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『20ヵ国語ペラペラ』

けっこうふるい本で、種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』(実業之日本社)っていうのがある。そのなかの「20ヵ国語上達の記録」っていう章には英語以外の約20ヵ国語の学習歴が年代順にまとめてあって、「古典語<ラテン、ギリシア語>」のとこにはこういうことがかいてある(表記は原文のまま)。

 いずれも実用性のない、教養としてのことばであるが、基本文法はマスターした。
 ラテン語では、呉茂一「ラテン語入門」(岩波書店)や外国語によるラテン語文法書を二冊ほど。
 そのほかシーザーの「戦記」やタキトウスの著作などを、フランス語訳がついた双書で読んだ。ギリシア語は、古川晴風「ギリシャ語四週間」(大学書林)で古典ギリシア語の鳥瞰を得た。
 現在、翻訳などの仕事はいっさいない。古典語はなぜか落書に格好なことばである。

「フランス語訳がついた双書」っていうのは Budé のことなのかな。ギリシャ語・ラテン語で対訳になってるものっていえば英語訳がついてる Loeb もあるけど、フランス語訳つきのほうにしたのはなんでなんだろ。たまたま手にはいっただけのことなのかもしれないけど。

約20ヵ国語ってかいたけど、古典語はとりあえずしゃべるもんじゃないとすると「ペラペラ」からはずれるから、ラテン語とギリシャ語をぬかせば、この章にでてくることばはちょうど20ヵ国語だ。

「翻訳などの仕事はいっさいない」ってかいてあるけど、ほかのことばには翻訳とか通訳の仕事のことがちょこちょこでてくる。

最後の「古典語はなぜか落書に格好なことばである」っていうのがちょっと印象にのこった。この本の「体験的速修術29項」の章には「効果絶大、落書のすすめ」っていう項目がある。

 落書はたのしいものである。書くのも見るのも。それが便所の壁であれ、お寺の柱であれ。そして、アレの絵でもナンの文句でも。芸術作品というものも、要するに落書のすました発表ではあるまいか。
 わたしは落書奨励者である。自由で孤独なその作業は、人間の表現のために、大いに奨励する価値があると信じている。ところで、語学もまた表現の技術を習得する勉強である。だから、落書をこれに利用しても決しておかしくはないのである。
 わたしは机の上に、いつも白紙をひろげておく。そこにいつでもまめにメモをとる習慣がある。電話を聞きながら、片手はエンピツをもって、紙上になにか書いている。人と会って話をしているときも同じ。一人でいるときは自分相手に空想したり、思いだすままに、単語や文章や絵を書いている。これがわたしのいう落書である。わたしの経験からいうと、これは習慣になると、そうせずにはいられなくなるもののようである。幸か不幸か、わたしには便所の芸術家的習性はないが、自分の机の上の紙にたいすると、ひとりでにエンピツを手にするくせがついている。
 わたしがこの落書の習慣をすすめるのは、語学勉学者にとって、これはスペルの認識に強くなる適法だからである。とくに綴りと発音が自然と結びつきにくい英語、デンマーク語、フランス語などには、これはかなり効果がある。そればかりではない。書いて見つめていると、その文字に愛着さえ感じるようになる。また、スペルと発音のちがいにも気づく。そういうふうにして文字を覚えると、聞いたことばをすぐ文字化することができるようにもなる。
 もちろん、単語を書くだけではない。思いつくままに文章も書く。だから、この落書は、作文力にも通じるわけである。わたしはしばしば短い文章や詩を書く。一字一字ていねいに、できるだけ美しく書く。ある日は、ノルウェー語で雪の街の感想文を。あるときは、スペイン語で架空の恋文を。
 わたしは落書は芸術に通じる、と書いたが、事実そう思っている。そこらの広告ビラのように書き捨て、読み捨てにするものではない。だから、わたしの落書は走り書きではなく、いつも清書である。わたしはそれを保存していて、ときにとりだしてみることもある。そこに自分の進歩のあとも見られる。
 そうかといって、落書は落書なのだから、書道展出品のような気持で書くわけではない。自由で、気ままに、楽しく遊ぶように書くのである。しかも、学習上の効用性があるのだから、おすすめしたくなるのも当然であろう。
 たとえば、長い単語のスペルなど、見て覚えるより、書いて覚えたほうが手っとり早く、また確実である。さらに書いていくうちに、接頭語―語幹―接尾語の組み立てもはっきりわかる。
 わたしのデンマーク語は、この落書の効用によって会得したものである。ほとんど勉強らしい勉強はしなかった。というのは、デンマーク語はスウェーデン語によく似ている。それに気づいてから、ひまをみては既得のスウェーデン語をベースにして、スペルをデンマーク語におきかえる遊びを始めた。スペルを変えながら新しい架空の単語をつくり出し、辞書であたったところ、その言葉が実在していたという経験さえある。とにかく、疑問に行きあたったら辞書をひいて正しくする。その遊びをつづけているうちに、自ずとわたしはデンマーク語を会得したのであった。

ただし参考書もよんでることはよんでて、「20ヵ国語上達の記録」のデンマーク語のとこには「文法は、Bredsdorff の入門書と “Teach Yourself Danish” の二書を読破」ってかいてある。仕事としては「技術関係のデンマーク語英翻訳は学生時代にずいぶんした」。

「20ヵ国語上達の記録」のアラビア語のとこにも印象にのこった文章がある。

 いつからの習慣か覚えていないが、手帳のメモは全部アラビア語で書いている。

速記の文字はアラビア文字ににてる感じだし、アラビア文字は はやく かけそうだ。それにアラビア語は母音をかかないから、そのぶんも はやくかけるだろう。でもメモするときいちいちアラビア語に訳してるってことになるんだよな…。アラビア文字でローマ字みたいにかいてるとか? でも「アラビア語」っていってるもんな。

「体験的速修術29項」には「映画館へはテープレコーダー持参で」なんていう時代を感じさせるとこもある。いまだったらDVDをかりるか かえば すむことだけど。

おんなじ章にある「はじめての単語を絶対忘れない方法」っていうのもちょっとおもしろかった。辞書をひいたら、

 第一に、ひいた単語から、すぐに目をはなしてはいけない。単語につくづくと見入ることである。どんなことばでも、印刷された単語は、どれをとっても固有の格好をもっている。その特徴から得た第一印象をだいじにする。
 第二に、その単語の意味を考える。たくさんある意味のうち、まず、第一義だけを読みとり、頭の中で反復し、想像力をはたらかせながら、絵に復元しつつ、また単語に目を移し、さらにまた見つめる。そして、がまんできるかぎり長い間ねばる。
 第三に、なん度か声に出して発音してみるとよい。しかし、ささやき程度におさえておく。そうしているうちに、その単語のスペルの特徴と意味とその音が溶けあってくる。
 この方法をうまく利用すると、一度しか辞書で調べていないのに、その単語は、与えられた意味以外もち得ないように感じられてくる。すなわち、単語はすべて一種の擬声語として覚えられるのである。

ほかにもいろいろおもしろいことがかいてある。ふるい本だから図書館の本か古本ってことになるだろうけど。

2011.09.07 kakikomi

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