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文語訳聖書と欽定訳聖書のちがい

聖書を引用するとき、いまでも文語訳聖書をつかうひとがいる。たしかに、口語訳にしても新共同訳にしても、いい日本語とはいえないだろう。それじゃあ、文語訳のほうは、っていうと、文語文として名文ってわけじゃないのに、ただ文語文だから いい感じがするだけだったりしないのかな。

こういうふうに あいかわらず文語訳聖書がいいっていうひとがいることについて、たとえば英語圏でも、いまの英語訳じゃなくて、むかしの欽定訳がすきなひとがいるじゃないかってはなしになるかもしれない。

たしか、このふたつには共通点がある。でも、これをまったくおんなじようにおもってるとしたら、おおきなちがいをみのがしてることになるだろう。

欽定訳聖書は1611年にでたものだから、ふるめかしい英語なんだけど、それでも日本語でいう文語っていうようなものとはちがう。文語訳聖書は近代の人間がかいた文章だけど、文語は簡単にいえば古文で、文語文のもとになってるのは平安時代の文法だ。「口語文」っていう名まえの かきことばができるまでは、日本語のかきことばは平安時代の文法にしばられてたわけだ。

ところが、欽定訳の英語はあくまでも近代英語で、古代英語でも中世英語でもない。発音はいまとはかなりちがってたにしても、つづりをなおせば、それほどいまの英語とかわりないし、もとのまんまのつづりでも、そんなにちがうわけじゃない。これに対して、文語文を現代のかなづかいにしたからって、いまのかきことばみたいなものになるわけじゃない。

「信じる」っていうのは、すこしふるい いいかただと「信ずる」になる。さらに文語なら「信ず」になる。文語訳聖書はこの「信ず」にあたることばで、口語訳とか新共同訳は「信じる」にあたることばなわけだけど、欽定訳は日本語にたとえるなら「信ずる」ぐらいの感じだっていえるかもしれない。

ようするに欽定訳は日本語でいう文語訳じゃないわけで、これがおおきなちがいだ。だから、文語訳がいいっていうのを正当化するのに、欽定訳のことをもちだしたとしても、ちゃんとした比較にはなってないし、正当化することにもならない。

ちなみに、このサイトにある欽定訳の例文としては「シェークスピア、46、欽定訳」にのせた詩編と「「主の祈り」(4) 英語」がある。

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 ・シェークスピア、46、欽定訳
 ・「主の祈り」(4) 英語

2010.11.28 kakikomi

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