音がつづくのをさけるために、最初が有気音じゃなくなって無気音の τ になった。θάπτω の未来形は θάψω (thapsō)なんだけど、これは最初の子音が有気音のまんまだから、現在形とおんなじことで、有気音がつづいてないってことがわかる。つまり ψ (ps)の p は無気音だ。

それから、φ をラテン語で ph ってうつしたローマ人は、ψ をうつすのに phs とはしないで ps ってかいた(ξ のほうは x)。

こうしてみると、ξψ の k と p は有気音じゃなかったとおもうんだけど、それでも、アッティカ地方とかのふるい碑文とならんで、有気音をあらわす文字をつかってる例がほかにある。それはアルメニア語で、ギリシャ語からはいった単語をアルメニア文字でかくときに、ξψքս (ks)、փս (ps)ってかいてる(ローマ字の「」は気音をあらわしてる)。ただし、アルメニア文字がつくられたのは紀元5世紀のことだから、この記録はそれよりあとのものってことになるんだけど。

地方によってつづりがちがうのは発音がちがってたからだっていう説明にならうんなら、こういうちがいは時代によって発音がちがったからだってかんがえることもできるかもしれない。ただそうだとすると、グラスマンの法則の例としてあげたみたいな単語のかたちができたのがまずはいちばんふるいとして、そのときは無気音だったけど、そのあとの碑文のころには有気音になって、ラテン語にうつされたころは無気音で、文法家が説明をつけたころも無気音で、アルメニア語にうつされたときはまた有気音になって、…なんてことになるから、ちょっとどうかとおもう。

古代ギリシャ語の発音を説明した本には、ξψ の k と p にはよわい気音があったんじゃないかっていってるものがある。アルメニア語のことからすると、たしかにそうだったのかもしれない。ただし、いつでもそうなんじゃなくて、ばあいによってちがってたってこともありえるとおもう。

ゆっくり発音するときと、はやく発音するときとで、発音にちがいがでてくることがあるけど、ξψ の k と p にしても、その可能性はあるだろう。はやく、っていうか、いわゆるナチュラル・スピードのときは気音ははいらなくても、意識してゆっくり発音するとよわい気音がはいるなんてことがあったかもしれない。k と s、p と s をはっきりわけるように発音すると、閉鎖音(破裂音ともいう)の k と p は閉鎖するだけじゃなくて、破裂する部分もはっきりでてくるから、そういう発音だと息が外にでるわけで、当然よわい気音をともなうことになる。χσφσ っていうつづりは、そういう発音をうつしてるのかもしれない。

はやさによる発音のちがいとしては、べつの可能性もかんがえられる。k と s、p と s をムリにわけるんじゃなくて、自然なつながりのまんまゆっくり発音するとしたら、たとえば ξα (ksa)、ψα (psa)は[ks-sa][ps-sa]っていう感じになったかもしれない。[k][p]が破裂すると同時に発音が[s]にうつって、まずは[ks][ps]になる。そのあとその[s]がつづいたまんまで母音にうつる。そうだったとすると、この[k][p]は無気音だけど、[ks][ps]の部分が有気音みたいに感じられて、χσφσ っていうつづりになったともかんがえられる。結局は、上にかいた、うしろに無声の持続音がつづいてるから有気音に感じられたんじゃないかっていうのとおんなじことだけど。

ゆっくりな発音としては、[kks][pps]っていうのもありえるかもしれない。これは、[k][p]を発音するときまずは破裂しないで、発音が[s]にうつるときに破裂がおこるってかんがえたばあいだけど、これだと閉鎖音+流音のくみあわせについてかんがえたみたいな発音になる。でも、閉鎖音+流音についてはそのかんがえのささえになるようなつづりが碑文にあるけど(ギリシャ語の「閉鎖音+流音」の発音」)、[kks][pps]にあたる κκσππσ っていうのはないみたいだし(あったりして…)、いま問題にしてる χσφσ っていうつづりとはむすびつかないから、これはかんがえなくていいだろう。

ってことで、ξψ の k と p にはよわい気音があったってこともかんがえられるだろうけど、ばあいによって、っていうか特殊なばあいにだけよわい気音がはいったとか、やっぱり無気音だったとか、そうかんがえても、ふるい碑文に有気音をあらわす文字でかかれてることの説明はつくとおもう。

それに、よわい気音がはいってたとしても、χφ とおんなじ有気音に分類できるような音だったわけじゃない。そのことは、文法家の説明とかグラスマンの法則からはっきりしてるし、地方によって発音がちがったんじゃなければ、κσπσ っていうつづりがあることからもそういえるだろう。つまり、実際の音声としてはよわい気音がはいってたのかもしれないけど、音素としては無気音のほうに分類されるものだった。

碑文のつづりとか文法家の説明は、なんていうか、あとからつけた解釈だけど、グラスマンの法則で説明される発音の変化は意識的な説明以前のもので、そういうレベルで無気音としてはたらいてるんだから、ξψ の k、p は無気音としてかんがえとけばいいんじゃないかとおもう。

さらにいうなら、個人的には、音素として無気音だったっていうだけじゃなくて、音声としても無気音だったってほうにかたむいてる。グラスマンの法則のこともあるし、有気音をあらわす文字をつかったつづりのことも説明できるとおもうからだけど、/ks/ /ps/ の発音としてそのほうが自然なんじゃないかっておもうのもある。

たとえばドイツ語の /k/ /p/ は基本的に気音がはいる。つよい気音のばあいとよわい気音のばあいがあるけど、とにかく有気音なのがふつうだ。でも、/ks/ /kʃ/ /ps/ /pʃ/ っていう子音の連続になると、/k/ /p/ のあとに音節のきれ目がなければ気音ははいらない。/k/ /p/ を破裂させた息は気音にならないですぐ /s/ /ʃ/ の音をつくりだすからだ。もちろんこのことから直接古典ギリシャ語の発音がわかるわけじゃないけど、ある程度の参考にはなるだろう。

現代ギリシャ語の ξ、ψ をきいてみると、/s/ の音で息が外にでてるわけだから気音があるみたいな印象もうけるけど、やっぱり /k/ /p/ は有気音じゃなくて、すぐ /s/ の音になる。これだって、このまんまが古代の発音だったってことにはならないけど、古代の有気音 χφ が現代語で摩擦音の /x/ /f/ になったのに、ξψ のほうは /xs/ /fs/ にはなってなくて /ks/ /ps/ のまんまだってこともふくめて、参考にはなるだろう。

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2010.01.25 kakikomi

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