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丸いアール、3種類のエス、ドイツ語以外のエスツェット

ドイツ語にはエスツェット(ß)っていう独特の文字がつかわれてる。エスツェットはギリシャ文字のベータ(β)みたいなかたちだけど、ながいエス(ſ)とツェット(z、ゼッド)の結合文字で、そのことはドイツ文字をみるとよくわかるとおもうし(ドイツ文字(フラクトゥーア)とドイツ語の筆記体」)、ながいエスに英語のゼッドの筆記体をくっつけてもおんなじようなかたちになる。エスツェットがつかえないときは ss で代用するんだけど、おんなじドイツ語でもスイスじゃエスツェットをつかわないから、かならず ss になる。

エスツェットはいかにもドイツ語って感じなんだけど、ドイツ語以外にもつかわれてたことがある。たとえばバロック時代のフランスの作曲家シャンボニエールの『クラブサン曲集第1巻』(Pièces de clavessin, livre premier. Paris, 1670)をみると、エスツェットがでてくる。フランス語の序文とかのほかに、ラテン語の詩なんかもあるんだけど、フランス語にもラテン語にも ss のかわりにエスツェットがつかわれてる(エス・エスからできてるエスツェット」「エス・エスからできてるエスツェット(つづき)」)。それに ながいエスもあるし、エスの変種もあるし、丸いアールもある。

これはタイトル・ページで、2行めの Claueßin にエスツェットがある。クラブサン(=チェンバロ、ハープシコード)のつづりは clavecin だけど、当時 clavessin っていうのもあって、それがここだと v が u、ss が ß になってる。ほかにもこの本には v じゃなくて u がつかわれてるのがたくさんあって、このページでも最後の2行に Auec priuilege と Liure がある。これは v をつかえば Avec privilege、Livre になる。逆に u のかわりに v になってるのもほかのページにある。

このページでほかにちょっとおもしろいのは、5行めの Paris と6行めの Jacques だ。Paris のアールとエス、Jacques のエスがだいぶちがうかたちをしてる。まずアールだけど、これは丸いアール(r rotunda)とか半分のアール(半アール、ハーフ・アール)とかいわれてる、数字の2みたいなかたちのアールで、ここではまえの a につながってる。

丸いアールが半分のアールっていわれるのは、これが R のタテ線をはぶいたものだからだ。もともとゴシック体のアールのひとつで、b とか o とか p とかの右側が丸い文字のつぎにつかわれた。「シェークスピア、46、欽定訳」のページに画像をのせた欽定訳聖書のゴシック体にも丸いアールがでてくる。

丸いアールはこの曲集の序文にもつかわれてる(クリックで拡大)。

本文の1行めの後半にある ouurages がそうだけど、ここでも v が u になってて、いまのつづりなら ouvrages だ。

もうひとつ、『クラブサン曲集第2巻』の序文のタイトル Preface にも丸いアールがつかわれてる。

ところで、タイトル・ページにある Paris の丸いアールはまえの文字からつながってて筆記体みたいな感じだけど、これをみれば、英語とかフランス語の筆記体のアールの起源がわかるんじゃないかな。英語の筆記体のアールは r とはずいぶんちがうかたちをしてるけど、それはもともとこの丸いアールの筆記体だからだ。

つぎにエスのことだけど、序文には発音記号の ʃ みたいな ながいエスもあるし(2行めの reſoudre、perſonnes とか)、一般的なエスもあるし、筆記体みたいなエスもあるし、タイトル・ページの Paris と Jacques のエスもある。一般的なエスと筆記体みたいなエスをいちおうおんなじエスだとすれば、この曲集には3種類のエスがつかわれてることになる。

このエスの起源もゴシック体にある。ただしひろい意味のゴシック体だけど。丸いアールはせまい意味のゴシック体つまりテクストゥーラからあったのに対して、このエスはテクストゥーラじゃなくて、フランスのバタルド体(Bâtarde、ふるいつづりだと Bastarde)のエスがもとになってる。

テクストゥーラをくずして かきやすくした書体が各国でおんなじころにうまれて、バスタルダ(Bastarda)って総称されてるけど(英語なら Bastard)、そのうちドイツのものが いわゆるドイツ文字(フラクトゥーア)になって、イギリスのは(バスタード・)セクレタリー体、フランスのはバタルド体っていわれてる。

この画像はゴシック体の一種 バタルド体のエスだ。一般的なエスは左右にあいてるとこがあるけど、これはそこが両方ともくっついちゃってる。これをもっとくずしてかけば、この曲集につかわれてるエスになる。

このエスは序文の10行めの agreemens と13行めの certains にあるけど、Paris にしても Jacques にしても、つかわれてるのは単語の最後のエスだ。

おわりにもうひとつ。序文の最後には ſuiuantes っていうのがでてくるけど、この e がまたかわったかたちをしてる(ここでも v じゃなくて u になってるとこがあるから、いまのつづりなら suivantes だ)。

左のバタルド体の e をみてもらえばわかるとおもうけど、e と s はにてるとこがあって、それをくずした右の書体でもにたような感じになる。ſuiuantes の e は、この大文字の E の筆記体みたいな e で、e の下半分が t のヨコ線からつながってて、上半分が s につづいてる。このことからもわかるように、この e は下半分を先にかいて、上のちいさいカーブをあとからつける。Paris の s もおんなじことで、ふたつのちいさいカーブをあとからつける。このかき順はバタルダ体でもかわりはなくて、さいしょに c みたいなカーブをかいて、そのあとループになるとこをつける。

クラブサン:クラヴサン。

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 ・エス・エスからできてるエスツェット
 ・エス・エスからできてるエスツェット(つづき)
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2012.03.30 kakikomi; 2013.11.26 kakitasi

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