« ながい母音を無視する(?)ドイツ語のカタカナがき | トップページ | 電話の「米印」と「シャープ」 »

○○は神」「神○○
―― 日本語の「かみ」とギリシャ語の「テオス」

ネット用語なのかな、「神」をつかったある種のいいまわしを目にすることがある。

すごいひとのことを「○○は神」なんていったりするのはそれほど特別ないいかたとはおもわないけど、ひとじゃないものについて「○○は神」っていったり、ドラマとかの「神回かみかい」とか、「神曲」とか「神演奏」とか「神動画」とか「神ゲー」とかいうのは、ちょっとおもしろい。

こういうのをみるとギリシャ悲劇のある一節をおもいだす。エウリーピデースの『ヘレネー』560行に夫と再会したヘレネーのこういうセリフがある。

ὦ θεοί· θεὸς γὰρ καὶ τὸ γιγνώσκειν φίλους.

 [ɔ̂ː tʰĕǒi|tʰeós ɡár kǎi ɡiŋnɔ̌ːskeːm pʰíluːs]

 ――∪―|――∪―|――∪―

 神がみよ、いとしいひとだとわかることも神なのですから。

韻律はイアンボス・トリメトロス(古代ギリシャの韻律:イアンボス・トリメトロス」)。ここでは θεοί は1音節。

このセリフについて岩波の『ギリシア悲劇全集』の注には、

「神々」とよびかけたことへの説明。「いとしい者をそれと認める、認知する」という行為そのものが「神」と考えられている、擬人(神)化。

ってかいてある。「行為そのものが『神』と考えられている」っていうのはいいんだけど、それを「擬人(神)化」っていうのはどうなんだろ。っていってもそのばあいの「神」がどういうものかによるけど。ただ「擬神化」っていうんならいいとしても、「擬人化」とかさねてることからすると、人間のすがたをした神話の神がみみたいなものになぞらえてることになるとおもうから、それだとちょっとちがう感じがする。

「神」はギリシャ語で θεός [tʰeós テオス]だけど、このギリシャ語について W. K. C. ガスリー(式部久・澄田宏訳)『ギリシアの哲学者たち』(理想社)にはこんなことがかいてある。

プラトンの宗教観を理解しようとする場合、宗教または哲学の学徒であるわれわれは、彼が多神論者であったか一神論者であったかの問題を重く見る。しかし、この monotheist とか、polytheist という言葉はともに、ギリシア語の語形をしているが、実は近代になって、ギリシアにはなかったこの近代的な分け方をさももっともらしく装うために、造語されたものである。われわれは、プラトンの用いた言葉を―― それもしばしば翻訳で―― キリスト教やインドその他の神学者の言葉と比較する。しかし、おそらくもっとも大切なことは、ドイツの古典学者ヴィラモーヴィツのすぐれた指摘を心に留めながら、プラトンの母国語の特質を計算に入れることであろう。彼の言うところでは、プラトンの神について語る場合に心に浮ぶギリシャ語のテオスは、本来、叙述語の意味をもつものである。すなわち、ギリシア人は、キリスト教徒やユダヤ教徒のように、始めに神の存在を断言し、次いで「神は善である」とか、「神は愛である」などと言って、その属性を列挙していったのではなかった。むしろ彼らは、人生の過程や自然の事物の中の喜ばしいもの恐ろしいものに強く感動し畏怖したから、「これは神である」とか、「あれは神である」とか言ったのである。キリスト教徒は「神は愛である」と言うが、ギリシア人は「愛はテオス(すなわち「神」)である」と言う。また、ある人はそれを次のように書いて説明している。「彼らが、愛は神である、勝利は神である、もっと正確に言えば、一つの神であると言うのは、まず第一に、それが人間以上のもの、死すべからざるもの、永世のものだという意味である。この世界において作用しているいかなる力も、それがわれわれと生まれをともにせず、死後もなお存続しているかぎり、一つの神と呼ばれることができたし、そのほとんどはそう呼ばれたのだ。」(G. M. A. Grube, Plato’s Thought (Methuen, 1935), p. 150.)
 こういう心性をもち、こうした敏感な感情をもって、わが身にふりかかる出来事の超人的な性格に接し、おのれの理解しえぬ喜びや苦しみのほとばしりに心を動かされながら、ギリシアの一詩人は次のような詩句を書くことができた。「愛しき人に巡り合うは神なり」(エウリピデス『ヘレネ』560行)と。この心情こそ、プラトンは一神論か多神論かという論争多い問題に、明らかに小さからぬ関連をもっている。

英語の monotheist [ˈmɒnəʊθiɪst モノウスィイスト]は「一神論者、一神教徒」、polytheist [ˈpɒliθiɪst ポリスィイスト]は「多神論者、多神教徒」で、ギリシャ語からつくったことばだ。「ギリシャ語の語形をしている」ってかいてあるけど、こまかいことをいえばギリシャ語の語尾はついてない。ドイツ語なら Monotheist [monoteˈɪst モノテイスト]、Polytheist [polyteˈɪst ポリュテイスト]、イタリア語なら monoteista [monoteˈista モノテイスタ]、politeista [politeˈista ポリテイスタ]、フランス語なら monothéiste [mɔnɔte.ist モノテイストゥ]、polythéiste [pɔlite.ist ポリテイストゥ]で、現代ギリシャ語にも逆輸入されて μονοθεϊστής [mɔnɔθɛ.iˈstis モノセイスティス]、πολυθεϊστής [pɔliθɛ.iˈstis ポリセイスティス]になってる。

ギリシャ語のテオスが「叙述語の意味をもつ」っていうのがでてくるけど、これは「○○は神」「神○○」の「かみ」にもあてはまるだろう。

○○は神」っていういいかたは、たとえば「神わざ」とか「神がかり的」とかじゃなくて、ただ「神」っていってるとこにおもしろみがある。これだって神話の神がみみたいなイメージをおもってるわけじゃないだろうから「擬人(神)化」とはちがうとおもうし、かといって「神わざ」とかのいいかたを省略したって感じでもないとおもう。このいいまわしをつかってる世代のひとは、なんかすごいことに「神わざ」とか「神がかり的」っていうことばはつかわないんじゃないかな。

っていっても、もしかしたら起源はなにかの省略かもしれないけど、そうだとしても、このいいかたそのものは省略されたあとのいいかたなわけで、このいいまわしそのものは起源になったのかもしれないことばとはべつものだし、語源から いまのことばの意味とかニュアンスがわかるわけでもない。「○○は神わざだ」っていうなら「神」そのものっていいかたじゃないけど、「○○は神」っていったら、このいいまわしの起源はともかくとして、ことばとしては「神」そのものっていいかたになってるし、そこがつよい印象をあたえるとこだろう。

関連記事
 ・キリスト教と日本語の「かみ」
 ・古代ギリシャの韻律

2011.08.20 kakikomi; 2012.10.09 kakikae

|

« ながい母音を無視する(?)ドイツ語のカタカナがき | トップページ | 電話の「米印」と「シャープ」 »